第4話.クソビッチ

 三橋の話を聞いてから僕は花蓮と会っていない。連絡も取っていない。すでに三日が経つ。


 スマホには連絡のない僕を心配する彼女からのメッセージが大量に溜まり、何度か着信もあった。僕はそれらを全て無視している。


 何故こんなことをしているのか……。


 情けないことに、僕はあの話を聞いてから怖くて彼女と顔を合わせられないのだ。


 嘘や冗談だと思いつつも、もし本当だったらどうしようと恐怖で彼女に会うことも連絡を取ることもできない。彼女のことを信じきれず、また真偽を確かめる勇気もなく、僕はただ彼女を避けることしかできなかった。



 更に一週間が過ぎると彼女からの連絡はなくなった。そのことにホッとしつつも淋しさも感じている。こっちから連絡を絶っておきながら勝手なものだ。


 ただ、僕も少しは冷静に今の自分の気持ちと向き合えるようになってきていた。


 なんにしても過去の恋愛事。僕がとやかく文句を言えることじゃない。


 交際はしていないけど、僕だって過去に恋の一つや二つ経験はある。中学の時、同じ部活の男女何人かでアミューズメント施設によく遊びに行った。当時、好きだったもいてドキドキしたものだけど、それらを今さら責められても困る。


 それに、嘘告で騙されやり捨てられたのが本当だとしたら、そんな過去を話したくないし話せないことも理解できる。むしろ、そんな彼女が可哀想だと思うし、今すぐにでも三橋を殺しに行きたいくらいだ。


 結局のところ、彼女の過去を僕が許せるかどうかなんだと思う。許せるのであれば交際を続けるし、許せないのであれば別れるだけ。


 だからこそ、まずは三橋の話が本当なのかどうか彼女に確認することが先決なんだけど……、どうしても勇気が出ない、怖いのだ。


 それほど三橋の話しぶりはリアルだったし、それに何の根拠も無くあんな話をするほど彼だって馬鹿じゃないと思っている。


 避け続け、いっそこのまま知らずに彼女との関係は自然消滅、時間と共に彼女への想いは薄れ忘れていく。それもまた有りなんじゃないかなんて、僕は変なことまで考えるようになってきていた。



 改札を抜け駅を出る。たまに彼女と寄ったカフェをちらりと横目に見ながら駅前の商店街を抜けた。


 住宅街を流れる小川沿いを、川面を眺めながら家へと歩いてゆく。この道は所々にベンチが設置されていて、近所の散歩コースとして親しまれている。彼女ともよく一緒に歩いた。


 寄り添ったベンチ、二人で見上げた桜の木、手を繋ぎ夕日を眺めた橋の上、色んなところに彼女との思い出が散りばめられている。


 思い出から逃げるように目を逸らし前を向く。すると、少し先のベンチにうちの学校の制服を着た女の子。彼女は僕を視界に捉えるとすっと立ち上がった。


 周囲とのアンバランスなその大きさ、花蓮だ!


 学校や駅までの通学路は警戒していたが、家の周辺は油断しきっていた。僕は発見された逃亡犯のように、しまったと後退りする。


 彼女は逃がさないといった感じで、僕から目を離さず真っ直ぐこちらに向かってくる。僕は一歩だけ後ろに下がったが、彼女のその鋭い眼光で金縛りにでもあったかのように動けなくなった。


「裕太! なんで私を避けるの?」


 部活はどうしたの? こんなところで油を売ってないで練習に戻りなよ。次の大会に向けて大切な時期だって言ってたじゃないか。


 そんな、この場を避けるような考えばかりが頭に浮かんでくる。


「べっ、別に……」


「別にって、何かあるから私を避けてるんでしょ?」


 言いながら彼女はポロポロと涙をこぼし始めた。大きな体を震わせている。その姿を見て、これ以上逃げ続けるのは無理だと悟った。



 二人で近くのベンチに腰掛けた。いつものように、制汗剤の桃の香りがふんわりと漂ってくる。彼女と会わなくなって十日ほど。その香りがやけに懐かしく、そして、相変わらず心地良く感じた。


「ねぇ、裕太。どうしたの? 何があったの?」


 うつむきがちの僕を覗き込む。


 どうしよう、彼女に三橋とのことを尋ねようか。でもあいつの言っていたことが本当なら僕は……。


 知りたい気持ちと知りたくない気持ちが混濁する。


 僕は落ち着いて座っていられず立ち上がった。すぐ脇にある柵に両手を突きうなだれる。その様子を見て、彼女が急かすように呼びかけた。


「裕太!」


 その声に顔を上げる。このままじゃダメだ、そう思いハーっと一息吐くと覚悟を決め彼女の方へ向き直した。そして、ついに尋ねる。


「三橋……、五組で花蓮と同じ中学だった『三橋みつはし かおる』、知ってるよね?」


 尋ねた瞬間、彼女は明らかに顔を引きつらせた。さっと逸した目は小刻みに震え焦点が合っていないよう。


 彼女の様子に何かあると感じ、一気に不安が広がった。喉の奥が乾いてくる。


「たまたま三橋から聞いたんだよ。昔、花蓮と付き合ってたって。教えて花蓮。三橋と付き合ってたの?」


 お願いだ。違うと言ってくれ……。


 僕は祈るような気持ちで彼女の言葉を待った。


「えっと……、そ、そ、それは……」


 彼女はそれだけ言うと、言葉を詰まらせガクッとうなだれた。肯定も否定もしない。しかし、その彼女の様子は真偽を判断するには十分な行動だった。三橋の言ってたことは本当のこと、僕はそう悟った。


