呪縛
ミツバのお母さんには、「会社からで」と適当な理由を付けて、帰る事を話した。
本当は会社から連絡が来る事なんてない。
オレはただのパートで、社員じゃない。
連絡が来るとしたら、説教か手続きの話だ。
ともあれ、帰る途中でゴリ松に電話を掛け直した。
『ミツバちゃんいなかったからさ。大丈夫かなぁ、って。親に聞いても、ミツバの母ちゃんと会ってないって言うからさ。気になったんだよね』
「住職に話した方がいいかな」
『どうだろうな。住職はお経唱えることはできるけど。あの世での出来事は、分からないことが多いんじゃないか?』
「いや、専門家だろ」
住職みたいな神職に分からない事なんて、一般人が知るわけがない。
『だってよ。死後の世界って、ほとんどがこっちの世界で言われてるものと、実態が違っただろ』
自宅の近辺にある曲がり角と、民家を何件か通り過ぎると、ようやく自分の家が見えてきた。風除室の扉を開けてから、ポケットを弄り、鍵を取り出す。
「とりあえず、住職にまた会ってみよう。あの人にも相談したい。オレ達だけじゃ、皆目見当もつかない」
『分かった。今、仕事だからさ。後でまた連絡するわ』
「おう」
電話を切り、差し込んだ鍵を捻る。
その時だった。
《う……うぅ……》
中から人の気配がした。
鍵は掛かっていたのだから、誰も入れるはずがない。
ゆっくりと鍵を引き抜き、オレは音を立てないように扉を開けた。
――誰かいるのか?
泥棒だとしたら、随分と気の毒だ。
金のない家に入り込んだのだから、リスクだけ冒している。
《や……めで……っ。ぐる……じぃ……》
苦しげな声は、すぐ傍から聞こえた。
扉を開けて、真横には靴棚がある。
この靴棚は壁に取り付けられているものだ。
耳を澄ませると、すぐ目の前にある、曲がり角から物音がした。
いつでも逃げれるように靴は脱がず、首だけを伸ばして、そっと死角の先を覗いた。
《ぐぐっ、う”う”っ》
死角になった先には、青白くて、大きな女がいた。
ジーンズとタンクトップを着た女だ。
壁に向かって、鬼の形相を浮かべており、その顔をオレは忘れるわけがなかった。
「……ミツバ?」
ミツバだ。
死に装束は着ておらず、恰好だけ見れば現代的。
何やら、前腕に血管が浮き上がるほど、力んでいた。
オレは玄関の
ミツバが壁を睨んでいるので、何事かと思ったのだ。
そして、彼女の視線を辿り、腕の先を見つめる。
《ごべん……なざい……っ》
ミツバの前には、金色の頭をした少女がいた。
頭の横で髪を結び、顔だけは可愛らしい小柄な少女。
「……閻魔……」
何が起きているのか分からなかったが、よく見ても、何が起きているのかさっぱり分からなかった。むしろ、疑問が増えてしまった。
閻魔もとい、絵馬は必死にミツバの腕をタップして、謝罪を口にしている。
二人の足元には、何やら光るものが落ちていた。
それは、包丁だった。
包丁は家にあるもので、オレが自炊をする時に使うものだ。
何故か、絵馬の足元に転がっているのだ。
訳が分からず、オレは二人に声を掛けた。
「お、おい。どした?」
《だず、げで》
靴を脱いで、二人に近づく。
ミツバからは本気の殺意を感じた。
万力のように締め付ける指先は、絵馬の首筋を押しつぶし、喉仏に減り込んでいるのだ。
顔は青紫色に変色しており、さすがにマズいと思ったオレは、疑問より先に絵馬の解放を優先した。
「ミツバ。おい。やめろって」
《……地獄に……叩き返す》
「怖いよ! やめなって! こいつ、意外と弱いんだから!」
腕をペチペチと叩き、指先を爪でカリカリと引っ掻く。
「ミツバ!」
間に入って、ミツバの体ごと押し退ける。
解放された絵馬は激しく咳き込み、目には涙を浮かべていた。
よほど怖かったのか。
怯えた絵馬がオレの腰にしがみつき、陰に隠れてしまった。
あの世では、男と付き合っていた癖に、男嫌いという一癖ある閻魔。
今では、ただの生意気な少女だ。
なぜ、いるのだろう。と、疑問は浮かぶが、これも後回し。
「何があったんだよ」
《こいつが、襲ってきた》
絵馬の指す方には、怨霊の如く険しい表情のミツバが立っている。
