第12話 信用
金曜日。先日辻と交わした約束通り、学校帰りに喫茶店に寄った。
角の席に座り、深雪はきょろきょろと店内を見渡す。
外から見た感じでは普通の少しお洒落な家といった風の外観だったが、中はクラシックな雰囲気の喫茶店だった。懸吊された暖色系のランプ。窓が大きく、外の景観が見渡せる。
店内には落ち着いた曲調のクラシックがかかっていた。
雰囲気に呑まれて深雪がはあと息を吐くと、辻は微笑ましそうに口元を緩めた。
肩に鞄をかけた辻は、薄手のジャケットに白シャツを合わせたシックな服装だった。
重ね着をして暑くないのだろうかと思ったが、そこまで汗をかいていないためそうでもないのかもしれない。或いは、おしゃれとはそういうものなのだろう。
輔は服装にあまり頓着がないため、おしゃれな格好をすることはないだろうが、きっと似合うだろう。そんなことを考えながら辻の服装を眺めていると、「どこか変かな?」と聞かれ、深雪は慌てて否定した。
と、そこに店員が注文を取りに来て初めて、深雪は、喫茶店では何か頼まないといけないのだということに気が付いた。
「ごめんなさい、私、お金……っ」
焦って財布を取り出すが、中身はほとんど空っぽだ。
「大丈夫、むしろ払わせてよ。ここのミルクティー、結構美味しいんだ」
せめてメニューの値段を見ようとする深雪の手を遮って、辻が提案してくる。
店に入ってしまった以上、今からやっぱりやめておきますとも言えず、深雪は縮こまって小さく頷いた。
注文が届き、辻を経由して「どうぞ」と差し出されたティーカップを受け取る。
辻の言った通りミルクティーは甘くて美味しかった。ほっと息を吐き、「美味しいです」と深雪が呟くと、辻は安心したように口角を上げた。
「──そういえば、前に会った時って、路地なんて覗いて何してたの?」
「へえ、猫好きなんだ。じゃあやっぱり犬より猫派?」
「ああ……うん。何度も言うけど、最初に見かけた時は本当に心配だったんだよ。おじさんと君、親子にしては歳が近いし、兄妹にしては離れすぎてるから」
しばらくはそうして辻の話を聞いて、それから本題へと移った。
机の上にシーグラスの入った箱が置かれ、その中からいい形のものを選ぶ。用意された手のひら大の額の中に、白いシーグラスを並べて接着剤で止める。
手順はたったそれだけだった。
もっと凝ったものもできるらしいが、慣れないうちは簡単なものがいい。
それに、小学校の授業以外であまり工作をしたことがない深雪にとっては、これくらいのことでもなかなか難しかった。
「そうそう──うん、かわいいね。猫だよね?」
「はい。……目のとこ、難しいですね。ビーズがずれて……」
小さなビーズの接着に苦戦して、むむ……とうなる。
シーグラスの表面とビーズとが接着剤ですべり、うまく配置できないのだ。
その様子を見た辻がビーズを指先でつつき、微調整を入れてくれる。
「ううん。上手だよ。手先器用だね?」
「そうでしょうか……?」
「うんうん。身体の部分は、この三角のやつとかいいんじゃない?」
辻が指先で差し出してくれたシーグラスを手に取り、既に作られた猫の顔の下に当てる。パズルのピースがはまるみたいに、ぴったり合っているように思えた。
「ちょうどよさそうです。ありがとうございます」
そんな風にして制作に熱中して。
ようやく納得がいくものが完成したときには五時を回っていた。
辻がシーグラスをプラスチックケースに戻し、机の上を片付ける。
額の内側に並んでいる二匹の猫を見て、深雪は満足して頷いた。
辻が見せてくれた作品たちに比べればまだまだだが、うまくできたと思う。
「できました」
「いいね。こっちは三毛猫?」
「はい。薄茶色と焦げ茶色のシーグラスがあったので、作ってみました」
「かわいいね」
顏をまっすぐ見て笑顔で告げられ、深雪はつい目を逸らしてしまう。
作品に対して言われたのはわかっているけれど、やっぱり少し恥ずかしい。
照れ隠しに俯いて、シーグラスの猫を撫でる。
「……ありがとうございます。大切にします」
「うん。初めての作品だからね」
ふと、深雪は頭を上げて店の時計を見やる。
「辻さん。時間、大丈夫ですか?」
「時間? ……ああ、もう五時過ぎか。ちょっと待っててね」
「……? はい」
