真っ白なうさぎさん

「ふふ」


 今度は軽やかな笑い声が聞こえた。しかしやはり誰の姿も見当たらない。どこからかわからないが、姿なき誰かの声だけが路地裏に響いていた。


「あの、誰、ですか……?」


 ソフィーが少し怯えた様子で尋ねる。

 見知らぬ土地で、どこからか聞こえる不思議な声。恐怖を感じないはずがなかった。


「あはッ」


 その姿が声の主にとっては愉快だったのか、軽やかな笑い声が響く。

 軽やかでありながら、心をざわざわと騒ぎ立てる不気味な笑い声。少年のような、それでいて青年のような、なんとも言えない気味の悪さを感じる声。


「誰なんですか?」


 この声の主に心当たりはない。ソフィーが少し強めに問いただすと、


「こっちだよ」


 背後から目を手で覆い隠されて視界が暗くなる。耳元で響く声に驚いてソフィーは目隠しされたまま勢いよく後ろを振り返った。


「なにっ⁉︎」


 困惑するソフィーの背後には誰もいない。いつの間にか目元を覆っていた手もどかされていた。


「な、なんだったの……?」


 ソフィーはつぶらでくりっとした瞳をぱちぱちと数回瞬きさせて、こてんと首を傾げた。

 周囲に人の気配はなく、どうやら先程までどこかに隠れていたであろう声の主もどこかに行ってしまったらしい。


「ああ、もう。そんなことより早くお屋敷に戻らなくちゃ!」


 わけのわからない人物にいつまでも構っていられるほど暇ではない。ソフィーは路地裏を進もうと足をぴょんと前に出して、なにかに引っかかって転んだ。


「あいたたた……」


 転んで打った頬をでさすって足元に視線を向けた。そこにはソフィーの使い慣れた、先程まで持っていたはずのカバンの紐が足に絡まっていた。


「……あれ?」


 そしてここでやっと自身の変化に気がついた。

 カバンの紐が絡まったソフィーの足――後脚は随分と短く、白い毛で覆われていた。


「な、なん……どういうこと⁉︎」


 ソフィーが慌てて視線をきょろきょろと動かすと、野良猫がいたごみ箱、ソフィーの持っていたカバン、太陽を遮蔽する建物の壁。そのどれもが先程まで見えていた景色と変わっていた。

 具体的に言うと見た目自体はなにも変わっていない、変わったのはその大きさだ。


「なんか私以外の物が全部大きくなっている⁉︎」


 ソフィーは混乱して、必死にぴょんぴょんと飛び跳ねながら屋敷が建っているであろう方向へ向かった。しかしその途中で壁に寄せかけてあったひびの入ったガラス窓を見て動きが止まる。


「……え?」


 ひびが入って放置されたガラス窓。そこに反射して映っているのは良くも悪くもどこにでもいそうな平凡な茶色い髪の侍女――ではなく、全身を真っ白な毛に覆われた、くりっとした大きな目が特徴のうさぎさん。


「ど、どういうこと⁉︎」


 ソフィーは混乱して頭を抱えた。するとガラス窓に反射したうさぎも口をパクパクと動かして、その小さな白い前脚で頭を抱えていた。


「なん、なんで?」


 困惑しながらもソフィーは一歩ガラス窓に近づき、まじまじとガラス窓に映るうさぎを見つめる。ぴこぴこと揺れる耳を持ったうさぎはガラス窓越しにその真っ赤な瞳でソフィーを見つめ返していた。


「どこからどう見てもうさぎさん、だわ……」


 その場でくるりと一回転してみるが、なんの変化もない。ただ、ガラス窓に映るうさぎがソフィーと同じ動きをするだけだ。


「そんな……」


 どうやらソフィーはうさぎになってしまったらしい。

 にわかに、いやだいぶ信じられないことではあるが、実際ガラス窓に映るソフィーの姿はうさぎそのもので、なによりソフィーの視点が普段より低くなって周囲の物が大きく感じることが、ソフィーがうさぎになってしまったことを認めざるをおえない気持ちにさせた。


「どう、しよう。これじゃあお嬢様のところに帰れないわ」


 ソフィーは屋敷に向かうべく歩みを進めていた。しかしこの姿ではたとえ屋敷に戻れたとしても、この真っ白なうさぎがソフィーだと信じてもらえないだろう。

 捕獲されてペットにされるならまだマシな方。下手をしたら丸焼きにされてしまうかもしれない。


「そんなのはいや! 誰か! 誰か助けて!」


 自身に待ち受ける悲痛な未来を想像してソフィーは鳴いた。するとその声に気がついたのか、誰もいないと思っていた廃墟のように屋根が潰れてしまっている建物の奥から老婆が出てきた。


「あらあら、こんなところにうさぎが……迷子になってしまったのかしらねぇ」


 老婆はソフィーのふさふさになった小さな体を両手で持ち上げると抱きかかえて頭を撫でた。


「違うんです、私はソフィー! うさぎじゃなくて人間なんです! どうか助けてください!」


 ソフィーが老婆に懇願すると老婆は頬を緩ませて笑った。


「あらまぁ、キューキュー鳴いちゃって、お腹が空いたのかしら?」

「キューキュー言ってません!」

「はいはい、そんな元気に鳴かなくてもちょっとならご飯分けてあげるからねぇ」


 そう言って老婆はソフィーを下ろすと、建物の奥へと入っていった。


「べつに私はお腹が空いているわけではないのです!」

「もう、急かさないの」


 ソフィーは何度も老婆に向かって現状を伝えようと会話を試みた。しかし返ってくる返事はご飯を用意してあげるからもう少し待ってねの一点張り。

 そこでソフィーは最悪の可能性に気がついてしまった。


「……もしかして、私の言葉、通じてない?」


 何度老婆に助けを求めても、自分は人間だと伝えようとしても、老婆はなんの反応も見せなかった。会話がうまく噛み合わないのだ。それはつまり、ソフィーの言葉が老婆に伝わっていないということになる。


「私はソフィーです。この近くにある侯爵家に仕えている侍女なんです」

「かわいらしいうさぎねぇ。キューキュー鳴いちゃって」


 もう一度、冷静に現状を伝える。しかし結果は想像通りのものだった。


 老婆は先程からうさぎソフィーがキューキュー鳴いていると言っている。ソフィーが人の言葉を話しているはずにもかかわらず、だ。


 つまりソフィーはそんなつもりはないのに、勝手にうさぎ語を話してしまっているのだろう。ソフィーは人の言葉を話しているのに、勝手にうさぎ語になって口から音が漏れていく。


 どう考えても、絶望的な状況だ。だって言葉が通じないなら、屋敷の使用人たちに自分がソフィーであることを伝える手段がなくなってしまったということなのだから。

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