不知火

 天国の扉に案内されたオレは、目の前に眩い光が広がる様を眺めた。

 まだ生きているのに、天国へ行くというのは、奇妙な話だ。


 後ろにいる二人は生唾を呑み、光に目が慣れていくと、同時に「おぉ」と声が漏れた。


「これが、……ヘブンズ・ヘブンか」

「ん?」

「言ってみたかったんだ」


 今の気持ちを表したくて、何か上手いことを言おうとした。

 表現力が謎のオレは、謎の言葉を口にし、扉の向こうに足を踏み入れる。


 扉の向こうには、緑の渓谷が広がっていた。

 足場は羽毛のように柔らかい緑の苔。

 近くには底まで見透かせるほど、済んだ小川がある。

 道はデコボコとしているのに、不思議と歩きづらさを感じない。


 空を見上げれば、温かい日の光が降ってきた。

 雲一つない快晴。

 澄みきった青空に浮かぶ太陽は、まるで慈しむ眼差しを向ける聖母のように美しく、体をなぞる柔らかい風は、無邪気な子供のようにオレ達の間を通り過ぎていく。


 端的に言うと、オレは初めてあの世で癒しを得たことにより、気分に浸っていた。


 何でもできそうな全能感。

 見れば、ゴリ松達も同様に、扉から数歩離れた地点で、地面に寝転がった。


「あのぉ」

「うおお⁉ びっくりしたぁ!」


 心臓が飛び跳ねた。

 いきなり、真後ろから声がして後ずさったオレは、住職を盾にして声の主を確かめる。


 どことなく気品のある女性だった。

 白い着物を着ており、髪はサラサラと流れるようで、さながら粒状の宝石がいくつも輝いているかのようであった。


 丸みのある目は優しく、すぐに警戒心が引っ込んでいく。


「……すっげぇ美人」

「ええ。……美しい、という言葉を使うのは、これが初めてですね」


 目の前の女は照れ臭そうに面を下げた。


「それに比べて――」


 オレは入口の所に突っ立っている、残念美人を見た。

 茶色の長い髪は毛先が丸まり、艶はない。

 キッと釣り上がった目つきは、見る者に不快感を与え、苛立ちと殺意、警戒心を増幅させる。


 嫉妬しているのか、あいつが天女さながらの御仁を見る目は、どこか鬱陶しそうであった。


 そして、鋭い目つきがオレの方に向く。


「……なによ」

「別に」


 オレは思った。

 女性、というのは当然人間であることから、様々なタイプがいる。

 世界で一番腹の立つ女がいれば、自然とかしずいてしまう女性までいる。


 例えるのなら、人間にとって必要な太陽と汚泥おでいである。


「あの、こちらにご案内された方ですよね。どうぞ。こちらへ」

「あー、えっと……」


 どう答えたものか。

 オレは仲間の二人を見た。


「あぁ、これは、どうも。俺。ゴリ松って言います」


 本名ではない。


「失礼ですが、あなたの名前をお聞きしても?」


 住職まで、デレデレだった。


「ツバキと申します。以後、お見知りおきを」

「ツバキさん! あぁ、何ていい名前だ」

「ええ。濁った水溜のような女性とは違う。あなたがいるのなら、世界は平和になる。私は、それを確信しましたよ」


 残念美人が苦虫を噛み潰した表情で俯いた。

 歯軋りの音が聞こえ、耳を澄ませると、「男なんて……」と憎悪を含んだ独り言が聞こえる。


 ツバキさんは入口の方を見ると、目を丸くした。


「まあ。不知火さん。お久しぶりです!」


 パタパタと駆け寄り、両腕を伸ばす。

 可愛かった。

 仕草が全て可愛かった。


「ん? 待て。あいつ、不知火しらぬいってのが本名か」

「不知火……。なんて、もったいない名前なんだ」


 残念美人、改め、不知火は嫌そうな顔で距離を取る。

 そもそも、何でこいつを連れてきたかと言えば、ターゲットの顔を知っているからであった。


 オレ達は口で説明されても分からないし、自信がない。

 そこで不知火の出番であった。


「今日はどうしたんですか?」

「……別に。関係ないじゃん」


 オレはとうとう怒りの限界点に達した。


「おい! 不知火、こらぁ!」


 ビクッとして、不知火が振り向く。


「お前、ツバキさんが聞いてるだろ! 答えろよ!」

「そうだぜ! ふざけんじゃねえよ! 何、澄ましてんだよ!」

「ふう。身の丈を知らない者は、これだから……」


 散々言われた不知火は、歯を剥き出しにして、オレ達に殺意を向けた。

 

