第13話 「ごめんね」
目を覚ました深雪は、まず布団を畳んで居間の隅に寄せる。
脱衣所に行って寝間着から制服に着替え、鏡の前で洗顔、歯磨き、髪の手入れを順に済ませ、居間に戻って机を用意する。
朝ご飯を二人分用意して書斎に行くと、輔はいなかった。
焼いた鮭と、ほうれん草の炒め物にラップをして冷蔵庫に入れた。
通学鞄からメモ帳とボールペンを取り出して、調理台の上で『朝ご飯入れてるので、よければ食べてください』と記入し、冷蔵庫の表面にあった水道管修理の広告マグネットで貼り付けると、落ち込んだ気分で家を出た。
放課後のことを考えると、どうにも調子が乗らなかった。
「……深雪。最近おかしいよ?」と沙耶に心配されながら、上の空で金曜の時間割を消化し、学校の帰り。
待ち合わせ場所というには何の目印もない、いつもの道で辻が来るのを待った。
「──深雪ちゃん?」
名前を呼ばれてはっと我に返り、深雪は顔を上げた。
茹だるような暑さに晒されていたことと、急に頭を上げたことで、立ちくらみに似たふらつきを覚える。
ぼーっとしてしまっていたらしい。
ふるふると首を振り、目を二、三度瞬かせる。
目の前には辻が立っていた。
ルーズな淡い色のシャツにジーンズ姿。相変わらずおしゃれな格好をしている。
ただ、オーバーサイズだからか前に会った時ほど暑そうではなかった。
「ごめん、待たせちゃったかな。大丈夫?」
愁眉を開いた辻が顔を覗き込んでくる。
その心配そうな面持ちを見て、決心が鈍りそうになる。
辻に非はない。輔が信用するなと言ったから、それに従う。
それでいいのだろうかと自問して、僅かに逡巡する。
辻なら、事情を説明すれば分かってもらえるのではないだろうか。
そこまで考え、辻と会っていた時の輔の顔を思い出し、深雪は首を振る。
──例え、辻に非があろうとなかろうと、今の生活を続けるうえで、輔と深雪の関係を知る者は多くない方がいいのだろう。
輔の発言もそれを考慮したものだったのかもしれない。二日間、輔が言った言葉の意味を考えていたが、それ以外に理由も思いつかなかった。
「……いえ、そんなに待ってないです」
深雪が応えると、辻は「そっか」と告げて、
「それじゃ、行こっか。ここからだと結構近いんだ」
喫茶店のある道とは逆方向に伸びる、細い道を指さした。
切り出すならここだと思った。
「あの……っ」
一歩踏み出し、勢いに任せて口を動かす。
「うん?」
「こうして会うの、今日で終わりにします。……理由は、ごめんなさい」
昨晩、何度も口の中で練習した言葉を早口に言い切る。
言った。──言ってしまった。
「そうしろって、おじさんに言われたの?」
辻が怪訝そうに顔をしかめる。
怒られるのではないかと反射的に身構える。
「……ごめんなさい」
だが、辻の反応は深雪の予想だにしていないものだった。
「──そっか。じゃあ、仕方がないね」
呆気なく辻は首を縦に振り、深雪は瞠目して耳を疑った。
しかし辻はそんな深雪の反応を全く意に介していない様子で、いつも通りの柔和な笑みを浮かべた。
「今日、会うことはおじさんには言ったの?」
「……は、はい」
表情を曇らせた深雪とは対照的に、にこやかに辻は頷く。
「なら、心配しなくても、次からは言わなきゃ大丈夫だよ」
辻は囁くような声でそんなことを言うと、「行こっか?」と再び告げた。
何もしていないのに、なぜだか罪悪感が胸中を渦巻いた。
そこからの道はどう歩いたのか、よく分からなかった。
少なからず動揺もあった。ただ、それ以上に、同じような住宅が並ぶ住宅街を通り、何度も道を曲がったため、土地勘が働かなくなってしまったのだ。
道中、辻はたびたび「もう少しだから」とこちらを振り返ってきた。
徐々に増していく不安感と反して足は動き、人の気配があまりしない細い道を、既に決して近いとは言えないであろう距離を、辻の後を着いて歩いていく。
前を歩く辻の後頭部を眺めて、考える。
今朝もそうだったが、深雪が辻と会い始めた頃からだろうか、輔は書斎におらず外出していることが多くなっていた。
用事ができたと考えることもできるが、希望的観測だった。
本心では、きっと避けられているのだろう、と思う。家の中でも顔を合わせる機会が減ったのは紛れもない事実だ。……となると考えるべきなのは、なぜ避けられているのだろうというところだ。
単純に深雪のことが厭わしくなったから?
