無理だ

 目を覚ますと、目の前には不知火がいた。

 苦い顔で覗き込んでおり、よく見れば他の二人も首を伸ばして、覗き込んでいた。


「お前が……、ミツバを殺したのか?」


 冷静になれば、間違いだと分かるだろう。

 でも、今は違う。

 自分の意識とは違って、頭に血が上り、不知火への憎しみも加算され、オレはとにもかくにも怒りをぶつける事だけが目的となった。


「お前がああああああ!」


 不知火に掴みかかり、両側から頬を鷲掴みにする。


「ふぎいいいい!」

「お前さえ、……お前さえいなければ、ミツバはァ!」

「落ち着け、リョウ! おい! どうしたんだよ!」

「錯乱しておりますな!」


 バチンっ。


 突如、頬を強打され、視界がグラグラと揺れた。

 ビンタされたのだ。

 不知火の細い腕からは考えられない力で、頬を思いっきり打たれ、耳鳴りがした。気を抜くと、意識が丸ごと持っていかれる。


 あまりの破壊力に成す術もなく、オレは不知火の上に倒れ込んだ。


「いい加減にしなさいよ! アンタの事助けてやったのよ! んもぉ、退いて! この!」


 痛いなんてものじゃない。

 鼓膜が破ける。

 本当に女か?

 そう疑いたくなったが、よくよく考えれば彼女は鬼である。


「だから、地獄は嫌なの! ね? 言ったでしょ? 私、アンタ達に、今説明したよね⁉」

「お、おう」

「……うむぅ」


 不知火に怒られ、二人はしょんぼりする。


「地獄ってのは、必ず洗礼があるの。どれだけ狂人だろうが関係ない。無理やり健常に戻される。整えられる。それから、恐怖心を植え付けさせて、やっと目覚める。目覚めたら、地獄の鬼がアンタ達を連れて、恐怖が途切れないまま、拷問の連続。こういうカラクリなの!」


 早口に捲し立て、開かれた襖の向こうを指す。

 襖の向こうには薄暗い通路が続いていた。

 その中に、青白い肌をした女が立っている。

 白い看護服を着ており、目はギョロギョロとしており、ボーっと突っ立っていた。


 怖くて仕方ないオレは、落ち着くために不知火の肩に手を置く。


「……あぁ、マジか」


 ゴリ松は手を握ったし、住職も反対側の手を握る。


「アンタ達ね……」


 地獄を舐めているつもりはない。

 なかったが、まさか、これほど精神的にくるとは思わなかった。


 しかも、通路の床は赤い液体で満たされているため、視覚的にもきつい。


 物理まで加わったら、本当に狂う。


「帰ろうぜ。これ、エレベーターみたいなもんだろ? 天国に戻れねえのか?」

「この部屋は、天国から追放された人が乗るもの。天国から地獄に落とされることはあっても。地獄から天国に行く事はない」


 つまり、一方通行だ。

 絶望したオレは不知火の背中に隠れ、不本意ながら密着してしまう。

 他の二人も同様だ。


 意味の分からない恐怖心で、手足が震えるのだ。

 心はずっとざわついているし、今のオレには精神的に安定できるものが欲しかった。


「引っ付かないでよ!」

「怒るなよ! 今のオレらはなぁ、怖いんだよ! 怖い時に怒られたら、狂うしかないだろ!」

「……な……なんで、私が怒られてるの」


 歯がカチカチとなる。

 牧野?

 どうでも良かった。


 今は、心を安定させる方が先決だ。


「マズいぞ。心が冷え切ってる」

「ああ。どうにかして、心を温める方法を考えよう」

「む? 何か、デジャヴが……」


 オレ達は相談し合い、恐怖心を克服するために、ある事を思いついた。


「リョウ。エロい事を考えようぜ」

「エロいこと?」

「ああ。性欲で恐怖を紛らわせ、手足が動くようにするんだ。でないと、オレ達は再び恐怖のどん底に突き落とされる」


 それだけはゴメンだった。

 怖がりな人は分かるかもしれないが、人間は恐怖に支配されると、思考が回らなくなる。手足が上手く動かせないのだから、行動にまで支障がきたす。


 最悪の状態と言っていい。


「で、でも、……エロい事って」


 目の前には、ずっと女が立っている。

 ジッとオレ達を見ている。

 看護服は血に濡れており、全体的に生気がなかった。

 通路は病院の廊下だろうか。

 病室が両脇に見えており、床は血と思われる赤い液体で浸水。

 病院で使う道具が、ぷかぷかと浮かんでいる。


 興奮できる材料なんて、どこにもなかった。


「くそ。くそ! エロいこと。エロいこと……」


 呼吸する息が震える。

 どうすればいいのだろう。

 思考まで冷え切った、その時だった。


 オレはすぐ目の前にある、首筋に注目した。


 ――これだ。


「なあ。みんな。聞いてくれ」


 後ろから前に手を回し、不知火を指す。


「みんなで、……こいつに興奮するぞ」

「アンタ達ね。いい加減に――」

「無理だ。……無理だって!」

「ええ。相手が悪すぎます!」


 二人は難色を示す。

 苦しげに表情を歪ませ、全身が震えていた。


「母ちゃんの裸見るようなもんだぞ!」

「失礼ね!」

「だけど、オレ達が助かるには、それしかないだろ!」

「だったら、お前はこいつを見て興奮したのかよ! 心が少しでも動いたのかよ!」


 ゴリ松が不知火の肩を持ち、ぐるりと反転させた。

 怒りに表情が歪む不知火。


 外見は満点だ。

 現世では、間違いなく可愛いギャルとか、そっちの方に通ずる。

 スタイルだっていい。

 茶色の長い髪は、クラブハウスで洗ってしまったとはいえ、今でもフワフワと柔らかい髪質を維持している。


 だが――。


「ぐっ……」

「おい」

「これに、……どう興奮しろってんだよ!」


 ゴリ松が泣きだした。

 大粒の涙がポタポタと落ちて、喉が痙攣している。


「無理がありますな」

「……チッ」


 不知火は、――性格ブスだ。

 オレの思っていることをゴリ松が大声で叫んだ。


「性格ブスはァ! 外見ブスに等しいんだよォ!」


 魂の叫びが通路の奥にまでこだました。

 不知火は真顔になり、ジッとしている。


「人を見る時、何で性格を見るか分かるだろ! 幻滅って言葉が生まれた意味だって分かるはずだ! 外見は何より大事! でも、性格だってステータスの一部だろ! それが壊滅していたら、もう、……女じゃない」


 不知火が天井を見上げた。

 こめかみには青筋がくっきりと浮かび、「ふぅー」と、怒りの混じったため息が吐き出される。


 オレはミツバを想った。

 あいつの事は、好きだからこそ性的な目で見れない。


 でも、他の女は、正直どうだっていい。

 性欲の入る隙間があるのだ。


「胸を見よう」

「リョウ!」

「いいから見るんだ! オレ達は、苦しむために生まれたんじゃない。いつだって、全力で間違えて、生きるために歯を食いしばってきた。その希望が、目の前にあるんだよ」


 小さく膨らんだ胸。

 何も魅力がなかった。

 綺麗には整っているが、性欲を刺激する要素が何一つない。


「……今から、オレの言うことを鵜吞みにしろ。不知火は、実は源氏名だ」

「源氏名?」

「ああ。早い話、こいつはAV女優で、鬼のコスプレをしてるだけだ」

「なるほど。だからこそ、痴女の恰好をしている」

「そういうことだ。見ろよ」


 不知火の冷め切った目つきを指した。


「マジギレしてる」


 空間には、三回肌を打つ音が響いた。

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