少しだけ打ち解けた
汚い話で申し訳ないが、オレは今、ゴリ松と連れションをしている。
「なあ。ゴリ松」
「ん”お”っ、な、なんだよ」
首だけを回し、後ろを振り向く。
オレ達の真後ろには、ナースが立っていた。
《検尿のお時間です》
人形のように、無機質な声がトイレ内にこだまする。
何も変な気は起きないが、後ろに立って見られていると、用を足しづらかった。
「何でこいついるんだよ」
《検尿ですので》
検尿のためのコップなんて、どこにもない。
オレ達は普通に用を足しているだけだ。
横を見ると、ゴリ松は苦悶の表情で自分のブツを見ていた。
気持ちが分かる。
きっと、上手くできないのだ。
暑いわけではないのに、汗の滴が浅黒い頬を伝う。
《……あなた》
ゴリ松を見ていると、ナースさんが顔だけで間に入り、オレを覗き込んできた。
《糖の持病をお持ちですか?》
「……なぜ?」
ナースさんが便器の中を覗きこもうとするので、オレは慌てて前に腰を突き出した。
「いや、ちょ、やめ……」
《検尿ですので》
「やめ、ろ、って。おい」
ぐいぐいと肩を引き、ナースさんは意地でも便器の中を覗きこもうとしてくる。
《あ》
すると、急に動きが止まった。
視界の端に映るナースさんが、何やら硬直しているので、気になったオレは目だけを横に向ける。
――白い顔には長い指が食い込んでいた。
「うおおおお⁉」
手はナースさんの後ろから伸びていた。
丁度、手の平が耳を覆い隠す位置にあり、指は頬肉と上唇を握りつぶすように食い込んでいる。
恐る恐る、後ろを振り向いた。
そして、オレは絶句した。
ナースの後ろには、奴が立っていた。
ミツバに似た幽霊。
大きな目玉をギョロっと剥いて、ナースさんを後ろから睨みつけている。
ようは幽霊が幽霊に襲われている状況だった。
「お前、なんで、ここに……」
また、腹パンしにきたのか。
今、用を足しているのに?
冗談ではなかった。
下腹部に力を入れる事で、ようやくお小水が出てきたというのに。
ここで腹を殴られたら、確実に飛び散る。
「リョウ。今度はどうしたんだ? 何があった?」
ナースは見えているのに、奴は見えていない。
それはそれで奇妙だが、ゴリ松は状況が分かっていなかった。
「奴だ。奴がナースさんを襲っている」
「え? 嘘だろ!」
「お前の目には、何が映っている⁉」
「何がって……」
ゴリ松がナースさんをジッと見た。
「ベロを出して、白目を剥いていて。……あぁ、そうだ。アへ顔ってやつだ。エロ本で見たことがある! ……だけど、妙だ。今はエロいことが何も起きていない! なのに、どうしてアへ顔を……」
「バカ野郎! マジの白目だ!」
メリメリと音を立てて、ナースさんの顔が崩れていく。
ある意味、恐怖に支配されたオレは、急いで用を足す。
「くっそ! くそ! 早く出ろ! 死の化身がそこに迫ってる!」
「う、うあああああ!」
オレ達は絶叫した。
《あ……あ……ああぁ……ァッ!》
ナースさんの掠れた悲鳴がトイレに響いた。
だが、悲鳴の大きさはオレ達の上だ。
無防備な状態で現れた恐怖の女王。
小水の飛び散る恐怖。
男子便所なのに、女が二人いるという気まずい状況。
その全てがオレ達を狂わせていた。
――……ペキ……コキュ……ポキポキ……っ。
小枝を踏み潰したような、小さな音が幾度となく隣から聞こえる。
見ると、奴はナースさんの背中を膝で前に押し、首だけを後ろに引っ張っていた。
「素数だ! ゴリ松。素数を考えろ!」
「どうして⁉」
「オレ達は錯乱状態にある。だから、
奥歯を噛みしめ、オレは下腹部に力を入れた。
「1、2、3、4……」
「それ整数だ! バカ野郎!」
どれだけ溜まっていたのか、定かではないが、力を込めれば込めるほど、小水は便器の中に放出されていく。
無限に続く水音。
夜明けはいつだ。
放出してから、しばらくの間、オレは時を忘れた。
オレの中に解放感が芽生えてきた。
「よ、よし!」
すぐにオレはトイレの個室に入った。
外から開けられないよう、しっかりと鍵を閉める。
「はひぃ、はひぃっ。な、ナーしゅしゃん!」
――ゴツっ。
鈍い音が鳴ると、ゴリ松の息遣いが消えた。
個室のドアに耳を当て、奴の気配を探る。
妙だ。
個室の外が静かすぎた。
《手を……洗え……》
いや、違う。
奴はすぐ傍にいる。
声はドアの向こうから聞こえた。
《手を……洗え……ッ!》
恨めしげに吐き出す怨念の言葉。
オレは恐怖した。
このまま、やり過ごすのが一番良いと頭では分かっている。
だが、人間というのは、恐怖が限界値を迎えると、血迷った行動に出てしまう生き物だ。
「はぁ、はぁ、……おい。いるんだろ?」
返事はない。
「もうこんなことはやめるんだ! お前が誰かは知らない。だけどな。オレは――」
言いかけて、気づいた。
個室のドアが、何か変だ。
力を抜いて、少しだけ離れてみる。
すると、どういうわけか、ドアは独りでに開いていくのだ。
「……嘘だろ。これ……」
鍵が壊れていた。
確かに閉めたはずの鍵は、金具の間にハマっていなかった。
たぶん、錠を差し込む金具との位置がずれているのだ。
だから、枠の中に棒状の鍵が入っていなかった。
開いていく個室のドア。
その向こう側には、奴が立っていた。
――便器ブラシを持って。
「あぐ……あ……あぁ……」
汚い。
汚すぎる。
汚いものが特にダメなオレは、ブラシの先端を向けられ、後ずさった。
《手を洗え……》
「わ、分かった。分かったから、それを向けるんじゃない!」
奴が後ろに下がり、オレは個室の壁に張り付き、洗面所に移動をする。
その途中で、便器の隣でぐったりしているナースさんを見つけた。
ゴリ松はすでに用を足し終えているはずだが、ナースさんの白目が想像以上にショックだったらしく、棒立ち。
「……幽霊が幽霊を襲う事ってあるのか」
洗面所から流れ出てきた水は、とても澄んでいた。
冷たい水を手で捏ねながら、鏡に映った奴を見る。
「答えてくれ。ここはどこだ? お前なら分かるんじゃないのか?」
奴が視線を落とし、ブラシをオレの手元に置く。
「きったねえな!」
隣の蛇口に移り、再び手を洗う。
《……三途の……縁……》
奴がそう言って、手を伸ばしてくる。
「待った! お前も手を洗え! そのブラシ汚いんだって!」
すると、奴はピタリと動きを止め、オレの使っていた場所で手を洗い始めた。
清潔は大事だ。
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