忠告と悪い噂
しばらく足湯を堪能してから、ふたりで元来た道を歩く。
山道で冷え込んでいたはずの行きだけれど、帰りは体の芯までポカポカしている。銭湯帰りは冷え込んで湯冷めしてしまうものと相場は決まっていたと思うけど、温泉は意外と温度が長持ちするものらしい。
私は若彦さんにお礼を言った。
「ありがとうございます。おかげで一日目は楽しく過ごすことができました」
「それはなによりです。ところで、奥菜さんはいつまでここに滞在を?」
「そうですねえ……」
正直、私の根本的な治療は、企画がまとまらないことに起因している。つまりは企画がまとまってくれさえすれば、その勢いであおじにお礼を言って出て行くこともできるし、逆に企画がまとまらなかったらいつまでも温泉でうだうだしている。
まとまってくれよぉと、ついつい思ってしまうのだ。
「……ひと月、ですかね?」
「なんで疑問形なんですか」
「私も長いことタダ飯食らって至れり尽くせりされてたら駄目人間になってしまうってわかってますから、長居したらまずいだろうなと思ってます。だからとりあえずどれだけ長くってもひと月と区切りを打たないことには、駄目人間として完成されちゃいます」
「それ駄目なんですかねえ?」
「多分」
世の中にはお金があろうがなかろうが節制ができる人はいるらしいが、私は宵越しの金は持たねえというか、宵越しの金を持てるほどいい生活送っちゃいねえとカツカツ生活を送っている人間が、いきなり衣食住に困らない生活をしてもいいと言われたら、十中八九駄目になる。
一度駄目人間になってしまったら、元の生活に戻れなくなってしまうため、それだけは絶対に阻止しなくてはいけなかった。
そんな私の反応を、若彦さんは面白げに眺めていた。
このひと、いいひとかと思いきや、意外とそうでもないのかもしれない。いいひとはいいひとでも、いい性格のひとなのかもと、唐突に思い至った。
「そうなんですか……まあわかりました。俺もしばらくここに滞在してますし、なにかありましたら力になりますよ」
「あはははは……ありがとうございます。私も幸福湯に来たのは初めてですし、なにがどうなるのかはわかりませんから」
「いえいえ。ただひとつだけ忠告」
そう言いながらひょいと若彦さんはこちらの顔を覗き込んできた。
癖毛だけれど、素材がいい分その癖毛もセットしているように見えるから、顔がいいというのは得をしている。
「ここって現世と幽世の間なんですよ」
「はあ……それは皆さんおっしゃってますね」
「先程いたのは江戸妖怪の方々ですけどね、中にはそういうのじゃないひとたちだっているんです」
「妖怪以外は……神様とか?」
「いえいえ。御伽草子とか民話とかでしか知られてないひとびとです」
「え……?」
一瞬意味がわからず、私は反応に困る。私が困っている顔を眺めながら、若彦さんは淡々と説明してくれた。
「現世では御伽草子や民話は全て、嘘やでたらめだと思っているでしょう?」
「そりゃあ、まあ……桃から人は生まれないと思いますし、亀に乗って海底に入ったら溺死するんじゃと思いますけど……」
「ははははは……それは現世じゃもうその手の人々は生きていけないので、皆幽世に移動しただけです。ないと思うものがあり、あると思うものがない。それが現世と幽世の狭間にある幸福湯のルールなんです」
「ないと思うものがあって、あると思うものがない……」
「いずれわかると思いますよ。それでは、俺はそろそろ共同風呂で本格的に入ってきますから。共同風呂が苦手なら個室でもどうぞ。どのみちここの湯は全身にかぶってもいいものですからね」
若彦さんは本当に言いたいだけ言うと、さっさとその場を後にしてしまった。
私は少しだけ困った末、今の言葉はメモしておくことにした。
【ないと思うものがあり、あると思うものがない】
「まるで推理小説のワンフレーズみたい。私、推理小説は書いたことがないんだけどな」
とりあえずそろそろ夕食だし、少し散歩してから、部屋に戻ってみよう。
****
出されたものは、とにかく盛りに盛った食事だった。
栗おこわ、鮭の塩焼き、鹿のすき焼き。
ほたてのバター焼き。きのこ三種の含め煮。紅葉の天ぷら。
出された赤だしはほのかに魚の味がするし、締めに出された水饅頭も含めて、完璧なごちそうだった。これひとりで食べるのか。すごい。
私がそれをスマホで撮るかどうか迷っていたら、鶴子さんは「すみませーん」と断った。
「現世からのお客様は皆撮りたがるんですけど、多分映りませんのでやめておいたほうがいいですよぉ?」
「そ、そうなんですね……」
現世と幽世の間の幸福湯は、いろいろルールが違うらしかった。ネットは通じるというのに、ここでの出来事は何故かSNSでも書けない。どうもネットで狭間の話を書くと、途端に拒否られるようだった。ちなみにメモにはなに書いても弾かれないので、この世界のことをネット世界に公表するというのがトリガーらしかった。なるほど、よくわからない。
私は赤だしを「おいしい」と言うと、鶴子さんはにっこりと笑った。
「これは特殊な出汁なんですよ。朝食でも出しますからお楽しみに」
「へえ……そうなんですね。今日はちょっと外を見て回ろうと歩いてたら、足湯に入ることになったんですよ」
「あらまあ。山道を真っ直ぐ行ったところの足湯は、今の季節は見頃ですからねえ。ご満足いただけましたか?」
「そりゃもう。ふかし芋もおいしかったですし」
「通好みな楽しみ方ですねえ。うちの常連さんたちが皆好んでやる奴ですよぉ」
「教えてくれた若彦さんに感謝しなきゃいけませんね」
「うん? 若彦さん……ですか?」
途端に朗らかに給仕をしてくれていた鶴子さんが固まった。
……あれ、私おかしなこと言ったか? 私はおろおろとしながら言う。
「ええっと。私が豆腐小僧のまめたくんが迷子になっていたのを拾ったのを、助けて一緒に保護者探してくれてたひとなんですけど……あのひとここの常連だと」
「そうですねえ、確かに常連ですねえ。うーんうーん……いいひとじゃないだけで、悪いひとではないんですけどねえ、そのう」
どうにも鶴子さんの言葉の歯切れが、まるでガムを切る包丁のように悪かった。
「あのう……鶴子さん?」
「私も関わりになるなとかは言えませんよぉ。店主様も、どなたでもお好きに通って欲しいって方ですし。でも、あのひとがおかしなことしそうになったら、私でも店主様でもいいですから、報告してくださいね」
「え、ええ?」
「ああ、そろそろいい具合に火が通りましたから、すき焼きを器に入れますね。卵はお好きなように」
「……ありがとうございます」
鹿のすき焼きはもっと硬いかと思ったら、思っている以上に野性的な味がしておいしかった。そのおいしい食事を咀嚼しながら、私はただただ首を捻っていた。
いいひとではないけれど、悪いひとでもない。扱い方に困り果てている。
どういうことなんだろう?
素朴な疑問は、これが一般人だったらなかったことにするか、忘れてしまうんだろうけれど。
残念。私は絶賛企画の通らない小説家だった。
これを調査したら、ネタがひとつでもポンと出来上がるんじゃないだろうか。そんな人でなしにも程がある思いつきが、胸の中を占めていた。
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