地獄

馬頭

 目覚めの病院から洞窟に入った時、足を濡らしたのは氷のように冷たい血溜まりだった。


 今、オレ達の足が浸かっているのは、ぬるま湯みたいな赤い血だ。

 一歩足を動かすだけで、膝にまで水滴が掛かる。

 足の指が絡めとるのは、血溜まりに沈んだ髪の毛。


「ふう。……なあ」

「んお?」


 オレは片手で結び目を持ち、後ろを振り返る。


「ここ。マジでヤバいんじゃねえのか? いや、分かってるだろうけど。シャレにならねえな」


 振り返ると、オレの視界にはゴリ松と住職が映った。

 通路は点滅する明かりに照らされている。


 何がヤバいかと言うと、答えはゴリ松達の後ろにあった。

 決して、まともに見る真似はしない。

 ゴリ松達に視線を集中させ、視界の中に映る違和感に寒気を覚える。


 通路は両脇に病室がある。

 行くときは、がらんどうで、無人だった。


 振り返った今、病室からは体を傾けてオレ達をがあった。

 女もいれば、男もいて。

 全員が青白い顔で、ボーっとオレ達を見つめているのだ。


《ん……んん……》

《ふひゅ……ふひゅ……》


 何を言っているか、全く分からない。

 言葉なのかさえ怪しい。


 ここにいると、精神力がメリメリ減っていく。

 日常生活を送っているだけなら、自分が発狂する姿なんて想像することはできない。

 ところが、極限状態に身を置くと、すぐに自分の狂う姿が頭に浮かんだ。


「リョウ」


 汗を流し、ゴリ松がそっと呟く。


「尻を見るんだ」

「え?」

「尻だ。俺、気づいたんだよ」


 視線がオレを通り越し、不知火の尻に注がれた。


「喋ると災厄。黙れば天女」

「ぶっ殺すわよ」

「あいつ、見た目だけは本当に美人なんだ。だから、黙っていると集中できる。道案内はあいつがしてくれるし、俺たちは運搬と小さい尻に注目していればいい」


 他の女性からしたら、「きっしょ」となるだろう。

 それで構わない。


 ただ、オレ達の現状を少しでも想像できたなら、きっと分かってくれる人もいるだろう。


 臭いのだ。


 鼻から息をすると、魚の腐ったような耐え難い臭いが、鼻孔の奥にまで届く。咽返むせかえるような空間の中、眼球を刺激する霞は、血を蒸発した気体だ。


 常人なら、もう狂っている。

 絶望に打ちひしがれている。


 オレは恐る恐る前を向き、小ぶりな尻に注目した。

 尻の前には、手が置かれていた。

 手のひらをこちらに向け、ショートパンツ姿の尻を見せないよう妨害していた。


「見んな!」

「だ、だってよぉ」

「男って、何で、こうバカなの? 説明したでしょ。ビビらなきゃ、大丈夫なの」

「ビビるって言うけど。具体的に、何をしたらダメなんだ」

「怖がって叫んだり、蹲ったりしたらダメ。すぐにやられる」


 なるほど。

 つまり、で寄ってくるってわけだ。


「――ッ⁉」


 言った傍から、オレは叫びそうになった。


 体が反応を示し、息が詰まってしまう。

 一瞬だが、今ショートパンツが下にずれたのだ。


「だいたい、私たち、地獄にくるような魂じゃないから。あ、個人的に男は全員地獄行きでいいけどね」


 オレは静かに後ろを振り返る。

 同じ点を見つめていた奴らが、見逃すはずがない。


 ゴリ松の方に向くと、「……やべぇ」と青ざめている。

 住職は、「脱げますぞ」と、カタカタ震えていた。


 どうして、ショートパンツが脱げそうになっているのだろう。

 熟考した末、辿り着いた答えは一つ。


 ――こいつ、細すぎるんだ。


 通常、ズボンにしろ、短パンにしろ、くびれに引っかかって脱げないようになる。ところが、細すぎるとくびれが浅いから、滑ったように下へ落ちてしまうのだ。


 ベルトで固定しても、これは同じである。

 ずり落ちるのだ。


「ハァ……ハァァ……ま……じかよ……」


 汗が止まらない。

 震えが大きくなっていく。