席を立って歩いて行く背中を追うと、辻はカウンターの前で店員と話し、鞄から長財布を取り出した。机上に視線を戻すと、いつの間にか伝票立てには何も差さっていなかった。
どうやら先に会計を済ませに行ったらしい。
深雪に気を遣わせないためだろう。
「あ……雨」
窓の外側に付着した細かい雨粒に気付き、深雪はぽつりと呟く。
天気予報では一日中晴れで、降水確率のグラフは地を這っていたはずだ。
深雪は鞄の中を確認して、どうしようと視線を彷徨わせる。
と、そこに辻が戻ってきた。
「もしかして、傘持ってきてない?」
「はい」
「そっか。今朝の天気予報、昼には変わってたんだ。最近当たらないよね」
「……でも、そろそろ帰らないとなので。どうにか走って帰ります」
「良かったら傘貸すよ。俺、折り畳み二本持ってきてるからさ」
「でも……」
「ほんとはおじさんにも謝りたかったし、家まで送っていきたいんだけど、これから仕事があるから。傘は次に会った時にでも返してくれればいいからさ」
店の壁掛け時計と腕時計を交互に見て、辻が藍色の折り畳み傘を渡してくる。
「あ、あの……っ」
「鞄にでも入れといて。また散歩であの道通るからさ」
深雪が傘を返そうとした手を軽く押し返して、辻は踵を返す。
「お会計は済ませてあるから。それじゃ、またね」
カラン、とドアベルが鳴って辻が喫茶店を出て行く。
椅子に座ったまま取り残された深雪は、呆然として折り畳み傘の柄を握った。
──帰宅して、それからしばらく。輔とあまり話さない日が続いた。
といっても、判断材料が乏しくて、なぜそうなったのかはあまり分からない。
書斎からほとんど出てこなかったり、かと思えばご飯の時間に外に出て行ったり、なんとなく距離を取られている気がした。
しばらくは口をきいた記憶も曖昧になるくらいだった。
そのことをどこか寂しく思いながら、暗澹とした気分で週を過ごした。
深雪の気分とは反対に日々は何事もなく、安閑として過ぎて行った。
◆
次の週の水曜日、前回と同じ喫茶店。
学校の帰りに辻に会い、折り畳み傘を返した際に、深雪の元気がないことに気付いた辻が「時間あるなら、話聞こうか?」と連れてきてくれたのだ。
前と同じミルクティーを頼み、前と同じ席に着く。
店内に流れるジャズピアノ風の音楽が、気分と口をいくらか軽くした。
深雪がたどたどしく事情を話すと、辻は相づちを打ちながら、摯実に話を聞いてくれた。
「なるほど──。それで悩んでたんだ?」
「はい」
「大抵の悩みごとって、悩むほどじゃないってよく言うけど……。一緒に暮らしてるわけだし、そうもいかないんだよね?」
「……どうしたらいいのか、分からなくて」
ティーカップから口を離した深雪は微かに俯き、拳をぎゅっと握り締める。
神妙な顔を作って、辻は眼鏡を指で押し上げ、天井を見上げる。
「んー……俺と会ってることは話してないんだよね?」
「……はい」
「なら、それが理由ってわけじゃないよね。きっと」
「話した方が、いいでしょうか?」
「……いや、これからも話さない方が良いと思う。多分、あんまりよく思われないだろうからさ。それで今よりも状況が良くなるとは到底思えないし……」
きっと辻の言う通りだろう。
紅茶を口に含み、一拍措いて辻は続ける。
「いやでも、もしかしたら、隠し事をされてることが嫌なのかも──。……変なこと聞いて悪いんだけど、これまで家に縛り付けられるようなこととか、おじさんに言われたりしたことない?」
真剣な表情で聞かれ、言葉の意味を考えて深雪は眉をひそめる。
「……そんなことは、ないです。……あと、こんなこと聞いておいてごめんなさい。……輔さんのことは、あんまり悪く言わないでください」
思わず口調が強まってしまい、言葉の途中で加減したことで、むしろ最後の方がぼそぼそと小さな声になってしまう。
「悪く言うつもりは……いや、うん。考え過ぎだった」
辻は首を横に振り、力なく続ける。
「……ごめん。あんまり力になれそうにないかな」
「いえ……! 話すだけでもちょっと楽になりました」
「──なら、よかった。……あのさ」
若干の間の後、辻は腹を括ったように息を吸い、そう切り出した。
「……はい?」
「前に猫好きって言ってたでしょ? 良かったらうちに見に来ない? こんなちっちゃいのがねー、三匹。これ、うちの猫の写真なんだけど」
辻の見せてきたスマホの画面を見ると、三匹の子猫の写真が表示されていた。
