ああ、おそろしい
「ああ……」
生まれて初めての絶望的展開にソフィーは深く息を吐いた。この姿から戻る方法がわからない。なにより自分がソフィーという人間だということを証明することもできないのだ。
きっとこのままのたれ死んでしまうのだろう。
「はい、これでいいかしらね」
ソフィーの心労を知らぬ老婆は皿に野菜の端切れを盛ってソフィーの前に置いた。
もちろんこんな状況で食事などする気分にはならない。
「うう……」
「あらあら、体調が悪いの?」
ソフィーがぺたりと地面に伏すと、老婆は心配そうにソフィーを持ち上げた。
体調が悪いわけではない。しかしどうすればいいのかわからなくなって、ソフィーの脳は思考を停止しかけていた。
「失礼、マダム」
「あら?」
精神的ストレスでぐったりとしたソフィーと、それを心配そうに見つめる老婆。二人しかいなかったはずの空間に突如男性の声が聞こえたかと思うと、ソフィーは浮遊感を覚えた。
どうやら突然やってきた男性がソフィーを老婆から預かるようにして抱きかかえ直したようだ。
ソフィーの真っ赤な瞳が男性の姿を捉えた。彼はすらっとした体格で、薄い青色の髪を後ろで結っている。どことなく人間離れした、神秘的な雰囲気を纏っていた。
「あの……?」
ソフィーは無駄だと思いながらも男性に声をかけた。きっとこの声も彼らにはキューキューという鳴き声にしか聞こえないのだろうが。
「大丈夫」
男性はそっとソフィーの頭を撫でると、おでこにあたる位置にふっと息を吹きかけた。
「え? って、きゃあ!」
男性の行動の意図が掴めずソフィーが目を丸くしていると、先程までとは違う重力を感じてソフィーは思わず悲鳴を上げた。
急に体が重くなったことに驚いて目を白黒とさせて、やっとのことでソフィーは自身の体が元の人の姿に戻っていることに気がついた。
ソフィーは男性に両脇を抱えられる形でぷらーんと持ち上げられている。
「あっ、え、えっと……助けてくれてありがとうございます。けど、その、降ろして欲しいです……!」
ソフィーは顔を赤らめて懇願した。体が元に戻ったのは正直に言って嬉しいことだ。しかしこの体制はあまりにも恥ずかしい。
「なっ、なん、う、うさぎがっ、女の子に!」
顔を真っ赤にしたソフィーに、老婆は心底驚いた表情を浮かべていた。驚きのあまり腰が抜けてしまったのか地面にへたり込んでいる。
「これはどこかの魔法使いの悪戯でしょう。変身魔法をかけられていたみたいですね。でももう大丈夫です。悪質な魔法は解きましたから」
そっとソフィーを降ろした男性は淡々と説明する。
ぱらりと耳からずれ落ちた髪は路地裏に微かに溢れた太陽の光を反射して輝いていた。その美しい髪に思わず見惚れてしまう。
「ま、ほう……これが魔法というやつなのですね。その、改めてありがとうございます。助かりました。これでお嬢様のところへ戻れます」
「いえいえ」
ハッと男性に向いていた意識を元に戻すとソフィーは頭を下げた。もう元の姿に戻ることは不可能かと思われたが、男性のおかげで戻ることができたのだ。
人間の姿に戻れたのだから胸を張って屋敷に戻れる。不思議な体験をしたが、これも過ぎれば笑い話になるだろう。
屋敷に戻って使用人たちに警戒の意味も込めて話してみようと思う。もしお嬢様がうさぎにされてしまったりしたら大変だ。
今回はたまたま魔法を解除できる男性が通りがかってくれたからよかったものの、次に誰かが姿を変えられることがあったとして、そのときに魔法を解除できる人が近くにいなければ今度こそ元の姿に戻れなくなるだろう。
もしまた変身魔法をかけられたとして、解除できる魔法使いを探すこと自体はできるだろうが、まず動物に姿が変わってしまっている時点で他の人が変身させられていることに気が付けない。ここが難点だ。
侍女として、お嬢様の安全を第一に考えるのは当然のことなので護衛たちにも不審な魔法使いがいた情報を共有するべきだとソフィーは考えた。
「それでは僕は失礼しますね」
「あっ、はい……あの、本当にありがとうございましたー!」
顎に手を当てて考え込むソフィーに軽く頭を下げると男性は颯爽とその場を立ち去ってしまった。
考え事に熱中してしまっていたソフィーはハッと顔を上げて、遠く離れていく男性の後ろ姿に届くように大きな声で再度礼を言った。
彼には何度礼を言っても足りないくらいだ。本当は感謝の意を込めてなにか返礼の品を渡したかったが、男性は振り返ることなく大通りの方へと消えていってしまった。
「お嬢ちゃんは強いねぇ」
「え?」
男性の姿が完全に見えなくなったとき、老婆がよっこらせと立ち上がりながらつぶやいた。意図がわからずソフィーは聞き返す。
「だって、姿を変えられるなんて……あたしゃ魔法というものを初めて見たが、怖くてしかたがなかったよ」
そう言って老婆は皺だらけになった手で自身の肩をさすった。身を縮こませて視線は下がり気味だ。
変身魔法を恐れているようにも見えるが、ソフィーには老婆が先程の男性にすら怯えているように見えた。
「でも、あの人は私を助けてくれましたよ。たしかに姿が変わったことに気がついたときは慌てて、もう元の姿には戻れないのかなって心配しましたけど」
「お嬢ちゃんにかけられた魔法を解いたってことは、あの男の子も魔法使いってやつなんだろう? ああ、おそろしいおそろしい」
ぶるぶると体を震わすと、老婆は廃墟の中に戻っていった。
ソフィーからしたら先程の男性は助けてくれた良い魔法使いだと思うのだが、老婆にとってはどうやら違うらしい。
この地域には魔法というもの自体にあまり馴染みがないせいか、自身が使えない技を使える魔法使いすら恐怖の対象に入ってしまいがちのようだ。
かくいうソフィーも魔法というものは初めてかけられたし、魔法使い自体今日見たのが初めてだ。
「でもあの人はいい人だったと思うけどなぁ……」
魔法使いというだけで怖がるのは失礼だと思いながらも、考え方は人次第なのでソフィーは老婆との会話をそれ以上せずに屋敷に戻ることにした。
チリリと一羽の小鳥がソフィーたちの頭上で鳴いていた。
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