あなたの傍に

見えない奇跡

 オレが退院する日、ミツバの事を聞いてみた。

 個人情報なので教えられない、と当然の回答を貰って終わり。

 赤べこみたいに、首をへこへこスライドして、「すいません」と謝った。


 オレは3か月もの間、意識不明だったらしい。

 オレには、家族と呼べる人が近くにいなくて、もしもの事があれば連絡がつく人がいないのだから、病院に迷惑を掛けていただろう。


 ゴリ松や住職に関しては、オレよりも早く退院した。


 退院して驚いたのは、体重の変化か。

 オレは80キロ前後あったのが、60にまで落ちていた。

 糖尿の気があったから、ちょうど良いといえば、良いのだが。

 糖尿は完治することはないから、いつ再発するか分からないというハンデまで貰った。


 まるで、長い悪夢を見ていた気分だ。

 本当は誰とも関わってなくて、ミツバは北海道にいたままで、何もなかったんじゃないか、と胸に穴が空いた気分だった。


 自宅に帰ったオレは、何をするわけでもなく、ソファに座る。

 誰もいない実家は、時間が止まっているかのようだった。


「職場、……連絡しないと」


 もうクビになってるだろうか。

 でも、不思議と焦りはない。

 生活どうしよう、といった不安はあるけど。

 好きでもない仕事に対しては、何とも思わなかった。


「何だかなぁ」


 オレって、こんな生活してたのか。

 死んだっていいような生活。

 誰かのために、何かやってるわけじゃない。

 貧困で金がなく、どこまでも虚無の暮らし。


 外からは、草刈り機の音が聞こえる。

 窓の方を見て、ふと思うのだ。


 のかな――と。


 あれだけ、苦しかった死後の世界。

 怖いことがたくさんあったのに、不思議と死んでいる方が、オレは生きていた。


 現実では人間なんか冷たくて、社会のルールに従って、無機質な何かを演じているだけに思えた。


 人と人との繋がりなんてない。

 気持ちが落ち着いてくると、肌で感じてしまうのだ。


 スマホを手に取り、電話帳の一覧をスクロールする。

 職場の枠を通り越し、オレはゴリ松に電話を掛けようとした。


 正確には、こいつを通し、その先に薄っすらと繋がっている彼女を想っている。あの世では、自分に素直でいられたのだが、現世ではタップする指が宙を彷徨った。


 今更、何て声を掛ければいいのか。


 よくよく考えたら、彼女は結婚している。

 今は旦那さんが捕まったのかもしれないが、既婚者だった女にどう声を掛ければいいのだろう。


 色々な事を考えて、――オレはスマホを置いた。


 スマホを置いて、数秒が経ったか。

 画面が光り、スマホがバイブで震えた。


 画面には見知らぬ番号。


「誰だ……」


 業者だろうか。

 迷惑電話なら、過去にたくさん受け取った。

 中国語のアナウンスで掛かってくる迷惑電話だったり、罰金百万とか意味不明な迷惑電話だったり、気分が落ち込んでいる時に受け取りたくなかった。


 放置するか、切ればよかった。

 だが、電話に出てしまったのは、退院して早々に誰かと口を利きたい欲があったからだろう。


「はい。もしもし」


 電話の向こうでは、呼吸する音が聞こえた。

 息を吸い込む時、少しだけ声が漏れていたので、相手は女だと分かった。


『……ミツバ……だけど』


 久しぶりに聞いた彼女の声。

 喉に何か絡まってる感じで、上手く喋れないのが伝わってくる。

 だらしなくソファにもたれ掛かっていたが、ミツバの声を聞いて、跳ね上がった。


「声、出るの?」

『少し』


 囁くような喋り方に変わった。

 こっちの方が、喉に負担が掛からないのか。

 何となく、声の調子で察して、ゆっくり会話をしようと思った。


『足。治るから』

「ほんとに? マジで?」

『うん』


 絵馬の話によれば、悲惨な状態だった。

 しかし、どういう訳かミツバは声を出せるし、足が治るという。

 詳細については、まだ不明な点があるけど、ミツバの体調が安定するなら、何だってよかった。


 オレはもっと話したい事がある。

 あるはずなのに、頭が空っぽになってしまった。

 言葉が浮かんでは、消えていく。


 しばらく、互いの息遣いを聞いて、静かな電話のやり取りをした。


『実家に。いるから』

「……うん。今度、見舞いに行っていい?」


 ミツバは『うん』と短い返事をした。

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