見えた
開閉する、扉の側面には。ラッチと呼ばれる、先端が三角形に突き出るような、留め金が付いている。
それは、取っ手と連動しており。外枠にある凹みへと、スライドする仕組みである。
扉を開くためには、そのストッパーをどうにか引っ込める必要があるのだが─。
室内を見渡すと。手洗い場の隅に、トイレットペーパーの芯が立っていた。
掴むや縦に破り開き。ドアノブを回しながら、扉の隙間へ下から挟み入れる。
そして、捻り込むように作動を試みると・・・紙が滑り上がり、カチャンと音を立てた。
(試して良かった!)
ほっとしたのも束の間。
ノブを引っ張ると、扉の方が微動だにしなかった。
(なぜ)
押してみても、ガタガタと揺れさえしない。まるで、空間に打ち付けられたように固定してある。
(建付けが原因か?)
こうなると、自力で開けることは不可能だ。別の選択肢を考える他ない。
せめて、子どもが安全なのか。確認したい。
『ココダヨ』
俺は、個室の左隣りにある。細めの扉を開けた。
中は、人ひとりが入れるほどの狭さで。最低限の清掃用具と。底の深い、スロップシンクが設置されている。
ふと、外出先の施設には。小さな丸印が付いた、トイレの点検表が。壁に貼られていることを思い出す。
荒業で、扉をぶち抜くような真似はしないと思うが。
(修理を頼むに連絡した方が・・・。それに救助を呼んだ方が良いかもな)
手前から、ブラシやモップなどを通路に移動させ。
バケツに掛かった雑巾で、乾いたシンクを拭くと。
呼吸をゆっくり、整えた。
まずは、目線の高さほどにある。洗剤が並んでいた、コーナー台へと両手を付く。
そして、シンクの縁にある滑り止めに足を乗せる。
そのまま慎重に、腰を浮かせ。個室を隔てる梁に目掛け、右手をしっかり掴むと。何とかその場に立ち上がる。
次に、正面の壁に左手を支えながら。左足を台に沿うように乗り上げると。身体を個室の方へと向き直る。
安定を図ると、勢いを付けて壁際に寄りかかった。
あとは、綱渡りのようにジリジリと足の指で進むと。
少し高めの位置から、個室の中を覗くことができた。
目下には、洋式トイレのタンクがある。その横には。
天井を見上げる、幼い顔。
子どもは、便座の蓋に手を付いて座っていた。
がくっと後ろにのめり、俺の存在に気付くと。
ぼろぼろと涙を零した。
瞬間、俺は梁を跨ぎ─宙にぶら下がって着地する。
すぐさま彼のもとに向き合うと、背中を擦った。
「大丈夫。何も寂しくない。君は君の味方だから」
自分でも驚くほど。穏やかな、優しい声が出た。
すると、ぎゅっと胸に飛び込まれた拍子に、体勢が崩れ。尻餅をついた。
扉に背中を預けると、少年の頭を撫でる。
彼が落ち着くまでは、そっとしておこう。
(・・・さっきの言葉。姉ちゃんから聞いたな)
昔は方向音痴だったのか。俺は、よく迷子になっていた。
あれは、神社の参道で、徒歩に暮れていたとき。
紫色の空に、連なる灯籠。そして、姉が探しに来てくれた光景は、ぼんやりと覚えている。
何より、気持ちが一掃されたような・・・胸いっぱいに安堵した記憶は、懐かしい。
(姉のような。誰かを支えられるような人になりたいって。誓ったんだ)
変わらない想いを胸に刻むと、勇気が湧いてきた。
(この子と一緒に、脱出する)
見上げると、両側に隔てる界壁より、扉の方が少し低い。移動するなら、こちらからになりそうだ。
背中に回された手が、少しずつ緩んでいく。
(君にはもう少しだけ、頑張ってもらわないとな。あ)
もし忠実に、警察官の姿を再現しているならば。何か装備しているかもしれない。
例えば、帯革という。警棒などを差し込んだベルトは─。右手で腰を擦ると、確かに硬い感触を掴んだ。
(もしホイッスルがあれば、一稀を呼べるな。俺が肩車して、扉を乗り越えてもらうか・・・)
ごそごそと服を探っていると。
俺から離れた少年が、不思議そうにこちらを見る。
「飴、舐める?」
ポケットから、包み紙を見せた。これは、履いてきたパンツに入れていたものだ。
『うん!・・・もしかして、食べ物で誘おうとしてる?』
嬉しそうな顔が、一瞬で訝しげに変わった。
「違っ。でも、口に含んだら危ないか」
『何、薬入り?』
「そうじゃない。救助のときに喉に詰まらせ─」
バンッ!と音がし、俺は後ろのタイルにひっくり返った。
「チカ!」
腰を折り曲げた一稀が、逆さまに顔を覗かせる。
「は?お前どうやって開けたんだよ!」
「・・・普通に?」
一稀の視線を追うと。少年が気まずそうに顔を背けた。
「こいつは、俺のツレ」
「こんにちは」
一稀が、当たり障りのない笑顔を見せた。
『仲間・・・?』
知らない人が増えたことに、スッと顔を青褪める。
「あー。何もしないから、ほら。外に出るぞ」
あっさり扉を通り抜けると。何かを忘れているようで。
(ん?)
窓辺の通路に出したはずの清掃用具が、綺麗になくなっていた。収納扉を開けると、整然と置かれてある。
俺が片付けるにも。元の場所には戻せないので、負い目を感じる必要はないが。
「チカ?」
少年に付き添っていた一稀が、呼び掛ける。
「いや。何でも」
出口に向かおうとして。くんっと何かに躓いた。
床には丸い排水溝や、銀色の四角い枠縁があるだけだ。
(足首を掴まれた訳・・・ないよな)
視界が開け、草木の匂いを吸い込むと。肩の力が解れる。
どうやら、日中の蒸し暑い気温は落ち着いたようだ。
「何はともあれ。君が無事で良かった」
少年は目立った怪我もなく。足取りもしっかりしている。
「それじゃ、気をつけて」
荷物を取りに、一稀とベンチへ向かう。
すると、後ろから上着の裾をきゅっと摘まれ・・・。
『ぼく、お家にまだ帰れないの。一緒にいてくれる?』
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