川のほとり

 未知の先に明かりが見えたのは、水位が胸元にまで上がってきた頃だった。


「ハァ、ハァ。出口じゃねえか?」

「あ、ああ」


 胸元にまで水位が来ると、浮力のおかげでミツバの体重は、ほとんど感じられない。代わりに、見えない水中の中では、無数の手と思わしき物体が体中に絡みついてくる。


「なあ!」

「ンあ⁉」

「水中にさぁ! どれだけのエロ女がいると思う⁉」


 死体、という言葉は使わない。

 精神的にギリギリの状態だ。


 人間、追い詰められると今の世の中では言っちゃいけないことだって、普通に言ってしまう。


 理性とは、平和の名の下で成立するものだ。

 そんなものはとっくに捨てている。


 想像してみてほしい。

 視界の端に頭から上半分がぷかぷかと浮かんで、こちらをジッと見ている奴がいるのだ。


 挙句にミツバの足を持つオレの手を解こうと、無数の手が絡みついてくる。指をガリガリと引っ掻いてきたり、乳首の辺りに爪を立ててきたり、やっこさんも遠慮がなくなっていた。


「100人」

「左に同じく」


 幅は2m弱。

 この狭い通路にこれだけの女がぎゅうぎゅう詰めでいる。


「股間を触られた人! 教えてくれ!」

「胸は引っ掻かれた! だが、股間と尻は無事だ!」

「左に同じく!」

「くそ。こいつら、場所を選んでやがる」


 ミツバの意識が戻っている事が、何よりの救いだ。

 ミツバは力が強い。

 だから、オレの肩にガッチリとしがみ付いているし、多少引っ張られても、オレが後ろに脚を伸ばして顔を踏みつけて抵抗しているから、連れて行かれる心配はない。


 ただ、ミツバにはどことなく優しい女達は、男に対して一切の遠慮がないのが事実。


「おい。ここから、坂になってる。足の裏を床が噛んでるからよ。ちと、いてぇぞ!」

「おう!」


 ゴリ松が教えてくれた通り、つま先に段差の感触があった。

 階段状になっている場所があれば、ザラザラとした坂のようになっている部分もあり、足場がとにかく悪い。


 けれど、ゴールは見えた。


 つま先を折り曲げ、一気に力を振り絞る。

 両足を動かす度に、水位は下がっていき、ついには腰元まで赤い水から出ることができた。


 あとは、光を目指して進だけ。


 その矢先、股間に違和感があった。


「……なんだと?」


 見れば、オレの剥き出しになった股間には、青白い手が張り付いている。太ももの付け根には、腕が回されていた。


「ハァ、ハァ、ど、どしたよ」

「マズいぜ。ゴリ松! 住職!」


 オレは二人に助けを求めた。

 オレの尻の側面にピッタリと顔をくっつけた女がいた。

 生前はとても美人だったのだろう。


 今では、股間を握りしめる亡霊だ。


 歯を剥き出しにして、股間に爪が立てられていく。


「やべぇ! ち〇こが掴まれた!」

「くそが!」


 この先に行かせてはいけない。

 そう言わんばかりの執念を感じた。


 咄嗟に後ろへ倒れないよう、前に屈み、股間の圧迫感に耐え忍ぶ。

 戻ってきた二人が何やらしがみついてくる女を叩いているが、一向に離してくれない。


「ハァ、ハァ、やべえぞ」

「ええ。我々は冷たい水のせいで体力が限界」


 二人がオレの後ろを見て言った。


「100人どころじゃねえ。何百って数がひしめきあってるぞ」


 二人が見た光景は、想像を絶するものだったに違いない。

 耳を澄ませれば、《ダメだって!》と本気で怒るトーンの声がいくつも聞こえる。


「こいつら。何がしたいんだよ!」

「分からねえ! どうして、こんなに止めるんだ!」


 ミツバの吐息が震えている。

 怖いに決まっていた。


 もう形振なりふり構ってられない。


「おい! 考えがある! 住職。アンタの尻を後ろの女にくっつけるんだ!」

「ほう」

「顔面と尻の押しくら饅頭だ!」


 脳みそをありったけ絞り、女が嫌がるであろう事を発想する。

 住職は浅黒い尻を女の顔に向け、深呼吸をする。


「初体験ですな」

「食らえ!」


 オレは片足に力を入れて、体を捩った。

 女の顔面が少しだけ前に倒れていく。

 その前方からは、おっさんの汚い尻が迫ってくる。


《ひっ……》


 恐怖に怯える声が上がった。

 同時に、オレの股間から手が離れていく。


《いやぁ!》


 尻を押し付ける住職とすれ違い、オレは前に進んだ。

 水位が膝の所まで来ると、後ろを振り返り、二人に叫ぶ。


「もう大丈夫だ! 先を急ごう!」

「おう!」

「ふふ。合点承知!」


 住職は突き出した尻を引っ込めて戻ってくる。

 来た道からは、女たちのすすり泣く声が聞こえた。


《おえっ……》


 嘔吐したのか。

 オレにしがみついた女は小刻みに震え、口を押えている。


 本来なら哀れむところだが、今は違う。

 オレは生きるために、修羅の道を歩む。


「やっと外だぜ!」


 光の先へ進み、肺一杯に新鮮な空気を取り込む。

 遅れてきた二人も同様に清々しい表情で、前方を見渡した。


「……なあ」

「ん?」

「洞窟の先って、……川か?」


 目の前には桟橋がある。

 川、というより湖に近い。

 遠くには、灯篭っぽい明かりが見えている。

 なぜ、灯篭だと思ったのかといえば、桟橋には灯篭があり、同じ明かりをしていたからだ。


 目の前には砂利が敷き詰められていて、その面積は原っぱほどの広さをしている。


 オレは何も言わなかった。

 ゴリ松は清々しい表情のまま、足元の小石を蹴っている。


「……ふむ。三途の川では?」


 住職が真実を口にした。

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