魔法が解けた

 ミツバの家に来るのに、一か月掛かった。

 職場に事情を説明したところ、店長と本部の人が不慮の事態と処理して、今回だけは不問になった。が、当たりはきつい。


 職場に戻る前に、リハビリがてら散歩をするのが日課となった。

 歩かないと、とてもじゃないけど、道端で座り込んでしまう。

 体力が劇的になくなっていた。


 寝たきりというのは、全身の筋肉を使わないから、起き上がると、歩くことすら疲れてしまう。


 家まではタクシーで来れたし、気怠さを感じてはいたが、甘かった。

 翌日には全身筋肉痛。

 死ぬかと思ったくらいに、酷かったのだ。


 とにかく食べて、動いての繰り返し。

 二週間経ったら、やっと職場へ復帰。

 でも、時間は短めにしてもらっている。


 帰ってきたら、泥のように眠って、ミツバ宅へ訪問どころではなかった。


 しかも、家の中ではポルターガイストが頻発していた。

 誰もいないはずの廊下から足音がした。

 女の叫ぶ声。金縛り。

 挙げたらキリがない。


 そんなこんなで、ようやく休みの日に、ミツバから自宅の場所を聞いて、徒歩でやってきたのだ。


 ミツバの家は、思ったより近い場所だ。

 駅から西へ真っ直ぐ行くと、線路沿いに民家が並ぶ道に出る。

 そこをずっと道なりに歩いていくと、緩やかな坂があった。

 坂を上まで歩き、左手には雑木林が立ち並ぶ。

 右手には、疎らに民家があった。


 その中の一つに、ミツバの家があった。


 横に長く、三階建ての家。

 家は高い塀に囲まれており、庭の中には盆栽がいくつもあった。

 家族だろうか。

 老いた男性が枝を切っており、目が合うと会釈をしてきた。


「…………」


 頭の中が、チリチリとした。

 こめかみを押さえ、オレは玄関の黒い扉の前に立つ。

 インターホンを鳴らすと、「はーい」と元気な声が中から聞こえてきた。


 パタパタと駆ける音が近づいてくる。

 緊張したオレは、手提げ袋に入れたお菓子を見下ろした。


 カチャン。


 軽い音を立てて扉が開く。

 中から出てきたのは、年配の女性だった。


「はい。どなた?」

「あ、えと、オレ、ミツバさんの、と、友達で……」

「あぁ……。ちょっと待ってね」


 お母さんらしき女性は、「ミツバ!」と、二階に向かって呼ぶ。


「ごめんね。この前、怪我してね。松葉杖は取れたんだけど。歩けるようになったばかりだから。さ、どうぞ。上がって」

「お、お邪魔します」


 ミツバの家の中は、花の香りが広がっていた。

 嗅いだことのない他人の家の匂い。

 何だか、緊張してしまったオレは、顎を引いて、玄関先に棒立ちした。


 見上げると、吹き抜けになった二階の廊下が上にある。

 横には廊下へ繋がる階段。

 オレは靴を脱いで、きちんと揃えた後、ミツバの母さんに案内され、階段を上がっていく。


 階段の木目を見つめ、一段ずつ上がる。


 吹き抜けの廊下には、部屋が三つ並んでいた。

 廊下は途中で壁に挟まれる空間があった。

 リング状に壁と天井で囲まれた先には、まだ奥行きがある。


「ミツバ。入るわよ」


 階段を上がって、三番目の部屋をノックする。

 ミツバの母さんは扉を開け、中へ入るよう促してきた。


「お邪魔、します」


 青を基調とした部屋だった。

 消臭剤の匂いなのか、とても良い香りが漂っていて、部屋は16畳半ほどの広さ。


 壁際にはベッドがあり、そこには本から顔を上げる女の姿があった。


「……あ、ごめん。気づかなかった」


 一か月前より、声の調子が良いみたいだ。

 背丈は高校時代より少し伸びて、全体的にシュッとしていた。

 黒い髪を後ろで結んでいるのは変わらないが、どことなく大人びた顔立ちに、オレは緊張で喉が鳴る。