グレーに、トラ柄、サビ柄。もふもふの三匹が柔らかそうなクッションの上で仲良く並んで、幸せそうに眠っている。
「……かわいい」
深雪は写真に釘付けになり、目を輝かせ恍惚と息を漏らす。
そんな深雪を見てか辻はくすっと吹き出すと、
「悩みの直接的な解消には繋がらないけど、ちょっとは気分も紛れるかもしれないし。……どうかな? トラはあんまり人慣れしてないけど、サビは甘えてくれるよ?」
辻の甘言につられてひっそりと想像する。
もともと猫はかわいい。甘え上手な猫はもっとかわいいだろう。
「……でも、あの」
「うん?」
一抹の不安が、葛藤を生む。
辻の家に行くことを輔が知れば、どう思うだろうか。
嫉妬とまではいかなくとも、嫌だと思ってくれるだろうか。
そう考えて、深雪は自分自身を諭す。
──違う。これは、不安じゃない。どちらかと言えば、期待だ。
……行くなと止めてくれるだろうか。
或いは、何かを思ってくれるのだろうか。
そうした軽忽な一存と淡い打算とが、深雪の背中を押した。
「──いえ。……じゃあ、お邪魔します。また明後日でもいいですか?」
「むしろありがたいかな。……君が来るなら、部屋を片付けないとね」
思い出したように辻が苦笑する。服装や髪の清潔感から、なんとなく部屋が片付いていないなんて印象はなかったが、そうでもないらしい。
辻は袖を捲って腕時計を一瞥すると、席を立って伝票を摘まみ上げた。
「そろそろ時間もあれだし、お会計済ませてくるよ」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げながら立ち上がると、深雪は辻の後を追った。
別れの挨拶を告げ、一緒になって喫茶店を出る。
冷房の途切れ目が分かるみたいに、外に出た途端、冷えていた体が温くなった。
──そこで、深雪ははっとなって全身を強張らせた。
注視するのは一点。電信柱に背中をついてスマホを弄っている、輔の姿だった。
珍しく肩に鞄がかかっており、額には汗をかいていた。
輔はこちらに気付くと、スマホを上着のポケットに戻して歩いて来る。
「──前に言ってた友達じゃないのって、そいつのこと?」
「輔さ……」
名前を呼んで一歩近寄るが、輔はそんな深雪のことを無視して辻の前に詰め寄った。静かな怒気を孕んだ視線で、何かを見定めるように辻の挙動を見守っている。
辻はというと、そんなただならない雰囲気の輔に押されているのか、一言も発さない。
しかし流石と言うべきか、重い沈黙を破ったのは辻だった。
「紀川さんでしたっけ。こないだはすみません。……それはそれとして、あんまり睨まれると恐いですよ。もう疑ったりしてないので、許してくれませんか?」
不敵な態度で辻が告げる。
語調が強く、謝っているというよりは牽制しているように思えた。
なぜそんな風に接するのだろうと思いつつ、深雪としては輔の機嫌を損ねないかと気が気でなかったが、輔は意外にも食って掛かることはなかった。
輔が浅い溜め息を一つ零して深雪の方に視線を移す。
「……ま、ならなんでもいいけど」
輔に、いきなりぐいっと腕を引かれ、深雪はたたらを踏む。
「痛……っ」
言葉とは裏腹に、その手にはやや強い力が込められており、掴まれた二の腕が少し痛んだ。
「なにやって──……!」
それを見た辻が、いきり立って声を上げた。
輔の眼前に迫ると、鬱陶しげに細められたその目を睨め付ける。
「なに」
「なにって、あんたがなにやって……っ!」
更に一歩詰め寄って輔に手を伸ばしかけ、そこで辻は怯んだように肩を揺らした。
おそるおそる輔の顔を見て、深雪も辻と同じようにぞくりと身体を震わせる。
緊張が場を支配する。
輔の表情はほとんど変わっていない。普段と同じ、無表情だ。
だが、その眼だけが、底冷えするような冷然としたものに変わっていた。
「……あなたと彼女の関係は親戚ってことしか知りませんが、だからって、そんな乱暴に扱うなんて──……」
数秒の間をおいて、我に返ったらしい辻が告げる。
「……で? お前には何の関係がある?」
「……俺のことは今関係ないでしょう」
「じゃあ関わるな」
辻の反論の揚げ足を取り、ぴしゃりと輔が撥ねつける。
「っ──彼女は、あなたの所有物じゃないんですよ⁉」
辻は眉間にしわを寄せ、怒り心頭に発する。
輔は面倒そうな仕草で頭を掻くと、何も言い返すことなく辻に背を向けた。
