トラブルは突然に
部屋風呂とはいえど、お湯は綺麗だし温かい。これにポチャンと浸かりながら「あーうー」と声を上げた。
家風呂だったら、ここでのんびりとアニメソングでも歌っているところだけれど、旅館の場合はどこでどう響くのかがわからないから、ただ呻き声を上げるに留めた。
若彦さんとのやり取りとか、若彦さんが言っていた現世と幽世の嘘とか、鶴子さんの忠告とか、それらが頭の中でぐるんぐるんと回っていく。
「それになあ……若彦さんの名前、絶対どこかで聞いたことあるんだよなあ……」
雨野若彦。多分私が漢字をそう認識してしまっているだけで、本当は違う漢字じゃないだろうか。ただここだとネット環境は整っているものの、あんまり検索はできないみたいだ。サーチエンジンを使うと途端に駄目になる。
SNSも使えない。サーチエンジンも使えない。ただ通信してないと使えないソフトは使える。何故。謎。
そしてそんな若彦さんが教えてくれた、ここの宿に来るひとたちの特徴っていうのも気になる。私はそれらを考えながら風呂を出ると、いつの間に鶴子さんが来てくれたのか、布団が丁寧に敷かれていた。
布団にゴロンと転がると、体がポカポカ温まっている上に、夜はだんだんと肌寒くなってきたために、程よく眠りが襲ってきた。
私はそれに身を任せて目を瞑る。
一度寝て、起きてから考えよう。それが幸福湯一日目の出来事であった。
****
次の日も、鶴子さんが食事を運んできてくれた。
「おはようございます。露天風呂で朝風呂も浴びれますが、いかがなさいますかぁ?」
「あー、おはようございます。うーん。朝から露天風呂も楽しそうなんですけど、今日はちょっと取材をしてみたいなあと思ってるんですよ」
「あらまあ、取材ですかぁ?」
「はい。私もネタ探しのために滞在してますから、一日目はとりあえず温泉宿定番のことをあれこれとしましたし、二日目からはもうちょっと積極的に取材をしていこうかと思いまして。なにか取材できる場所、とかひと、とかはありませんかね?」
朝は昨日の大量の料理と同じく豪勢だけれど、しっかりと考え込まれた料理だった。
わかめの酢の物。魚の甘露煮。熊の角煮はしっかりと山椒を利かせて熊肉独特の臭みを完全に消してあり、これがご飯によく合う。その日も付いてきた赤出汁は、相変わらずなんの出汁を使っているかはわからなかったものの、おいしくって他の料理よりも先に飲み干してしまう。
私の言葉に鶴子さんは「そうですねえ……」と小首を傾げて三つ編みの輪っかを揺らした。
「幸福湯の周りでしたら、露天風呂の近くに滝がございます。あの辺りは神様方の観光地になっておられますから、見所だと思いますよ。ただ神様方の場合は、一旦店主様と一緒に同行したほうがいいかもしれません」
「あおじと? それはどういう意味で?」
「だって奥菜様が神隠しにされてしまうかもわかりませんし」
「ぶっ」
思わずおいしい金平を吹き出してしまった。もったいない。
ちなみに神隠しというのは、昔からよく言われている話だ。狐や鬼、天狗や神様、それらが人を誘拐してしまうっていう奴。
一応半分は大昔の口減らしの言い訳に使われていたらしいのだけれど、半分くらいは行方不明になった理由がわからないから、そのまんま神隠しの言葉は残ってしまった。
ちなみにさらってしまう種族によってもさらう人間にえり好みがあるらしく、ざっくり言えば若い女、年頃の男、子供、に分別されるらしい。
私は女だが、取り立てて若くはない。
「それ多分、心配するのは鶴子さんだけでは……私若くありませんし」
「いえいえ。神様のスケールからでは充分若いと思いますよ。あの方々、どれだけ若く見積もっても二百は超えてますし」
「わあ」
でもよくよく考えたら、百年前は大正時代なんだから、江戸時代生まれだとしたら二百くらいは超えてしまうのか。神様基準で言ったら、自分より半分以上年下の人間は皆一律若い判定が下されてしまうのかもしれない。スケール大きいな。
でもそれだったら、なんであおじを連れて行くんだろう。
「ちなみにあおじを連れて行く意図は?」
「店主様は店主様ですし。神様方というのは、基本的に約束は破りません。店主様と約束している以上、店主様がお客様としてらっしゃる方に無体な真似は働かないのです」
「悪いひとだったら、それを破る場合も……」
