大脱出
胃液を戻さないよう、ベッドの柵に寄りかかり、オレは住職に声を掛けた。
「ふぅ、……ぷふぅ。お、おい。住職さん」
ゴリ松が背中を擦ってきた。
胃の奥にズシンと染み渡る苦しみ。
腹パンをした張本人は、しれっと隣に突っ立っている。
奴は言ったのだ。
《日課……》
一瞬だけ、怒りが恐怖心を超えた。
何か理由があるのではないか、と思ったが、奴にとって腹を殴るのは日課のようだ。
言いたいことは山ほどあるが、今はそんな事どうでもいい。
「早く逃げようぜ」
「おやぁ? 仲直りしたのですか?」
住職はにんまりと笑い、隣にいる奴を見た。
奴は無感情な顔で住職を見下ろしている。
元々の目の形がミツバと同じで鋭いため、黙っていると「キレてんのかな」と勘違いしてしまう。
「いや、未だに戦争中だ。それより、大変なんだ」
オレは隣を指し、一息吐いてから事情を説明した。
「どっかのバカのせいで、オレ達、三途の川を渡る直前だってよ!」
「……え」
住職は一瞬驚いた様子で目を見開き、すぐに黙った。
「生と死の狭間にいる、って所ですかねぇ。なるほどぉ。狭間の場所が、まさか病院だなんて」
「このままじゃ、本当に死んじまうぜ。おら。早く立ってくれよ!」
布団を剥いで、オレとゴリ松は住職を立たせる。
「出口知ってるのか?」
《霊安室……》
「そっちの出口じゃねえよ! 霊安室って人生の出口だろ!」
「待て、リョウ。この世界では、霊安室があの世とこの世を繋ぐ場所なんじゃないか?」
奴は頷く。
またからかわれたのかと思ったが、違ったようだ。
「あー、そうだったのか。ごめ――」
ズドッ。
謝っている最中、腹に拳が減り込んでくる。
外部の圧力でメリメリとみぞおちが潰れていき、息ができなくなったオレは、その場に蹲った。
「ぎ、がぁ、……あや、まってんじゃ……」
腹を押さえる手が震える。
「また腹を殴られたのか。お前、モテすぎだろ」
「腹を殴ることが好意ならば、とてつもない愛情をぶつけられておりますな」
そんなわけなかった。
純粋な殺意を腹の一点にぶつけられているだけだ。
このままでは、また胃液を吐き出してしまう。
目の前にある、奴の足を睨み、一回でいいから殴ってやりたいと思った。
腹を擦って、顔を上げる。
相変わらず、仏頂面で見下ろしてくる女幽霊。
「ん?」
オレの視線は、奴を通り越して部屋の内装に目が留まった。
先ほどまで、病室は枕もとの明かりだけが点いており、薄暗い空間だった。
部屋の隅は濃い闇が漂い、廊下は非常口の明かりで、ぼんやりと闇が透けている程度だ。
なのに、今は違う。
天井には赤い染みが広がっていた。
天井の白い花びらを描いた絵は、いつの間にか彼岸花に模様が変わっている。
「ほう。これは、これは……。鬼が迎えに来たのかもしれませんな」
住職は言いながら立ち上がり、ゴリ松の肩にしがみついた。
平静を装っているが、住職はガタガタと震えている。
「寒くねえか? ハァ~~~……」
息は白く、真冬の外に放り出されたかのようだ。
この異常な光景を前に、最早言葉はいらないだろう。
絶対にマズい。
このまま病室に留まっていたら、全員がどうにかなるのではないか。
言葉が浮かぶ前に、本能が危険信号を発していた。
《診察のお時間です》
声がした方を見ると、いつの間にか病室の出入り口には医師が立っていた。白衣は赤黒の液体が染み付いており。医師の顔は青ざめ、生気が感じられない。
「や、やべぇ」
本物の幽霊を見てしまった。――というと、語弊があるけど、いつも腹を殴ってくる幽霊より未知の恐怖がある。
「リョウ。おい! リョウって!」
「ぇあ?」
「ま、窓の外……」
ゴリ松が後ろを指しているので、何事かと目を向ける。
窓の外はベランダになっているのだろう。
そこには医師と同じく、生気の感じられない表情をしたナースや患者服を着た男女が、一列に並んでいた。
「ちくしょう! ちくしょう! 病院って、エロい場所じゃねえのかよ! 俺、期待してたんだぜ!」