 その瞬間、視界が急激に狭まっていくのを感じる。キューっと目の前の映像が一点に収束していくよう。それと同時に胸の真ん中にある大事なものがえぐり取られているような感じがした。


 目のすぐ下まで涙が上がってきているのが分かる。そのままあふれ出てしまいそうになるのをギリギリのところで堪えていた。


「あ、ああ、あれは嘘告だったの。そう、だから……、つ、つき、付き合ったってことには、ならないから。私の、私の恋人は、今も昔も、ゆ、ゆ、裕太だけ、そう裕太だけだよ」


 絞り出すように言うその言い方が、何か隠し事をしているようで僕の感情を逆撫でる。


「二ヶ月だよね? 二ヶ月も付き合ってて、そう言える?」


「……」


 彼女はうつむいたまま何も答えない。その態度が更に僕を苛立たせた。


「三橋は花蓮と寝たって言ってたよ。花蓮の体を楽しんだって。それに別れた後もセッ……、セフレだったって」


 自分でも驚くほど、低く暗く恐ろしい声を出していた。


「そっ、それは嘘よ! 三橋君とはけど、何回か一緒に帰ったくらいで手も繋いでないし、ましてや寝たなんて、セフレなんてありえない! お願い、信じて!」


 必死に訴えかける彼女の言葉は、ほとんど僕の耳には届いていない。ただ、「確かに二ヶ月くらい付き合ってはいた」という言葉だけが切り取られ僕の耳に残った。


 彼女は三橋と交際していたことをと認めた。僕はそのことに大きなショックを受けていた。


 嘘をつき、その上、それを隠すように言い訳をする彼女のことはもう何も信じられない。


 胸の中にドロドロとした憎悪が湧き上がる。それが心と頭を染め、僕は冷静さを欠き始めていた。


「ねぇ、花蓮は童貞の僕を騙して楽しんでたの?」


「ちっ、違っ……」


「キスをおあずけして、もったいぶって、僕の反応を見て心の中で笑ってたんでしょ?」


 嘲笑うかのように、誰も救わない言葉が成長した憎悪の割れ目からにじみ出る。


「違う! 違うよ! そんなこと思ってないし、本当にとは何もなかったの!」


 彼女の口から三橋あいつの名前が出る度に、彼女が三橋あいつのことを大切に想っている気がしてイライラする。三橋あいつの名前なんて聞きたくもない。


「ねぇ、お願い信じて! そうだ、裕太。今からキスしよう。ね? そうしよう。お願い」


「やめろ! 汚い!!」


 僕に抱きつこうとする彼女の手を咄嗟に払い落とした。もう彼女のことは汚物にしか見えない。


 ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! 僕を馬鹿にしやがって!!


 取って付けたようにキスしようとせまってきた彼女に怒りが爆発した。「だったらキスくらいさせてあげるわよ」と言われている気がして怒りが収まらない。


 キスをしてるとかしていないとか、すでにそういう問題じゃない。それを理解していない彼女とはもう相容れられない。


 僕は何もかも、彼女も、自分も、僕たちの関係も、ただただ全てを徹底的に壊したい、壊さないと気が済まなくなっていた。


 言ったら最後、彼女との関係は完全に壊れ元には戻らないことは分かっている。しかし、暴走した僕の心はそれを止められなかった。


 憎悪の塊が完全に崩壊し、憎しみに満ちた言葉があふれ出す。何故か口の中が異常に乾いて不快だ。


 そして、キスを拒否され狼狽えている彼女に、ありったけの嫌味を込めて言い放った。


「童貞の僕なんかじゃなく、せいぜい女慣れしたチャラチャラした男とでもやってよ。そうだ、お願いすれば三橋だってまた抱いてくれるんじゃない? 花蓮にはあんなクソみたいな奴がお似合いだよ」


「そんな酷いこと言わないで……」


 涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔を見て一瞬躊躇する。


「本当にとは何もなかったの……」


 しかし、三橋やつの名前を聞いて僕は完全にタガが外れた。もう止まらない、止められない。


「お、お前みたいな狡賢くて汚い女はこっちから願い下げだよ。じゃあね、クソビッチ!」


 言ってすっきりした気持ちと、言って後悔した気持ちがあった。くっきりと別れた二つの気持ちは混ざり合うことなくグラグラと僕の心を揺らす。


 彼女の反応が怖かったのか、それとも格好悪い自分の姿を見られたくなかったのか、壊したモノを確認しようともせず僕は走り出した。


「ちょっ、ちょっと待って裕太! お願い!!」


 泣き叫ぶ彼女の声から逃げるように、僕は振り向くことなく走り去った。

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