行きずりだけではちょっと寂しい


 小説家は運動をほとんどしない。世の中、腰や体力のために運動をし続ける人もいるけれど、私は体力温存のために早寝早起きばかりしていたせいで、運動自体をほぼしなかった。それを今後悔している。


「若彦さ……若彦さ……」


 息が切れて、声がパッサパサになってしまい、声量が出ない。私は走りながら必死で目を追う。

 相変わらず江戸妖怪集団は運動好きらしく、卓球のあとは体育館を借りてバトミントンをして遊んでいるようだし、帝はなにやらすずめと交渉しているのが横目に入った。

 それらを通り過ぎ、ようやく玄関に出たところで、この数日で見慣れた黒いトレーナーに白いカーゴパンツが目に留まった。

 私はパサッパサのカスッカスの声で叫ぶ。


「わかひこしゃ!」

「はい? あれ、奥菜さん。どうしましたか?」


 相変わらず優しそうな顔で、どうしてこのひとが天邪鬼なのか、私にはちっともわからないというまま、全身で息をした。

 運動してない人間が全力疾走したら、息ができずにしゃがみ込む。私はその場でへたり込んでしまったのを見かねて、幸福湯を出ようとしていた若彦さんが振り返って戻ってきた。


「どうしたんですか……こんなに汗掻いて」

「さ、がしてまひた……あなたを」

「どうして……」

「約束してたのに、あなたのほうこそ、約束してたのに」


 まるで子供の駄々っ子のような大人げない言葉が出る。


「私、あなたの名前ネットで検索しましたし、それでもよくわからなくって調べました。探しました。それで、やっとあなたの正体を知りました……あなたの正体は、天邪鬼でいいんですよね?」


 若彦さんは虚を突かれたかのような顔をしたあと、困ったように笑った。

 この間、詐欺師の門土さんの胡散臭い顔を真横で眺めていたから、これはひっくり返った顔ではないと信じたい。

 天邪鬼は、瓜子姫を騙してしまうほどに悪い、なんでもあべこべにしてしまう妖怪。転じて今では天邪鬼は「素直ではないひと」「嘘つき」の代名詞として使われている。

 しばらくの間のあと、若彦さんは私に手を差し出してくれ、そのまま立たせてくれた。そして口を開いた。


「正解です。というか、小説家なら一発でわかるかと思ってましたけど」

「アハハハハハ……すみません。日本神話については結構不勉強でして」


 天若日子の名前を調べたら一発でわかる話だったんだから、お恥ずかしい限りだ。それで私は「あのう……」と尋ねた。


「どうして、ここのひとたちに、そのう……」

「どうして嫌われているか、ですか?」


 それに私は困った顔をする。私がちゃんと聞けばよかったのかなという後ろめたさと、気を遣わせてしまったという後悔がない交ぜになる。

 しばらく考えたあと、若彦さんはカウンターに向かった。受付のすずめが「ちゅちゅん」と鳴いた。どうもあおじではないようだ。


「すみません。先程チェックアウトしたものですけど……チェックインする部屋ってまだ空いてますか?」

「ございますよ」

「ありがとうございます。それじゃあひとまずは三泊四日で」

「かしこまりました」


 さっさと部屋を取ると、「足湯でお話ししていいですか?」と尋ねられた。それに私は頷く。さすがに瓜子さんも今は足湯には行ってないと信じたい。

 このところふたりで話をするのは、もっぱら足湯か食堂で、なにか世間話とかしょうもない話とかして場を埋めているのに、これだけ黙り込んで坂を登ることなんて初めてだった。気まずいという思いと、なんで私はこんなことに首を突っ込んでいるんだろうという疑問と、若彦さんはなんで皆からやけに嫌われてしまっているんだろうという疑問がない交ぜになり、それが余計に口を重くしていた。

 やがて、足湯に到着すると、ふたり揃って履き物を脱いでポチャンと足を浸けた。温かくてじんわりと熱を帯びていく感覚が、なんとかぐちゃぐちゃした気持ちを溶かしていってくれた。


