第14話 同じ穴の狢(むじな)




 視界が狭窄していくのを感じて、深雪は目を擦る。

 電気が点いていないため、光源は大きな窓から差し込む沈みかけの夕日だけだ。暗い部屋の中で目の前が暗くなっていき、震える唇をどうにか動かす。


「辻、さ……、なん、で……?」

 

 深雪は弱々しく掠れた声で訴えかける。

 何が起きているのか分からない。恐怖と混乱で言葉が出てこない。


「これは俺の勘なんだけどさ。──あのおじさん、親戚でもなんでもないよね? なら、なんで一緒に住んでるのかな?」


 顔全体に穏やかな笑みが浮かぶ。ただ、目だけは笑っていない。暗い場所にいる猫のように、泥濘の沈む水底を映したように、濁った色の瞳孔が開く。


「……!」


 輔との関係を見抜かれたことに、深雪は心臓が止まった心地で後退る。

 辻は思わぬ収穫を得たような、嬉しさを禁じ得ないといった表情を作った。


「ああ、もしかして図星だった? 言ってみるものだね」


「い、や……っ」 


 人の良い笑みを崩さないまま辻が詰め寄ってくる。

 慄然とし、悪寒が背中を走り抜けた。──逃げないと、と脳が警鐘を鳴らす。


 それなのに、深雪の身体は言うことを聞かなかった。


 突然、脛の辺りに痛みと衝撃があって、深雪はその場に横倒しになる。

 通学鞄が肩から落ち、フローリングの上を滑っていく。


「……っ」


 辻が蹴りで足を払ってきたのだと分かった時にはもう、深雪の両手首は床に押さえつけられていた。


 あまりに強い力で拘束され、腕が鬱血して赤くなる。

 痛い。なによりも、怖い。刃物を突き付けられているような感覚があった。


 目の辺りまで鼓動が響いて視界がぶれる。

 体の上に覆い被さってくる辻との距離感が曖昧になる。


 血相が変わる。

 ──叫びたいのに、恐怖で息が吸えない。

 助けてと叫んだはずが、喉奥から発されるのは掠れた声だけだった。


 辻は深雪を組み敷いたまま、鬱陶しそうに頭を振って前髪を払った。

 天敵の前に放り出された小動物のように、怯え切った目で深雪は辻を見る。


「おじさんの言うこと、聞いとけばよかったのにね」


「……ぁ」


 消え入りそうな声を漏らした深雪に、辻は面白そうに目を細めた。


「ああ、叫びたかったら叫んでもいいんだよ? ……こういう時のために防音壁だから、大分頑張らないと外には聞こえないけどね。試してみる?」


 さも自信ありげな口調に、それが嘘でないことが分かる。

 もう助けは呼べないという絶望に、深雪はさらに悲観的な表情を浮かべた。


「本当は俺も心配だったんだ。君に信用される前に、おじさんに引き離されるんじゃないかとひやひやしてたんだよ? ……二か月、もっと前からだったかな」


 壊れた玩具のように、辻が饒舌に話し始める。


「──もう? ああ、こんなこと、君の口から言わせることじゃなかったよね。……辛かったよね。大丈夫だよ、俺はそれでも気にしないし。今日から俺が代わりになるから。安心してよ。俺は君が心を開いてくれるまでは、じっくり待つつもりだからね」


 喋りながら辻の腕が伸ばされる。コンセントから充電器が引き抜かれ、白いコードが深雪の手首に強引に縛り付けられる。

 あまりに自然で平穏な所作で、だがその手には、辻の細腕からは想像もつかないような凄まじい力が込められていた。必死の抵抗も空しく固結びされてしまい、深雪の両手は不自由に、代わりに辻の両手が空いた。


 その様子をまるで他人事のように満足そうに眺めてから、辻は自由になった手を深雪の身体に這わせてきた。


「…………っ!」


 頬を伝って首筋をなぞり、胸元を愛おしそうに撫で、柔い膨らみの感触を確かめるように指を立ててくる。激しい嫌悪感に嘔吐きながら、なおも深雪が暴れようとすると、辻は心底心外そうな顔をした。


 胸の辺りを撫でていた指が引き上げられ、辻は額を掻く。


「そう拒絶されると傷付くなあ。……これでも、君のために色々したんだよ? シーグラス好きって分かった時も、色々調べて。写真もネットで画像検索の下の方から探してきてさ。……ま、君がスマホ持ってないって分かってたら、そんなに頑張らなくても適当な画像拾ってくれば良かったんだけど」


 迫ってくる辻から顔を背けようとすると、辻はそれを追って顔を近付けてくる。


「や……っ!」

 温い息が頬にかかり、ひたすらに不快さを覚える。


「なんで、ってさっき聞いてくれたよね?」


「…………」


「俺さ。深雪ちゃんのこと、ちゃんと好きなんだよ。

 最初は、一目惚れってやつだったのかな。

 だけど、これまでのことも今日のこともひっくるめて全部、君のために、やってることなんだよ。……親戚でもないおじさんの家に住んでたなら、この家に住む方がよっぽどいいでしょ? 大丈夫。あいつよりも俺の方が君をよく分かってる。深雪ちゃんも……分かってくれるよね?」