「悪さで成り上がった妖怪だったらそんなこともあるかもしれませんけど、神様方は約束を破ったらもう現世に出られなくなりますから。現世に出られないと神様方もなにかと困りますから、約束を破るような真似はしないんですよ」
「なるほど……」
つまりは、幸福湯の店主であるあおじは、ある程度宿内のルールを制定している。そのルール違反になることは、いくら神様でもできない。神様にもペナルティーが存在し、それを破ってまで自分本位には振る舞えないと、こうか。
この辺りのことはネタにできそうだから、後でメモっておこう。私は「うんうん」と頷いた。
「なにからなにまでありがとうございます。それじゃああおじを連れて見に行ってみますね」
「はい、それがよろしゅうございますよ。なによりも今は神在月ですから、出雲の行き帰りで宿にも神様方や妖怪の皆々様の出入りが激しいですから。なにかしら面白いものが見られるやもしれません」
そう鶴子さんは締めくくった。
そうか。出雲では基本的に旧暦十月は神在月と制定されており、出雲大社に神様がわんさか訪れることとなっている。
現世に出かけていた神様たちが、幽世に戻る前に温泉でひとっ風呂浴びてから帰るっていうのが頻繁に行われている時期なんだな。
これはたしかに、なにかしら見つけてネタにさせてもらわないと。私は「ありがとうございます」ともう一度鶴子さんにお礼を言ってから、朝食を食べ終えた。
****
考えた末、温泉宿だから本当は浴衣で移動するべきだとは思うけれど、浴衣だと坂道を登るのは少々きついなと、昨日の足湯のときに思い知ったため、八分丈のデニムにトレーナーの出で立ちで出かけることにした。小さなポーチには、筆記用具と貴重品を入れて。
昼ご飯はここの食堂で食べるとして。
私は玄関ですずめの従業員たちにもふもふっと指示を飛ばしているあおじを見つけた。
「あおじあおじ。今忙しそうだけれど大丈夫?」
「おやおきなさま。おはようございます。きょうはぐっすりねむれましたか?」
「そりゃもう、最高の寝心地に最高の温泉。そして最高のご飯だったわ。あなたに恩返ししてもらって大変によかったと思っているところなんだけれど、もうひとつあなたに頼みたいことがあるんだけれど、本当に大丈夫?」
「むちゃぶりにこたえるのもてんしゅのしごとですから。なんなりと」
うわあ、このすずめほんっとうに頼もしいな!?
「それじゃあ……私と一緒に滝を見に行ってくれないかな? 鶴子さんがあなたと一緒に行ったほうがいいと教えてくれたんだけれど?」
「ちゅちゅーん」
そう鳴くと、私の肩にひょいっと留まった。ふっくらすずめで大変に可愛い。そしてキリッとした顔であおじは答える。
「それはもちろんだいじょうぶでございますよ。なにぶんかみさまがたはおかしなことをいたしますから、わたしもしっかりとみはらなければなりません」
「ありがとう。あなたほんっとうに頼もしいね」
「ちゅちゅーん」
気のせいか、あおじは照れているように見えた。
こうして私はあおじと一緒に滝を求めて坂登りをはじめた。山を登るときみたいに険しい道なき道ではないものの、昨日の浴衣姿だったらやっぱり歩きにくいくらいには角度があるように思える。そこを歩きながら、私はあおじに尋ねた。
「そういえば、昨日雨野若彦さんに出会ったの。常連だって聞いたけれど」
「そうでございますよ。よくごひいきにしてくださっています」
「あのひとのことを話したらね、鶴子さんに気を付けろって警告もらっちゃったんだけれど。どう思う?」
「ちゅちゅーん」
私の肩でこてんとあおじは考える素振りを見せた。可愛い。
「あのかたは、ごかいされやすいかたです。つるこさんもそのあたりがきにくわなくて、きょりをおけとけいこくなさったのでしょう」
「誤解されやすい……若彦さんが?」
「おなまえをしらべればわかるかとおもいますが、あのかたひどくむずかしいおいたちでして。あまりきらわないであげてくださいね」
「今の時点では嫌う要素がちっともないのだけど……でもわかった。ありがとう、あおじ」
そうこう言っていたところで。
「キャアアアアアアアア」
衣を裂くような悲鳴がこちらに届いた。
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