とてつもない圧迫感があり、本気の殺意を前にオレは後ずさってしまう。
《……リョウを……殺そうとしてた》
どちらを信じるか。
そんな事、愚問だった。
後ろに隠れている絵馬の腕を強めに叩き、「何してんだよ」と、叱る。
絵馬なら、やるだろう。
こいつはオレに怨みがあるから、殺しに掛かってきてもおかしくない。
二人の幽霊から板挟みにされている光景は、傍から見れば卒倒するものだ。一人は本気で怒っているから、ホラー映画に出てくる怨霊と化している。もう一人は、邪悪な心を持つ、天使の姿。
あの世と違い、二人の声は空間に反響しているので、一段と人間ではない迫力が増していた。
《……何も……してない》
「ていうか、何でお前いるんだよ」
《来たくなかった。でも、もう帰れない》
帰ったら、八馬さんに殺されるだろう。
今の今まで、どうして忘れていたのか。
絵馬と会話をすることで、鮮明に記憶が蘇ってくる。
オレはミツバの着ていた服を脱がしていない。
脱がす前に、後ろの少女が白滝に放り込んだ。
いや、あの場では、皆が失念していた。
その結果、死んでいないのに、幽体となってミツバが目の前に現れた。
《リョウ》
鋭い目つきが、こっちに向いた。
《どうして、……帰ったの》
「あー……、ミツバ、寝ちゃったし。お母さんにも悪いな、って」
《戻ってきて。まだ話は終わってない》
ミツバと会話をしていて、気づいたことがある。
初めに出会った頃より、意識がハッキリとしているのだ。
確かな変化があった。
半分生きて、半分死んでいる状態というのは、もしかしたら完全に死を迎えた人間より質が悪いのかもしれない。
「今日は、もう、疲れちゃったから」
《また、逃げるの?》
「違う。オレだって、心の準備っていうか。色々と複雑なん――」
腹部に刺さる衝撃。
懐かしい感触に思えた。
硬い拳が腹の肉を押し上げ、尻が浮く。
続いて両足が浮いて、体の前面から崩れ落ちていく。
「が、ぁ……っ」
《い、いやああ!》
絵馬が無理やりオレの上体を起こし、背中に隠れる。
苦しさで、それどころではないオレは、絵馬の頭に肘を置いて、腹を押さえた。
《人の気も知らないで。許さない。アンタだけは、許さない》
今度は無理やりミツバから立たされる。
真っ直ぐに立つことができず、オレはミツバのみぞおちに額を押し当てた。
「どうしろってんだよ」
オレとお前は違うんだよ。
生まれた場所も。
考えも。できる事さえも。
何もかも違う。
「……オレには、できることがないんだよ。そういう人間なんだよ」
頭の出来だって良くない。
だから、誰でもできるような仕事を選び、やりたくない仕事に追われている。
「お前とは違うんだって。頼むから。もう、オレの事は忘れて、幸せになってくれよ。……オレは、お前と会って。飯奢ってもらって。ずっと苦しかったよ。お前みたいに、綺麗な女子にさ。惨めったらしい所なんて、見せたくなかったんだ。普通でいる事すらできなかったんだよ」
周りが進学を選択する中、オレは就職を選んだ。
就職先なんてあるわけない。
資格は持っていないし、免許を取ろうと思って勉強しても落ちてしまう。
金がないから、一度落ちれば、もう挑戦なんかできなかった。
母親に苦労を掛けた事や迷惑を掛け続けたことだって、ずっと苦しかった。
後になれば、なるほど、胸の中に針を埋め込まれたかのように、痛みが増していった。傷口が広がって、母親が死んで、三年が経過すると、何も感じなくなった。
オレは――ずっと消えたかった。
ミツバの顔を見ることができず、オレは床を見下ろす。
できる事なら、永遠に顔を見ることなく、オレの前から消えてほしかった。
知らない場所で、今度こそ幸せになってほしい。
《せめて――》
肩を掴まれた。
指が肉に食い込み、身動きができなくなる。
《自分で決めた事くらい。やり遂げればいいじゃない》
気が付いた頃には、ミツバの姿はどこにもなかった。
泣きじゃくる絵馬だけが後ろにいて、オレは腹を擦って、床に座る。
肩には、まだ指の感触が残っていた。
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