 説明し始めた辻の息は興奮して荒く、言葉の途中途中で息継ぎが入る。

 向けられる歪んだ好意に深雪は首を横に振る。


「っ…………」


「分からない? 俺とあいつは同じ穴の狢なんだよね。君に近付きたくて甘い言葉をかけた、悪い大人なんだよ。……でも、大丈夫。もう大丈夫だからね」


 差し含む深雪を安心させるように、頻りに大丈夫と繰り返す辻。


 支離滅裂な発言の中に聞き捨てならない言葉が聞こえ、深雪は息を呑む。

 刺激しない方がいいことはわかっている。怖ろしい。気持ちが悪い。

 けれど、なにより。


 深雪は目に涙を溜めたまま毅然と辻を睨むと、息を吸う。


「あ……あなたと」


「うん?」


「あなたと、輔さんを……同じに、しないでください……っ!」


 語勢を強めた深雪に、辻は思いがけないといった表情を作った。

 しかし一瞬後には、その表情も元の笑みに戻っていた。


 辻は眼鏡を一旦外して、自分の息で曇ったレンズを服の裾で拭き、かけ直した。


「そっか。認識の相違ってやつだね。でもだいじょ──」


 大丈夫、と辻が言おうとした、次の瞬間。


 ──ガシャン、とガラスが叩き割られたような派手な音が室内に響いた。




 そして、その認識は間違いじゃなかった。


 思わず目を見開き、音のした方に視線を向ける。

 直後、カーテンが引っ張り開けられて、すぐにシャッターの連射音が鳴る。チカチカと連続して光るフラッシュに辻が目を細め、腕で顔を覆い隠そうとする。


「ぐ……」


 そこからは一瞬だった。

 大窓の鍵を開けて土足のまま輔が入ってきたかと思うと、怯んでいる辻の胸倉を力任せに掴み上げて立たせ、顔面を勢いよく殴り飛ばした。


 眼鏡が吹き飛び、床に叩きつけられた辻は苦悶の声を漏らす。

 輔は追い打ちをかけるように背中の辺りを蹴り飛ばし、辻にこちらを向かせる。


「げほっ……、っ!」


 大きく咳き込む辻を輔は見下し、辻の顏の側にダン、と足を踏み下ろした。

 それから手にしたスマホを辻の眼前に持っていき、画面を見せつける。


「なん……っ」

 辻は輔を睨み付けようとして、一瞬怯む。


「次、こいつに関わってみろ。この写真警察に届けるから」


 呆気に取られて、深雪は困惑の表情を浮かべながらその後ろ姿を凝視する。


 ──なにが、起こっているのだろうか。


 わけがわからない。輔がこの家を知っているはずがない。

 助けに来てくれるなんて、そんなはずはないのに。

 どうして、なんで、ここに。


 理解がおよび安心するとともに、どうしようもなく目頭が熱くなっていく。

 夢か何かでも見ているような気分だった。


 後ろを向いているせいで、深雪のいる位置から輔の顔は窺えない。

 だが、その高く張った肩からは確かな憤りが感じられた。


「お前、なんで、ここが……っ」


 あり得ないとでも言いたげに、辻が半眼で輔を睨み付ける。


「教える理由も必要もないな」


「っ……警察に駆け込まれたら、困るのはどっちかな?」


 まだ勝ち誇ったような表情を崩さない辻に、輔はちらりとタンスの上の写真立てを瞥見すると、深雪がこれまで聞いたことのないような酷薄な声を発する。


「お前一人に決まってんだろうが」


 確信を持った声に、辻は即座に噛みつく。


「……っ、なわけが」


「前にも言ったが──俺とこいつは親戚で、お前にとやかく言われる謂れはない」


 輔は平然と言ってのける。


「……嘘、だっ!」


 一瞬考えるような間をおいて、辻は声を荒らげ輔の言葉を否定する。


「ついでに言っとくが。俺がこの写真を警察に持ち込んだら、まず間違いなく離婚になるだろうな。……単身赴任か何か知らないが。警察に行くなと脅したいなら、女が映った写真立てくらいタンスの奥にでもしまっとけ、前科持ち」


「前科……だって? 何を言って──」


 輔の言葉を繰り返した辻の声が上擦り、動揺が顔を覗かせる。


つじ巧真たくま。──旧姓は朝桐あさぎり、だったか?」


 輔が、重々しい声で深雪の知らない名を告げた。そこでようやく、辻は自身の持つ絶対的な優位性が崩れたことを知ったのだろう。

 辻の表情が歪み、狂気じみた笑みを作って、それきり俯いた。

「はは、は……」と、壊れたように笑い続ける辻を無視して、輔は振り返った。


 それから深雪の側まで歩いてくると、深雪の手首とそれを縛り付けるコードの間に指を入れ、拘束を解いてくれた。

 半ば放心したままの深雪の手を掴んで、優しく立ち上がらせる。


 それから部屋の隅に転がっていた深雪の鞄を拾い上げると、


「……帰るぞ」

 輔は辻には一瞥もくれることなく、深雪の手を引いて玄関へと向かった。



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