手の平

 高まる内圧の逃げ場を探すような運転手の動作に合わせて、突風と相違ない風が、暑さが纏わりつく季節の折に、差別を知らない稚気のように事故現場を悠然と通り過ぎる。そんな風の後押しを受けるかのように、運転手は身体を翻し、この場に於ける義務や責任をかなぐり捨てて歩き出す。抱え切れない遠大なストレスを受けたことによる逃避行動とするには、あまりに無責任な振る舞いであり、中身が入れ替わったとしか思えない顔付きの変化は見るに耐えなかった。


 景観を彩る建築物の少なさに起因する「電柱」の侘しさや、車での移動を前提にした街頭の少なさを鑑みるに、運転手を力づくに取り押さえ、罪を問うような人間は凡そ見当たらない。何事もなかったかのようにその場を離れ、“運転手”という肩書きを有耶無耶にし、初老らしい散歩の体裁を得る。


「……」


 虚空に漂う狼煙を追うかのように、ふらふらとした足取りで歩みを続ける。目的地を口演するだけの説得力はまるでなく、感じて然るべき引け目がどこを切り取っても見当たらなかった。罪滅ぼしに走る素振りすら見せない我を失った男は、立ち止まるべき信号機や車の往来、壁などといった物理的な理由もなく、道の真ん中で立ち止まる。夕立ちを恨めしそうに睨む訳でもないし、失念していた大事なことを思い出した訳でもない。ただ、漫然と立ち尽くす男の奇々怪界は、熱されたアスファルトに現れた陽炎のようにどこか浮世離れしていた。


 暫くすると、男は不意に口ずさむ。


「見つけた……見つけた」


 まるで荒涼たる大地を彷徨い歩き、やっとの思いで逃げ水に辿り着いたかのような安堵を湛える。手前に起こした事故をまるで顧みない男の問題を先送りにして知らぬ存ぜぬ姿から察するに、年嵩をいくら重ねて含蓄を拵えても、自分が可愛くて仕様がないのだ。そんな男が量刑を度外視して縋るのは、この世のモノとは思えない幽玄さを纏った一人のとある人物であった。


「えぇ、見つけましたね」


 色素に囚われない白髪に、紫外線の侵食から解放された大理石のような白い肌は、過去未来に囚われない形而上の存在を想起させ、耽美的な風貌に相応しい神秘性を一目で看取できた。触れれば雪のように溶けてしまいそうな儚さは、予報された夏日に因んだ晴天の下で、より際立って存在し、軽はずみにも言葉を交わそうとすれば、命を吸い取られるような恐ろしさがあった。生殖器の有無を確認せねば、生物学上の性差がまるで付かない端正な顔立ちをしており、個人の審美眼によって区別しようとするのは天にツバ吐く行為だと悟らざるを得ない。


「よくやりましたね。安心なさい。貴方はこれで救われます」


 男は天啓を授かったと言わんばかりに膝を折って地面に突っ伏した。件の事故は車の操作を誤って引き起こされた偶発的なことではなく、運命の糸引きがあって実行され、そこに潜在する意思などはない。良心の呵責すら唾棄する男の軽々な五体投地は、やはり見るに耐えなかった。

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