異動を命じる
屋敷に戻り、護衛や他の使用人たちにソフィーの身に起きたことを伝えてはやくも一ヶ月が経った。
ソフィーの話を聞いた者たちの反応は三者三様で、魔法に馴染みがないせいか信じられないという反応をとる者も少なくはなかったが、ソフィーが嘘をつくような人間ではないことはみんな知っていたので素直に怖がっている者もいた。
侯爵家の旦那様はソフィーのことを心配してくれて、お嬢様も時折体調を気遣ってくれるが、ソフィーはとくに問題はない。
魔法をかけられたこと自体は驚いたが、体調的な不振はまったく出ていない。もうすっかり元通りだ。
「次は洗い物〜」
ソフィーはご機嫌に鼻歌を歌いながら軽い足取りで屋敷内を移動する。つい先程洗濯物を干し終えたので、今度は厨房の洗い物の手伝いをする予定になっている。
家事が大好きなソフィーは、洗い物や掃除などがとくに好きだった。
あの汚れた状態から綺麗になっていく工程が可視化されているのがたまらない。自身の行った仕事量が目に見えてわかるのはとてもいいものだ。頑張ったんだなって感じがして自分で自分を褒めたくなる。
「そろそろご褒美に甘いものでも買いに行こうかな」
ソフィーうさぎ化事件以降、ソフィーやお嬢様を含め、屋敷の人間は誰もあの謎の魔法使いの攻撃を受けていない。平和的な日常が戻り始めていた。
これなら街に買い物に行ってもまたあの魔法使いに会うことはないだろうと判断して、ソフィーは毎日頑張っている自身へのご褒美として週末あたりにご褒美を買いに行こうと計画を立ててにんまりと笑った。
厨房に向かう足取りはさらに軽くなっていく。
「うふふ」
プリンにタルト、定番のショートケーキ。いやいやクッキーやドーナツも捨てがたい。
ソフィーは洋菓子店のショーウィンドウに並ぶ美味しそうなお菓子の品々を思い返して頬を緩めた。
「あっ、ソフィー!」
「はい、なんでしょう? 今日はこれから厨房のお手伝いに行く予定ですが」
るんるんと軽い足取りで屋敷の廊下を歩いていると背後から名前を呼ばれて振り返る。そこには侍女としての振る舞いを教えてくれた先生とも呼べる存在のメイド長がいた。
ソフィーは簡潔に今日の予定を告げる。たまに予定がブッキングすることがあるので、それを防ぐためだ。
「厨房の手伝いはいいの。それよりソフィーは今すぐ応接間に行って。これは旦那様からの命令よ」
「私が、ですか?」
「ええ。ソフィーじゃないとダメらしいわ」
メイド長はそれだけ言うと、急ぎ足で庭の方へと向かった。おそらくこれから庭師と庭の植物について話し合いがあるのだろう。いつも忙しそうにしているところばかり見かけるが、ちゃんと休憩は取れているのだろうか。
ソフィーはふとそう心配したが、メイド長が疲労で倒れたことがないことを思い出し、杞憂だなと首を振った。
それより今は応接間に向かうのがなによりの最優先事項だ。
旦那様に呼び出されることなんてそうそうない。ソフィーはお嬢様の侍女であって、旦那様には旦那様の侍女がいる。だから廊下ですれ違ったときに話をすることはあっても、わざわざ呼び出しを受けるのはもしかしたらこれが初めてかもしれない。
今日客人が来るという情報は耳にしていない。ということは客人に茶汲みをするわけではないだろう。なのに呼び出されるということは、なにかやらかしてしまったのだろうかと胸をざわめかせて、走らない程度の速度で足早に応接間に向かった。
「ソフィーです」
応接間の扉をこんこんとノックして名乗る。すると扉の向こうから旦那様の声が聞こえて入ってくるようにと言われた。
ソフィーはおとなしく指示に従って応接間の中に入った。
「どうかされましたか?」
応接間の中には旦那様以外にも奥様、そしてお嬢様もいた。三人はソファーに腰を下ろして部屋に入ってきたソフィーを見つめていた。
「申し訳ない……いや、この言葉は先方に失礼か……いや」
「あの……?」
旦那様は口を開いてソフィーになにか言おうとしたが、ごもごもと口籠ってしまった。額に手を当て、眉間に皺を寄せている。なにやら相当困っているようだ。
「実はソフィーに……ソフィーをとある方が屋敷に迎えたいと言っていてね」
旦那様は少し心苦しそうに、そう言葉を漏らした。
「それは……異動、ということでしょうか?」
言葉を発したソフィーの喉が少しばかり震える。
屋敷の異動。それはつまりソフィーの勤務地がこの侯爵家ではなく、別の屋敷、別の主人になるということ。
正直な話、主人たちや同僚たちに恵まれていたこの屋敷を出て行けと言われるのは結構つらい。ソフィーはこの侯爵家が大好きだったのだ。ショックを受けるなと言う方が無理がある。
「……まぁ、そういうことになる、のかな……」
歯切れの悪い返答をする旦那様に奥様が鋭い視線を向けた。
「あなた、もう少しシャキッとしてくださいまし」
「そうなのだわ。お父様がそんな言い方していたらまるでソフィーが悪いことをしたから、このお家を追い出すって言っているように聞こえてしまうのだわ」
「ああ、いや! そんなつもりはない! ソフィーはよく働いてくれている。うちの娘のわがままにもいつも応えてくれているし、他の使用人たちからの評判だっていいんだ。本当はこのままうちの屋敷で働いてもらいたい……が」
奥様とお嬢様の言葉にぶんぶんと首を横に振った旦那様の歯切れがまた悪くなった。視線を落とし、なにか考え込んでいるようだ。
しかし、お嬢様たちの言葉を聞いて安心した。
屋敷を異動しろというのはべつにソフィーがなにかやらかしてしまったから、という訳ではないらしい。
「ソフィーを屋敷に迎え入れたいと言う人は私より高貴な方でね。私なんかが断るなんてできない相手なんだ。だから私は……ソフィーに異動を命じなければならない」
旦那様は顔の前で手を組むとまっすぐにソフィーを見つめると、もう一度口を開く。
「ソフィー。きみには屋敷の異動を命じる。次の勤め先で励みなさい」
「……はい」
旦那様の言葉にソフィーは頭を下げた。
ソフィーはこの侯爵家に勤める侍女。旦那様に命じられたからにはどんな命令でも応えなければならない。
――本当のことを言うと、不安だった。
旦那様の命令を断るつもりはない。しかしこの屋敷を出て、新しい屋敷で新しい主人に仕える。どんな相手かもわからないまま。
不安が高波のように襲ってきて、目が潤んでしまうのはしかたがないことなのだ。
ソフィーは涙をこぼさないようにぐっと堪えて、下唇を噛む。
頭を下げていてよかった。今のこの顔をみんなに見られなくてよかった。ソフィーは心からそう思うと、さっと顔を上げて表情を見られないようにすぐに扉の方へ体を向けた。
「では、私は荷物をまとめます」
「ああ、急なことで申し訳ない」
「いえ。頑張ります」
ソフィーはつい数十分前までとは違った足取りの重さで自身の部屋に戻った。
できるだけ、誰にも出会わない
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