ゴリ松は腹の底から欲望を叫んだ。
悔しげに涙を流し、住職と抱き合った友人は、忙しなく首を左右に振り、震えていた。
女幽霊は棒立ちのまま、オレをジッと見ている。
オレは考えた。
「……いや。一つだけ、突破口がある」
ベッドの横にある丸い椅子を両手に持ち、オレは廊下の方を向いた。
「多勢に無勢。なら、オレ達が進む道は、一つだけだ」
「え⁉ やんの⁉ 相手、幽霊だぜ⁉」
「馬鹿野郎! オレ達、……幽霊に何発も殴られてんだぜ⁉」
奴を顎で差し、オレは二人を説得した。
「この規格外の幽霊が相手なら、オレ達はデッド・エンドだ! 物理的に勝ち目がないからな! だけど、見ろよ」
近づいてくる医師。
その背後に立つ屈強な女幽霊。
「あいつ、格闘技はやってない。武道もだ」
「まさか、幽霊を相手に強さをはかる日が来るなんて……」
「オレ達は男三人。タコ殴りにしようぜ!」
二人はオレの言いたいことが分かったようだ。
絶望に満ちた表情が、「やってやる」と殺る気に切り替わってくる。
――ペキン。
オレ達は一斉に医師の方に振り向く。
目の前には、首が有り得ない方向に傾いた医師がいた。
首は太い腕が回され、尚もギリギリと絞めつけられている。
「ど、どうする?」
せっかく覚悟を決めたのに、全部女幽霊が持っていってしまう。
このままでは、第二波が来たときに、オレ達は自信喪失で動けなくなる。
「こうするんだよ! うおおおおお!」
もう、何も怖くない。
女幽霊が首を絞めている間、オレはバットを振り回す要領で、医師の腹を椅子で殴った。
《ん”ぐぅ!》
できる。
やれる。
人間その気になれば、不可能なんてない。
「今だ! 腹を殴れ! いいか⁉ 腹だぞ!」
「う、うおおおおお!」
「ちぇやあああああ!」
ゴリ松と住職は雄たけびを発し、初老の医師に殴りかかった。
首を絞めている女幽霊の腕には気を遣い、腹や足をタコ殴りにしていく。
《う”っ! う”う”っ!》
医師が全身痙攣を起こし、グッタリとし始めた。
これを好機と受け取ったオレは、ここぞとばかりに胸倉を掴み、猫パンチで顔を殴る。
「い、って!」
不思議なことに、素手で殴ったオレまで痛い思いをした。
殴った際、顔に当たった指やげん骨が、ヒリヒリとする。
なぜ、殴っている側が痛いのか、理解が追い付かなかったが、今はどうでもいい。
「行くぞ!」
「お、おう!」
廊下に飛び出したオレ達は、エレベーターのある方に向かって走り出す。先ほどまで黒一色だった廊下は、赤いランプに照らされたかのように、真っ赤に染まっていた。
走っている最中、ふと後ろが気になり、奴が付いてきているか確認する。すると、奴は廊下の途中に立ち、何やら病室の中を凝視していた。
「おい! お前が来ないと武力がないだろうが!」
いつの間にか、脅威だった女幽霊の武力を頼っているオレは、怒鳴りながら道を引き返す。
「早く来いって!」
廊下の途中にある、扉が開きっぱなしの病室。
奴はその中をジッと見ており、急かすオレは「今度は何だよ」と、奴が見ている病室を見やった。
中は個室のようだった。
団体部屋の隣に、なぜ個室があるのか分からない。
普通、団体部屋と個室のエリアは分かれているものだとばかり思ったが、病院によって違うのか。
「ここがどうかしたのか?」
中が気になるだろうか。
ただ棒立ちしているだけなので、じれったくなったオレは、病室に入って中を確認した。
「何もな――」
言いかけ、オレは言葉を失う。
個室のベッドには、一人の女が寝ていた。
女にしてはガタイが良くて、背の高さが寝ている状態で分かる。
「………………ぉい」
顔は変わっている。
髪はセミロングくらいの長さ。
でも、面影があった。
「……ミツバ?」
ベッドに寝ているのは、ミツバだった。
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