それなら、輔としては深雪を追い出せばいいだけの話だ。はっきり話しかけるなと拒絶されたわけでもないし、輔の性格ならきっとそうするだろう。
そもそもそれだと、辻と会っていることは関係なさそうに思える。
だからといって──焼きもち、それもありえそうにない。
輔は深雪に対して特別な感情を抱いてはいないと明言していた。
なら、どうして。
──そんな風に考え事に耽っていると。
「ここだよ。俺の家」
辻がぴたりと足を止めたのは、比較的新しい白い外壁の目立つ一軒家だった。
集合住宅の並ぶ中に建つそれは、明らかに景観に似合っていない。
家自体は綺麗なのだが、それもどこか浮いている印象を受ける。
住みたいかと問われれば、深雪は首を横に振るだろう。
「──でさ、裏手にはまあまあ広い庭もあるんだ。駐車場がないのだけが難点なんだけど、結構いいでしょ?」
家の説明をされたが、深雪の耳にはあまり入っていなかった。
「……深雪ちゃん?」
微笑みを湛えながら、辻が首を傾げる。
「あ……えっと、なんでもありません」
嘘だった。
──どうしてこんなにも、胸騒ぎがするのだろう。
「そっか。猫たち、起きてるといいんだけどな。新しい作品も見せたいし」
辻が鍵を開け、深雪はその後を暗い玄関に吸い込まれるように中に入る。
「──おじゃまします」
足を踏み入れ、バタンとドアが閉められた。次の瞬間だった。
背後でじゃらりと、ドアチェーンがかけられる音が聞こえたのは。
金属の擦れる音にぞくりと背筋が凍り、総毛立つ。
「…………」
ひゅう、と喉奥から息が漏れた。心臓がばくばくと早鐘を鳴らす。
──あいつを信用するな。
ゆっくりに感じる時間の中、一瞬にして輔のその言葉が正しかったことを知る。追随して、そう感じた時にはもう遅いことも自覚した。
「ん、どうしたの? ……奥行くよ?」
言いながら、脇をすり抜けていく辻に腕を引っ張られ、深雪は靴を履いたままつんのめって引きずられるように部屋の奥へと連れていかれる。
後悔が、真っ白になった脳裏を侵食していく。
「痛っ、やめて、くださ……ぃっ!」
必死に足を踏ん張り、腕をばたつかせたが無駄だった。
辻によって乱雑にドアが蹴り開けられ、その奥へと深雪は放り出された。
そうして、愕然とする。
連行された部屋は、孤独感すら覚えるほどに索漠としていた。
白いフローリングに、無地の真っ白な壁紙。藍色のカーテン。
小さなタンス、写真立て、布団、置き型時計、コンセントに刺さる充電器のコード。ミニマリズムというのだろうか。シーグラスアートのような作品はおろか、他の余計なものは一切置かれていない。
見るからに、猫を三匹も飼っている人の家ではなかった。
「なん、で……」
信じられない光景に、深雪はよろめきながら後ろを振り返って辻の顔を窺う。
辻は後ろ手にドアを閉め、淡々と告げた。
「ごめんね。今まで言い忘れてたんだけど……猫、もう飼ってないんだ。前はちゃんと三匹飼ってたから、まるっきり嘘ってわけじゃないんだけどね」
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