「ごゆっくり」


 扉が閉じられ、オレはミツバの顔を見たり、床を見たりと落ち着かなかった。


「久しぶり」

「あー……うん」

「アンタ、変わらないね」

「……まあ」

「ちゃんと食べてる? 、ガリガリになってんじゃないの?」


 ベッドを叩いて、「こっち来て」とミツバが言った。

 近づくと、オレは持っていた袋を渡す。


「何これ?」

「クッキー」

「手ぶらでよかったのに。お金ないでしょ?」

「……まあ、働いてはいるから」

「へえ。小説は? まだ書いてる?」


 首を傾げ、オレは床に座った。

 言葉にできない、もどかしさがあった。

 とにかく落ち着かなくて、自分の何かが、どんどん知らない場所に沈み込んでいく。


「アンタ、さ。あの世っていうのかな。あっちに残った時は、どうなるかと思ったよ。それに、起きてから不思議なことばっかりでさ」


 ミツバが座る位置をずらし、近くに寄ってきた。


「元の旦那が包丁持ってきてさ。殺されかけた」


 ミツバが笑って話す。


「覚えてるでしょ。アンタの事、イジメてた奴」

「……うん」

「チャラチャラした、黒いやつ。ふっ」


 来たばかりなのに。

 オレは――帰りたくなった。


「私ね。あいつと別れたんだ。金使い荒くて。イラっとくるし。なんで、あんなのと一緒になったのか分からない」


 細かい傷が残る足先を見つめ、ミツバはため息を吐いた。


「こんな事なら、アンタと結婚しておけば良かったかもね」

「……それは……ないでしょ」


 絶対にあり得ない。


「ね。私さ。ちょっとだけ、記憶があるんだけど」

「……うん」

「アンタのこと、してたアイツ。いつ、死んだの?」

「結構、前かな。10年くらい、前かも」

「んじゃ、高校卒業して、……21? 22の頃かな」


 会いたかったはずなのに――。

 ――会わなければよかった。


 今更、後悔をした。


「そっか。他人の親を悪くは言いたくないけど。解放されたんじゃない?」

「……うん」


 気まずくはないけど、変な沈黙が流れた。

 魔法が解けたオレは、ひたすら指と指を擦り合わせ、帰る口実を頭の中で練っていた。


「リョウ」


 ちょっと前屈みになって、ミツバが覗き込んできた。


「高校の頃さ。よく飯奢ったじゃん」

「うん」

「今度は、私がかつ丼作ってやろっか?」


 オレの隣には、高校の頃のミツバがいた。

 歯を見せて、にっと笑う男勝りな女子。

 大人になって、一段と綺麗になった今でも、笑顔は変わらない。


 オレは、――ミツバにずっとを見ていた。


 思考停止していた高校の時代は、そのほとんどが都合の良い妄想ばかりで埋め尽くされている。意識は別の所にあるまま、体が自動化されて動いている空っぽの人形だった。


 オレはミツバ――の所属しているグループにイジメられていたんだ。

 そこのチャラチャラした黒肌の男子に殴られたり、女子に落書きされたり、玩具になった。


 高校一年の冬。


 家にいられなかったオレは、寒空の中を散歩した。

 ミツバと会ったのは、駅の裏側にあるコンビニだっけ。

 腹が空いて、肉まんが食いたかった。


 普段、イジメられているオレを笑ってた彼女とは、入口の前で偶然鉢合わせになった。


『お』


 と、声を漏らしたので、オレは顔を背けて離れようとした。

 いじめっ子に会ったから、嫌で離れたわけじゃない。

 みすぼらしい自分を


『あんまん食べる?』

『……いや』

『二つあるから。はい』


 これが、オレとミツバの出会いだった。

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