仕事帰りの一発
仕事から帰ったオレは、深呼吸をして怒りを鎮める。
何てことはない。
仕事に対して嫌悪感しかないので、帰ってきた時には、いつもこういった状態に陥るってだけだ。
仕事の記憶を家に持ち帰りたくないオレは、「仕事なんて滅べ。忘れろ」と自分に言い聞かせる。それから、玄関ではなく、裏口の鍵を開けて、明かりの点いていない家の中へ足を踏み入れた。
家の間取りは頭にあるので、壁伝いで行けば、どこに何があるのかは分かる。
靴を脱ぎ、そのまま壁を伝って角を曲がり、居間に移った。
居間と隣接している
「さて。返信はきてるかな、っと」
スマホを確認すると、友人からチャットのメッセージが届いていた。
『今さらミツバの事聞きたいって?』
『あいつ、防衛大行ったもんな』
『待って。母ちゃんに聞いてくるわ』
『北海道にいるっぽいけど』
友人の名は、ゴリ松。
見た目は、動物園から逃げ出した毛むくじゃらのゴリラ男だ。
親公認で呼ばれているため、オレは大人になってもゴリ松を『ゴリ松』と呼んでいる。
ゴリ松は昔から女好きで、女の情報を片っ端から集めている男だ。
けれど、見た目がやらかしているため、モテないために、声を掛ければビンタを貰うといった感じだ。
「北海道か。……近いようで、遠いな」
まさかと思い、ミツバの事を聞いてはみたが、北海道からわざわざオレの所に会いに来る理由がない。
そして、遅れて気づいたオレは、思わず同じことを聞いてしまった。
『え、あいつ防衛大だったの?』
『おう。自衛隊なるって言ってた』
こいつの情報網を甘く見ていた。
というか、親も親で顔が広いから、小、中、高と親同士で交流が多かったのを覚えている。
オレの親も、交流していた一人だった。
「ミツバの奴。自衛隊だったのかよ。マジかよ。ただでさえ強かったのに。さらに上を目指すのか……」
自衛隊と言ったら、一番なりたくない職業ナンバーワンではないか。
いや、誤解のないように言っておくが、自衛隊は本当に大事な職だろう。
ただ、自ら望んでなる人は、滅多にいない。
過去にポストへ広告が
『三等陸尉だって』
続けて、チャットのメッセージが送られてくる。
オレはスマホの画面を下にして、テーブルに置いた。
「みんな、すげぇなぁ」
何だか、虚しくなってしまったのだ。
チャットを送ってきたゴリ松は、プログラマーとして働いている。
個人経営の会社で、話を聞く限りでは忙しい時と暇な時の差がすごいとか。久々に会った時には、満面の笑みでゲームの話をしたか。
ゴリ松は、輝いていた。
ミツバの事を聞けば、彼女は彼女で地位を得て、国のために頑張って働いている。
友人たちが遠い場所にいる謎の感覚が、オレに劣等感を抱かせた。
同時に寂しくなってしまったのだ。
「今日は、もう寝るか」
そう思い、着ていたシャツを脱ぐ。
ズボンは適当に椅子へ掛け、シャワーを浴びてこようとした。
カタ……っ。
ダイニングの出入り口に向かって一歩踏み出した矢先、半開きになった戸の向こうに人影が見えた。
「……待ってくれよ。今は落ち込んでるんだよ。すっごい切ない気持ちなんだよ」
奴だ。
奴が扉の隙間からオレを覗いていた。
しかも、オレは全裸。
だらしない体をさらけ出す格好となっており、なおさら気まずかった。
《……許さない……》
固まっていると、奴は口を開いて声を発した。
やはり、ミツバとそっくりの声なのだ。
「ゆ、許してくれ! 今は許してくれよ!」
手で股間を隠しつつ、オレは後ろに下がる。
奇妙な光景だっただろう。
青白い肌をした幽霊が現れた事は怖い。
だが、それよりも、オレは彼女が袖を捲って近づいてくる様に恐怖した。
物理的な恐怖だ。
呪いなどで、じわじわと殺してくる幽霊とは段違い。
奴は、物理でオレを嬲るつもりだ。
尻に椅子が当たり、よろけたオレは震えながら体勢を直す。
食卓を回り込んで、彼女から目を離さないよう、息を止めた。
《動かないで……》
「勘弁してくれよ! あぁ、すっごい逞しい腕」
女性でありながら、鍛え抜かれた二の腕は割れていた。
前腕には血管が浮き出ていたし、拳を握るとパキパキ骨が鳴り出す。
間違いない。
「な、なあ。お前、誰なんだ? 知り合いに似てるけど。気のせいだよな?」
奴は黙った。
食卓に手を突き、大きく見開いた目でオレを睨んでくる。
言っておくが、オレは女に恨まれるような事をした覚えがない。
ギ……ギギ……ギギギ……っ。
見つめ合う時間は長く続かなかった。
彼女はテーブルを前に押してきたのである。
オレの後ろは、窓だ。
ふかし枠(内窓の奥行きのこと)の上には、洗濯物が雑に置かれている。
つまり、挟まれると逃げ場がなく、必然的に仰け反る姿勢となった。
「ぐあ、が、あああ……っ」
だらしないお腹が、食卓とふかし枠の角によって、見る見るうちに挟まれていく。
彼女はゆっくりと食卓に上がり、膝立で距離を詰めてきた。
必死にテーブルを押し返そうとするが、ビクともしない。
そして、確実に間合いを詰めてきた彼女は、オレの肩に手を置いた。
ひんやりとした感触。
指先は爪が食い込むほどに力がこもっており、空いた手は硬く握りしめている。
「はぁ、はぁ、……み、ミツバ? ミツバなのかい?」
苦し紛れに名前を言った。
ミツバが生きていたら、怒られるだろうけど。
とにかく何かを話さないとやられると思ったのだ。
《……チッ……》
「え、し、舌打ち?」
次の瞬間、オレの腹部は鈍い音を立ててへこんだ。
「んふ、ぶふっ!」
変な息の吐き方をしてしまった。
腹を殴られた衝撃で、軽いパニック状態に陥ったオレは、彼女の肩を押して一旦退かせる。
隙間に倒れ込むと、あまりの激痛に言葉を失った。
「こいつ、……マジか」
少しだけ瞼を持ち上げると、奴はオレのすぐ目の前にいた。
床に寝そべって、カッと見開いた目でオレを見つめている。
一つだけ言えるのは、相変わらず女幽霊は美しかった。
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