必死の抵抗

 脂ぎった住職は、蝋燭の明かりが反射した頭部を、さらにテカテカと光らせ、木魚を叩き続ける。


 だが、一向にお経が始まらない。

 その理由は、にあった。


《許さない……》


 推定、身長180cm。

 重さ、75キロの長身筋肉系美女。


 奴はオレの上に跨り、バキバキに鍛えられた両腕をこっちに伸ばしている。想像以上に硬い指は、オレの首筋に食い込み、ギリギリと絞めつけている。


「んが、あぁ、……あっ」


 要するに殺されかけていた。

 それでも何とか持ちこたえているのは、オレが女幽霊相手に抵抗を続けているからである。


 死に装束越しに腹を殴り続け、ピクリと怯んだ隙に空気を肺に取り込み、締め付けられる前に両手を取った。


「リョウ。今、どういう状況なんだ? 首を絞められてるのか?」

「み、見りゃ分かんだろ! 馬乗りになってて、くそ、……首をやられてんだよ!」


 奴は重かった。

 重すぎて、身を捩っただけでは、振り落とすことができない。


《……許さな――……抵抗……ッ……するなァ……ッ!》


 オレは仰向けの状態で、力比べをしている。

 当然、相手の方が力は強い。

 あっという間に両手は押さえつけられ、上体が起こせないよう、奴は全体重を掛けてくるのだ。


 しかし、オレだってバカではない。


 オレを押さえつけた後、奴は再び首を絞めようとしたのだろう。

 そうはいかなかった。


《……む》

「ふっ。バカがよぉ。そうはさせねえ」


 指と指を絡ませるようにして手を繋ぎ、力いっぱい握りしめた。

 押し合いでは、奴の方がマウントを取っているのだから、当然奴の方が強い。


 自明の理だ。

 簡単に体重を加える事ができるし、上から押さえつけた方が圧力は加えやすい。


 ところが指を挟み込むとなれば、話は別。


「あえて言わせてもらおう。女が男に勝てるわけねえだろ」


 鼻で嗤うと、奴は《チッ》と生々しい舌打ちを鳴らした。


「住職! 今だ! 早くお経を唱えてくれよ!」

「さもありなん。では、般若心経を……」


 オレのすぐ真横で座禅を組んだ住職は、息を吸い込んだ。


「ん”ん”っ。……すぅぅ。――は――ァぁんッ!」


 住職が奇声を発し、自分の頭で木魚を鳴らした。


「……嘘だろ」


 何が起きたのか、理解するまで時間が掛った。

 いや、それほど複雑な事はではない。


 単純に奴がオレの上から重い腰を上げ、長い脚を伸ばして住職の頭を蹴ったのだ。すると、弾かれたように、ものすごい勢いで住職は横に倒れ、木魚に頭をぶつけたと言った寸法である。


《ふん……ッ!》


 続けて、奴はオレを持ち上げた。

 指は未だに絡まっているというのに、腕の力だけでオレを立ち上がらせたのだ。


「ま、マズい」


 逆に手を握り返され、人差し指と薬指が奴の硬い指で圧迫されていく。

 立った状態で固定された今、奴は両手が塞がっている。

 では、ここから如何なる攻撃がくるのか。


 ミツバからの奴隷時代を経験したオレは、すぐに分かった。


 ――ヒュ……――ズドッ。


 膝蹴りである。


「ん”ん”ん”ん”っ!」


 腹に鉛がぶち込まれたのかと錯覚した。

 重くて、引き締まった膝蹴りは、最早骨肉ではない。

 小さな鉄塊だ。


 痛みに悲鳴を上げ、腹を押さえようとした。

 だが、奴は恋人繋ぎのまま、手を離さない。


「あ、ああ……、ど、どうすりゃいいんだ!」

「げほっ。はぁ、はぁ。こうなったら、仕方ない」


 オレは奴の胸に顔を埋め、間合いをグッと縮まらせる。

 こうすることで、膝で蹴りにくくなるはずだ。


「ゴリ松! お前だ! お前がやるんだ!」

「な、何をだよ!」

「お経をォ……ッ! は、う”っ! 唱えるんだァ!」


 わき腹を膝で蹴られながら、オレは必死に叫んだ。

 ここで思考停止したら、間違いなく死んでしまう。

 それだけはゴメンだ。


「うおおおお!」


 全身に力を入れて、オレは奴を押し倒そうとした。が、ビクともしない。それどころか、奇妙な姿勢になってきた。


 下半身は前に進んでいるのに、上半身だけが後ろに反っていく。


「早くしろ!」

「お経なんて分からねえよ!」

「住職が持ってるそれ! お経の……なんか……本みたいなやつ!」


 住職がペラペラと捲って、お経を唱えようとしたのをオレは見逃さなかった。


 オレが叫ぶと、ゴリ松は急いで住職の膝元からお経が書かれてるであろう、経本きょうほんを手にした。

 木魚を自分の前にセットして、冷や汗を掻きながら、ゴリ松が初めのページを捲る。


「い、いくぞ!」


 ゴリ松が息を吸い込む。

 これで、終わりだ。


 勝利を確信したオレは、奴の顔を睨みつける。

 ふと、オレの視界には寺の天井が映った。


「や、奴はどこだ⁉」


 先ほどまで、オレの前に立っていた巨女は姿を消していた。

 慌てて姿を探すと、すぐに奴を発見する。


「スゥ、――ぶっふ、せつぅ、はァん! にゃ、っは! はぁん! らぁ!」


 ゴリ松は涙を流しながら、般若心経を唱えた。

 すぐ目の前には膝立になった奴がいて、お経を唱える度に腹パンを連続で叩き込んでいる。


 鳴らされるのは木魚にあらず。

 おデブの蓄えた腹の肉に轟く鈍い音だけだ。


「かん、ジッ! ざい、ぼっほ、さつ……んじん! はらみっひ、たぁしん、ギョぉぉ!」


 ゴリ松はすでに死にかけていた。

 当たり前だ。

 オレが胃液を戻す威力のパンチを何発も受けているのだ。


 姿が目視できないゴリ松は、ガードすることさえ儘ならず、計30発の拳を高速で打ち込まれている。


「はぁ、はぁ、……んぐ、おえ、はぁ、……な、なあ。般若心経って、こ、こんなに苦しいものなのか? オレ、なんか、胃の辺りが苦しいんだよ!」


 何もできずに、オレは立ち尽くした。

 ゴリ松は脂汗を浮かばせ、顔面を小刻みに震わせている。


《ハァ……ハァ……》


 さすがに焦ったのか、奴まで汗を流していた。

 鋭い目つきでこっちに振り返ると、拳を握って、ゆっくりと近づいてくる。


 気のせいか。

 奴の血色が良くなっているような気がした。

 青白い肌が上気して、露出している部分に赤みが差している。


 般若心経にどんな効果があるのか、オレは知らない。

 だが、嫌がってるのは間違いなかった。


「ま、待て! 話を聞け!」

《……殺してやる》


 お経を唱えた結果、殺意が明確になった。


「待てって! お前、何が目的なんだ! どうして、オレの腹を殴る!」


 眼前で立ち止まった奴は、ジッと睨んできた。


《……いつまで……》

「え?」

《そうしてるつもり?》


 言葉の意味が分からなかった。

 最後に見えたのは、視界端に迫る奴の爪先。

 鞭のように撓った爪先は、確実にオレの顔面を蹴り飛ばしたのだった。

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