 怯えてはダメなのに、体が言うことを聞いてくれない。


「アンタ、そんなに怖いの?」

「えぁ?」

「怖いの、って」


 不知火が聞いてくるけど、上手く答えられない。


「叫ばなきゃ大丈夫だから。正直に言いなさいよ」

「……こ、怖いよ」

「へぇ。――あ、そこに生首あるわよ。ふふ」


 指された場所を見る。

 オレの足の横には、ぷかぷかと浮かぶ人の頭があった。

 男だろうか。


 オレが見ていると、カッと目を見開いて、ギョロリとオレを見る。


「お前はいらん」


 何か言いたげに見つめる視線を無視して、オレは首を蹴飛ばした。

 今はそれどころではない。


 生首?


 だとしたら、洞窟でうんざりするほど、吊るされた女の死体を見てきた。その時に、水面に浮かぶ青白い顔だって見た。


「ねえ? 不知火様って呼んでくれたら、手ぐらい繋いであげてもいいわ」


 正気の沙汰ではない。

 パンツがズレそうなのに、どうして手を繋ぐのだろう。


「何だろう。友達がモテてるのに、全く羨ましくない」

「ええ。同感です」


 二人の感想は正しい。

 モテているとは思わないが、こいつに言い寄られて喜ぶ奴はいるのだろうか。きっと、何か企んでいるに違いない。


「遠慮しておくよ」

「あ、そ。知らないわよ。ここから先、馬頭って男の徘徊する場所だから。見たら、きっと驚くわ。ま、アンタの態度次第では、私が守ってあげる」


 得意げに笑い、不知火が見下してくる。

 オレは調子に乗ってる顔を見た後、下を見た。


「なっ――」


 ショートパンツが、先ほどよりもズリ落ちていた。

 不知火は――。


「ていうか、人形持ってるからさ。それ取り上げれば、あいつ泣くから。結構、簡単なの。牛頭の弟だからね。みんなでイジメたなぁ」


 全く気付いていなかった。

 困惑のせいで、足が止まってしまう。


 こういう時、言ってあげた方がいいのだろうか。

 でも、言ったら不知火の事だ。

 悪態を吐いて、オレ達を性犯罪者にするかもしれない。


 これ以上、ストレスは溜めたくなかった。


 とはいえ、このままでは脱げるのも時間の問題。


「お、噂をすれば……」


 不知火が前方を向いて、つま先で立つ。

 小さく上下に動くものだから、ショートパンツが徐々に下がっていく。


「あ、ああ……っ!」

「や、っべぇぇ……っ!」

「むううううう……っ!」


 オレ達は恐怖で叫びそうになった。


 見たくない。

 不知火の生尻をオレは見たくない。

 なのに、オレの意思を無視して、ショートパンツが脱げていく。


「ああ、あああああ! あああああああああ!」


 ビクッとして、不知火が振り返る。

 その時、建物が大きく揺れた。


 ずし……ずし……ずし……っ。


 大きな物音を立て、水飛沫を上げて、何かが近づいてくる。


「げっ。来ちゃったよ」


 ――白桃が――。


「うわあああああああああ!」

《ぎぃ、ぐっふふ。み~づげだ》


 結び目から手を離してしまい、オレは叫んだ。

 二人が慌てて両手持ちになるが、オレは手伝えない。


 不知火の下に実った白桃が、目に焼き付いたのだ。


「目を閉じろ! リョウ!」

「見てはいけません!」

「うわああ! あああああ!」


 恐怖で全身が震えていく。


 こんなに、魅力のない尻は見たことがなかった。

 それどころか、どんな濡れ衣を着せられるのか。

 想像しただけで怖かった。


「ちょ、馬頭! やめなさ――」


 不知火が止めようとしたが、ふと自分の下半身に違和感があったのか、下を向いた。目が大きく見開かれた瞬間、口を大きく開けて硬直。


「きゃあああああ!」


 オレは得体の知れない化け物に身体を掴まれ、勢いよく通路の奥に投げ飛ばされた。

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