五.ここマンションだぞ……
週刊文節に掲載予定の、僕に関する虚偽の記事に対し、取り下げ命令を出した次の日。僕はスキップをしながら枚方城へ向かった。
「お疲れ様でッス! 齋藤さま、良いことでもあったんスか?」
軽ノリチャラ門番の森田が、明るい茶髪の毛先をいじりながら聞いてきた。
「まあね。絶体絶命を乗り越えたんだよ」
「齋藤さまはいつも乗り越えてるじゃないスか。何を今更」
僕は指を前に出し、ノンノンと左右に振る。
「そういうことじゃないんだ。今回はパターンが違うんだよ」
「なるほどッスね!」
絶対分かってないだろ。僕は詳しく説明することもなく、御用部屋へ向かった。
御用部屋を開くと、蜂須賀がちょこんとソファに座っていた。
「ああ! 申し訳ございません! 私がこのソファに無断で座るなど! ああ私はなんてことを!」
勢いよく立ち上がり、机にひざをぶつける。その反動で机に飾られている花瓶がグラグラと揺れた。
バリィィィン。
あちゃあ。
「ああ! 申し訳ございません! 拭きます! いや、拭かせてください!」
僕は、焦る蜂須賀の肩を押さえる。これ以上動かれた被害が広がりそうだ。
「いいから。座ってて。僕が掃除するから」
「そんな! 齋藤さまのお手を煩わせるなど私にはできません!」
蜂須賀は僕の手を振りほどき、雑巾を取りに行こうとする。床にこぼれた花瓶の水に、足を滑らせ、顔面から転ぶ。
「大丈夫!?」
僕は、倒れて動かない蜂須賀に駆け寄り、ひざの上で抱きかかえる。
「なんで……どうして」
蜂須賀は、頭から流血しながら目に涙を浮かべ、鼻水も垂らしている。
「当たり前のことを当たり前にしたいだけなのにっ!」
僕の小袖の胸のあたりを掴み、顔をこすりつけ鼻水を拭いた。本当に上司だと思ってる!?
「大丈夫。ちょっとおっちょこちょいなところも含めて、蜂須賀だから。とりあえず医務室へ行こう。そんなに血を流して、心配だよ」
「齋藤さま。なんでそんなに優しいんですか」
蜂須賀はグスンと鼻をすすり、また僕の小袖にこすりつけた。
「なんでだろうね。蜂須賀を怒る気にはなれない。頑張っているのは伝わるから」
僕は蜂須賀の頭を、蜂柄ベレー帽越しに優しく撫でた。
「……もっと撫でてください。痛みが和らぐ気がします」
蜂須賀は目を閉じ、完全に僕に身を預けている。
「いや、早く医務室へ行った方がいいんじゃない?」
……。
黙るなよ!
僕はしばらく蜂須賀の頭を撫で続ける謎の時間を過ごした。
「瑞樹!」
御用部屋の扉が開く。
「……ちょっと、何してんの」
声のトーンが一気に落ちる。彩美が僕を
「あ! いや、これは蜂須賀が」
バチィィン!
頬を伝って頭蓋骨に衝撃が走る。
「信じられないっ! 従者とエッチしたの!? あの記事はあながち間違ってないみたいだね! しかも血が出るほど激しく! すこぶるむかつくっ!!」
状況からの理解が飛躍しすぎているっ!
「なんでそうなる! ただ頭を撫でているだけだろ!」
「それもおかしいでしょっ!」
それはその通りだ!
「蜂須賀! 説明してくれよ!」
僕は抱えている彼女を立たせる。
「えーと、齋藤さま、すごく優しいです。全然痛くないんです!」
蜂須賀は真っすぐに彩美に伝えた。また誤解を招くような言い方を!
「……瑞樹、私瑞樹のこと嫌い。大っ嫌い!」
彩美は歯ぎしりをしながら体を震わしている。
「もういいっ!」
彩美は大切にしているひまわりの髪飾りを、僕に投げつけた。バタンと大きな音を立て御用部屋を出ていく。
僕はしばらく立ち尽くしていた。彩美から嫌いとはっきり言われることが、こんなにも心をえぐられるなんて知らなかった。
「齋藤さま、私なにかまずいこと言いましたかね?」
蜂須賀はいつもの調子で僕に尋ねる。
「ううん。ちょっと彩美の虫の居所が悪かったみたい」
彼女を攻めても仕方ない。攻める気力も湧かない。
「ちょっと今日は家に帰るよ。蜂須賀、他の従者と書類を種類ごとに分けておいてくれる? 明日まとめて処理するから」
僕は魂が抜けたように、帰る前に割れた花瓶の後始末をする。
「齋藤さま、申し訳ございません。絶対私のせいですよね。全部全部私が悪いんですよね」
「いやいや。そんなことはない。そんなことは、ないよ」
思考が停止したまま、目を白黒させながら、僕は家に帰った。
「お兄、早くない!? てか、どうしたの!?」
夕方、まりなが布団で寝込んでいる僕を見つけ、鞄を落とす。
「まりな、おかえり」
僕は布団からのっそりと起き上がる。
「何? 熱あるの? 風邪?」
まりなは僕の額に手を当てる。
「うーん、ちょっと熱いね。前兆なかったのに」
彩美からの『嫌い』。その一言で僕は体調を崩している。言葉の矢がこんなにも鋭いとは。
「てか、この髪飾りって、将軍さまのじゃないの?」
まりなは、僕の枕元に置いてあるひまわりの首飾りを手に取った。
「うん。そうだよ」
「なんでお兄が持ってるの? 好きな人の使用物を盗む癖があるの?」
突っ込む気力はない。……というか、え?