 オレ達はビビらない。


 息の詰まる世界には、オアシスが必要だ。

 約束された桃源郷を守るためなら、オレは世界を敵に回す。


「……くっ。こいつらぁ……」

「不知火さん。一つお聞きしても?」

「なによ」

「……どうして、あの方たちは、その……」


 ツバキさんはオレ達を見ないようにしていた。

 いや、チラチラとは窺ってくれている。

 ゴリ松は彼女の反応にピンと来たらしい。


「あれ、男に耐性ないな。ふっ。絶対に惚れてる」

「参りましたねぇ。我々にはやることがあるのですが……」


 二人はその気だった。

 オレはミツバの事が頭にあるので、まだ正気でいられる。

 だが、ミツバがいなかったら、オレは彼女に勇気を出して声を掛けていただろう。


「お嬢さん。何か困りごとでも?」


 両腕を広げ、オレはツバキさんに近づいた。


「え、っとぉ……」


 何やら、モジモジとして、不知火の方から振り向こうとしない。

 一方、憎き残念美人は、ジロっとした目で言ってくる。


「服着てないからでしょ! なに、その気になってるの!」

「は?」


 そう。

 よくよく考えれば、大の男が三人全裸で渓谷に立っているのだ。

 どれだけ妙な景色が広がっていたことか。


「マズいな。慣れすぎて、服を着ていないことを忘れていたぞ」

「あ、ああ。確かに。全裸が心地よすぎて、つい」


 オレ達は一斉に前を隠した。

 これは恥ずべきことだ。


「ツバキ。牧野タツヤの場所まで案内してほしいんだけど」


 不知火がお願いをすると、ツバキさんは申し訳なさそうに首を横に振った。


「すいません。それは、……できません」


 言われた直後、不知火は分かってた風に肩を竦めた。


「どうして、ダメなんだ? 何か問題があるのかい?」

「はい。だって、牧野さんは――」


 ツバキさんは不知火の方を見たまま教えてくれた。


「絵馬さんの、……です」


 住職は腕を組み、空を見上げる。

 ゴリ松は首を傾げ、顎に手を当てた。


 オレはすぐに不知火の方に歩み寄り、「ちょっと、こっち」と、一旦天国の入口から出ていく。


 薄暗い通路。

 扉の陰でオレは偉そうに腕を組む不知火に聞く。


「ん? 元彼氏?」

「……まあ」

「まあ、じゃねえんだわ。おっとぉ。これは、んー、なんだ?」


 言葉が出てこないので、少し口ごもってしまう。

 声のトーンを落とし、顔を近づける。

 すると、嫌そうにバカが顔を逸らすので、首根っこを掴んだ。


「なによ! 触らないでよ! 変態!」

「るせぇよ、バカ。お前、何か? 痴話喧嘩にオレら駆り出されてんの?」


 襟元を手で払うと、眉間に皺を寄せた。


「そう言ったもん」

「言ってない。聞いてない」

「やる事は変わらないでしょ」

「お前さぁ。……話してない事あるなら、全部言えよ! オレらの覚悟何なの?」


 元カレなら自分で呼べばいい。

 いや、取引だから機会を与えてくれた事には変わらないけど。

 それでも、元カレの始末を頼むというのは、いくら何でも痴話喧嘩に巻き込まれた感じが否めなかった。


「はいはい。じゃあ。聞きたいことは?」

「二人とも来てくれ! こいつ、ギルティだ!」


 すぐに二人が来て、壁際に追い詰めた不知火を囲む。

 怒られた子供みたいに口を尖らせ、不知火がムスッとふてくされた。


「あのさ。ブス。オレから提案あるんだけど」

「死ね」

「どうこうする、じゃなくてさ。連れてくるのはどうよ」

「無理だよ。警備厳重だもん」

「話をするってだけでいいんじゃね?」

「相手は聞く耳持たない」

「分かりませんなぁ。そこまで深い溝があるとは。……原因は何です?」


 オレらはプロの殺し屋じゃない。

 だから、根掘り葉掘り聞く。


「そんなの牧野の浮気に決まってるじゃん」


 ゴリ松が頭を抱え、「めんどくせぇ」と嘆いた。


「まあ、閻魔さんに奇跡を起こしてもらうからさ。やるけどさ。一度、連れてきた方がポイント高くなりそうだけどな。どう思う、住職」

「ふむ。当人同士で会話をさせるのは、一つの手ですな。……修羅場になりそうですが」


 オレ達がそんなことを話していると、横から「あのぉ」と控えめにツバキさんが声を掛けてきた。

 両手で顔を隠し、何も見ないようにして言うのだ。


「奇跡をお望みなら、……ウチでできますけど」

「はあ? 嘘吐かないで! ねえ。騙されないで! こいつ、嘘つきだから」


 奇跡。――極楽浄土で、叶えることが可能。

 考えてみれば、閻魔大王が起こす奇跡より約束された世界の方が、そういった力を所有しているのは納得だった。


 不知火は焦り、ツバキさんに罵詈雑言を浴びせる。

 醜い女だった。


 ――……取引はしてるからなぁ。


「分かった。とりあえず、話を聞かせてもらっていいかな?」

「ちょっとおおお!」


 オレ達三人は、駄々を捏ねる不知火を無理やり連れて、天国の中に戻った。

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