「前にも言いましたっけか。現世と幽世の間にやってくるひとたちは、現世では物語として語られることが多いと」

「言ってましたねえ……」


 実際にあったことだけれど、それがもう嘘か本当かわからなくて、結局は御伽草子や日本昔話として語られていると。でもその話がいったいなんなんだろう。

 そう思っていたら、若彦さんが続けた。


「逆の場合もあるんですよ。一度現世で物語として語られたものは、幽世での姿形を定めてしまうってことが」

「逆……ですか?」


 いまいちピンと来ていなかったら、若彦さんは困ったような顔をしてみせた。

 笑っているのか怒っているのか。憤っているのか悲しんでいるのか。いろんな感情がない交ぜになった表情を浮かべていた。


「物語で一度悪役と語られてしまったら最後、幽世での評判が大きく変わってしまうんです」

「あ、ああ……」


 私はそれで納得した。帝は一応は偉い人にもかかわらず、『竹取物語』の中での扱いは微妙なものだ。だからかぐやさんにはかなりぞんざいに扱われていたし、幸福湯の従業員からも扱いは雑だった。

 そして天邪鬼。『瓜子姫と天邪鬼』で語られる天邪鬼は西と東では全然違う。西ではまだギリギリコメディリリーフで済む扱いだけれど、東では完全にヒールやヴィランといった扱いだ。それがそのまんま幽世の扱いになってしまったら……扱いはとんでもなく悪くなる。


「それ……なんか変です。でも変ですね? 私も『瓜子姫と天邪鬼』の話は知っていますけど、そんな若彦さんを邪険に思ったりは」

「それは多分、奥菜さんが小説家だからだと思いますよ? 物語をつくる側だから、物語の登場人物になる側よりも、あやかしや神よりも、影響が低いんだと思います。これは嘘だから、作り物だから、でたらめだからという言葉で、たちまち物語の影響は低くなります」


 それには少しばかり納得した。

 人間だって、ドラマや映画で悪役を演じた人については偏見の目を向ける人だっている。でも作り手側はそんな風な目はしない。だって、ドラマも映画も綺麗な表面で着飾った嘘だってことを知っているから。

 物語の耐久性が強いってことなんだろう。

 私は口を開いた。


「あのう……これを言っていいのかわからないんですけど」

「はい」

「『瓜子姫と天邪鬼』の物語って、本当に現世であったことなんですか?」

「これよりもっと昔、ですかね」

「はい?」

「現世だったら日本神話に当たるくらい古い話の影響かと思います。自分、ちょっと平定してきなさいと言われて、葦原で結婚していましたから。それで高天原の神を怒らせた挙げ句に殺されました」


 それはまんま天若日子の逸話そのまんまだった。でも。それじゃこのひとが幽世のひとから嫌われる理由は。

 そう思っていたら、すぐに若彦さんは続きを教えてくれた。


「そのせいで、妻子を路頭に迷わせましたから。いい加減なことをするな。責任を取れと、それで嫌われています」

「神様の優先順位ってわかりませんけど……この場合って、若日子さん本当になんにも悪くないし、理不尽極まりないんじゃ」

「だから彼女も謝りたいって言っているんでしょうね。ここに来てしばらくしたら、いつも彼女は自分のこと探しているんです。困るんですよね、そうされても」


 ずいぶんと、まあ。

 日本神話の話って、時代で言ったらいつの頃なのかってちょっと計算しにくいけれど。その頃から揉めて逃げ続けてるって、相当じゃ。

 こじれているってひと言で済ませていい問題かは私にはわからない。ただ。


「あなたのこと、あおじは心配してました。なんにも悪くないって。私もそうだと思います」


 旅先の恥はかきすてって言うけれど、私は小説家だからそうじゃない。

 ここでの体験だって物書きの種だ。そして引きこもりにとって出会いは稀少価値が高い。だからこそ。


「行きずりだからって、可哀想だと思っちゃ駄目なんですか?」


 そう言わずにはいられなかった。

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