「なんで僕が彩美のことを好きって事になってるんだよ」
まりなはフッと片方の口角を上げ笑った。
「そんなの見てれば分かるよ。将軍さまと服買いに行った日の夜、お兄の顔、気持ち悪いくらいニヤついてたよ」
ええ……。その場で言ってほしかった。
「そのあたりはノーコメントで」
妹に好きな人がバレるなんて、恥ずかしすぎる。
「とりあえず、何か食べやすいもの作るよ。口にしないと治るものも治らないでしょ?」
「ありがとう」
まりなは台所に行き、制服のままエプロンを着て料理を始めた。
「できたよ」
溶き卵を使ったおかゆを、寝室まで持ってくる。
「いい匂いだ」
「そうでしょ? ちょっとだけ鶏ガラを入れてるの。塩だけじゃ味気ないかなと思って」
レンゲですくい、息を吹きかけながら、一口頬張る。
うん。美味しい。優しいけど鶏ガラの風味もしっかり伝わってくる。体調が悪くても、仕方なく口に運ぶのではなく、ちゃんと食欲が増進する味だ。
そして何より、まりなの優しさが嬉しい。
「咳は出てないよね。ほんと、どうしちゃったんだろ」
まりなは、僕の目の前で部屋着に着替え、ツインテールをほどいている。
「……嫌いって言われたんだ」
何を考えてか、僕の口からは、言う必要のない真実が発せられていた。
「え? 誰に?」
まりなは冷蔵庫から冷えピタを取り出し、僕の額に貼る。
「彩美に」
「それで、体調崩したの?」
僕は小さく頷く。
「お兄、恋愛偏差値低すぎでしょ……。引くわ」
寝込んでる人に追い打ちをかけるな! 妹からの言葉も攻撃力は高いぞ!
「何も思われていないよりはいいんじゃない? 好きか嫌いか判断されてるだけいいじゃん。無関心ほど成就しない恋はないからね」
「そうなの?」
僕はまりなという
「うん。嫌いから好きになる可能性なんて、無限大だよ」
まりなは冷えピタの上からポンと額に触れる。
「あんまりダサいところ見せないで。私の尊敬するお兄でいてね」
そうだ。こんなことで意気消沈してどうする。僕は老中だ。個人的な問題で政務に支障をきたすなんてもってのほかだ。彩美にはちゃんと説明して、また関係を作りなおそう。明日はちゃんと出勤して、溜まっている仕事をさばかなければ。
「そうだね。まりなにかっこ悪いところ見せちゃったな。今日は休んで明日に備えるよ。ありがとう」
「お兄が気を落とすと、この家自体が辛気臭くなるから、頼むよ」
まりなはそう言い残し、おかゆのお皿を下げにいった。
次の日。体調も回復し、迷惑をかけた人を頭の中でリストアップした。
彩美と従者には絶対に謝らなきゃだめだな。あと、午後に予定のあった、幕府の広報部隊との打ち合わせもドタキャンしているから、それもリスケしないとな。
あれこれ考えていると、まりなが手を震わせながら僕のもとへ来た。
「お兄、ちょっと……」
「何? どうしたの?」
まりなの震えは、手から体全体に広がっている。
「特寺に行こうと、家の扉開けたら……、お兄、自分の目で確かめて」
「なんだよ。虫でもいたの?」
「虫ならまだよかったよ」
僕は何の気なしに玄関へ向かう。扉を開けると、そこには予想だにしない光景があった。
『エロ老中』
『変態野郎』
『ヤリチンは幕府から出ていけ!』
『将軍のセフレ』
扉には、赤や黄色のスプレーででかでかと落書きがされていた。
「ここマンションだぞ……」
「そういう問題じゃないでしょ」
まりなは、呆れの混じった声で、事態を飲み込めず適当なことを言っている僕に指摘した。
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