「行くぞ」
その言葉が自分に向けられたものだと深雪が認識するよりも早く、輔は深雪の腕を引いて歩き出す。急に引っ張られたことで、また何もないところで躓きそうになりながら、深雪はさっさと歩く輔に連れられていく。
「あ……」
首だけを振り返らせて、ぺこりと辻にお辞儀をする。辻は今にも追いかけてきそうな険しい顔をしていたが、深雪の顔を見てか踏み止まった。
◆
赤い夕日が二つの影を浮かび上がらせる。
暗くなりつつある街で、蝉はまだ鳴きやんでいなかった。
いつ、どうやって声をかけるべきか分からず、田舎の喧騒の中を無言で歩き続ける。
輔が機嫌を損ねているのがひしひしと伝わる。
──普段、一緒に歩く時の歩幅は深雪に合わせてくれていたのが分かる。
それくらい、今、前を歩いている輔は歩幅が広かった。
辻と別れた時点で、既に腕は離してくれていた。
それでも、輔に掴まれていた部分は微かな痛みと、確かな熱を持っている。
どうして輔はあれほど辻を嫌っているのだろうか。初対面の印象が悪かったのはあるとは思う。けれど、それだけであれだけ冷たい眼ができるものだろうか。
輔の眼を思い返して、また背筋にひやりとしたものを感じる。
もしくは単に相性の問題なのかもしれなかった。
考えてみれば、辻も今回、輔に対してはやや喧嘩腰だったように思う。
「っ……⁉」
そんな風に深雪が考え事に耽っていると、急に輔が立ち止まった。
その背中に顔から突っ込んでしまい、ふらふらと後退る。
「ご、ごめんなさい……」
「…………」
輔は無言のまま、半身をこちらを振り向いた。それから手を伸ばして深雪の頬に触れようとして、ほとんど触れずに手を引っ込める。
くすぐったさに深雪は頬を掻きながら、閉口している輔をじっと見つめる。
夕焼けの逆光で影のできた顔は、いつも以上に何を考えているのか分からない。
「……?」
ふいに、輔の唇が動く。
「これまで何回会って、何吹き込まれたのか知らないけど。あいつは信用するな」
輔の要求は一つだった。
それなのに、言われたことを咀嚼し理解するまでに、数秒を要した。
「聞こえなかった?」
考えている最中、深雪が何も言わずにいたからか、輔が聞いてくる。
もう一度、頭の中でさっきの輔の発言を反芻する。
辻を信用するな、と。そう言われたのだ。
遅れて理解が追い付いても、今度はその理由が分からない。
「……ど、どうして……ですか」
「────」
「確かに……勘違いはしてましたけど、辻さんはそんなに悪い人じゃ……」
「友達じゃないのに? なら、彼氏かなんか?」
かっ……、と言葉を喉に詰まらせて、深雪は小声で抗弁する。
「あの時はまだ違ったんですけど……今はお友達、で」
「──友達、ね」
輔はそう告げるや否や、上着のポケットから煙草を取り出しライターで火をつけた。最近は深雪の前ではめっきり吸わなくなっていたのだが。
それから見限ったように深雪から視線を外すと、すたすたと歩き出す。
──と。急に吹いた温い風に煙が靡いてきて、思い切り吸ってしまう。思わず深雪が咳き込むと、輔は空き家のブロック塀に煙草の先を擦り付けて火を消した。
まだ煙の立ち昇る煙草を携帯灰皿に入れ、輔は何も言わずに歩いて行く。
「あ、あの……っ」
深雪は思わずその背中を呼び止める。
「なに」
「もう一回だけ、辻さんと会ってもいいですか? ……それで終わりにするので」
ちらりとこちらを見た輔の目をまっすぐ捉え、深雪は言明する。
「なに、約束してんの?」
「はい。金曜日に、猫を見せてもらう約束を、してて……」
冷ややかな視線に射竦められ、語尾が萎んでいく。
……けれど、遠慮をするなと言ったのは輔の方だ。
輔に見限られるか辻との関係を切るか。それ自体は天秤にかけるまでもないが、それとこれとは話が別だ。辻との関係に区切りをつけるにしても、深雪としては一言伝えてから終わりにしたかった。
しばらく互いに目を合わせて。視線を逸らしたのは輔だった。
「勝手にすれば」
素っ気なく言い捨て、輔は上着のポケットに手を突っ込み、再度歩き出す。
物寂しさを感じさせる背中は、どこか別人のもののように見えた。
長く伸びる影を踏むように、その後ろを辿って深雪は家までの道を歩いた。
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