第10話 辻




 輔の家に住むようになってから、ちょうど二か月が過ぎた。


 外はすっかり夏の暑さになって、例年の如く最高気温を更新していた。田舎の街ということもあり、朝から夕方までずっと至る所から蝉の鳴き声が聞こえる。


 書斎の扉をノックし、返事がないことを確認してから呼吸をひとつ挟み、ドアノブを回す。


「──入りますね。朝ですよ、輔さん。おはようございます。……居間の机に朝ご飯の用意はしておいたので、起きたら食べてくださいね」


「ん……」


 この頃は、簡単な朝ご飯を作り、書斎の床で布団を敷いて寝る輔の肩を揺すり起こしてから、学校へ向かうのが深雪の日課となっていた。といっても、輔は朝というものに滅法弱いらしく、起こしに行ってもその場で起きてくれることは滅多になかったのだが。


 ──最初の頃こそ、彼の行動全てに何か裏があるのではないかと疑わずにはいられなかった。気を張って眠れないという日が三日は続いた。


 しかし輔は、深雪が嫌がりそうなことを要求してきたことは一度もなく、必要以上に干渉してくることもなかった。後者に関しては、彼が大抵書斎に籠っていたことに起因するが。


 無理強いをしてきたことも、輔に拾われたその日のことだけで、それも不器用な彼なりの優しさからの行動だったのだろうと今では理解できる。


 現に、彼はこれまで一切対価を求めることなく深雪を家に置いてくれている。


 他にもショッピングモールで関係がばれそうになった時、輔は嘘を言ってまで庇ってくれた。警察に通報されたくない気持ちは輔も同じだろうし、それが最善の選択だったことは明白だが、それでも深雪が輔を信用するきっかけの一つになったことは間違いない。


 そんなことを考えながら、通学路を歩いて学校へ通う。


 教室に入ると数少ない友人の女の子が話しかけてきて、深雪はそれに応える。


 お母さんに置いて行かれた時は、学校にももう通えなくなるのだと思っていた。そうならなかったのも輔のおかげだ。


 ──最近は、何か考えごとをするたびに彼の顔が浮かぶ。

 その度に顔が火照るような感じがして、深雪は頬に手を当てるのだった。


「どしたの、深雪。考えごと?」


 ぼーっとしている深雪の頬をつついて、友人──沙耶が聞いてくる。


「……えっと、なんでもないよ」


 誤魔化すように深雪が苦笑する。沙耶は納得がいかないのか、首を傾げた。


「なんでもないって感じじゃなかったけどなあ。……さては、恋わずらいとか?」


「こ……っ」

「こ?」


 恋わずらい、そう言われて深雪は言葉を詰まらせる。そのやや過剰な反応に沙耶は得心がいった様子で表情をだらけさせると、深雪の隣の席に着き両手で頬杖をついた。


「ね、誰? うちのクラス? それとも他のクラス?」


「どっちでもないし、そもそも恋わずらいなんかじゃ……」


 深雪は控えめにふるふると、しかし確実に首を横に振る。


「違うの? じゃあ、別の学校の子とか? もしかして高校生だったり……⁉」


 勝手に想像を膨らませて、きゃーと黄色い声を上げる沙耶に深雪は溜め息を吐く。


 そうした自分の反応が、輔の普段しているものによく似ていることに後から気が付いて、また少し顔が熱を持つ。


 と、そこで教室の扉が開いて担任教師が入ってきた。

 同時にチャイムが鳴り、教室のクラスメイトが一斉に前を向く。




     ◆




 授業を終え、休み時間には沙耶と談笑して、放課後。


「じゃ、深雪。また明日ね」

「うん。また明日」


 沙耶と別れて帰路に就く、その途中。


 路地裏に向かう小さな白猫を見つけて、深雪は思わず足の向かう先を変える。

 この辺りは野良猫が多い。庭を荒らすため近隣住民からは猫除けのとげとげシートを置かれたりしているが、深雪からすればどの猫もかわいい、愛でる対象だった。


 足音を殺して近付き、そーっと路地裏を覗く。

 こんなことをしていると、何か悪いことをしようとしているような気分になる。


「──もしかして、君。深雪ちゃん?」


「っ……⁉」


 そこで背後から知らない声がかかり、深雪は肩を揺らして勢いよく振り向いた。そこに立っていた何となく見覚えのある男に、一歩後退りながら警戒の視線を向ける。


 黒縁眼鏡の細身、やや色素の薄い髪にカジュアルな服装。


「あー……もしかしなくても、警戒されてる? ……やっぱり覚えられてないか」


 がっくりと大げさに肩を落とす男に、深雪は困惑してたじろぐ。


「覚えて……? すみません、その……誰ですか?」


「辻、っていうんだけど。この前、ショッピングモールで声をかけた──思い出してくれた?」


 そういえば、と朧気になっていた記憶が蘇る。

 輔と一緒に出かけた時に、誘拐じゃないかと疑って色々話を聞いてきた人だ。


 何といえば言いか、凄い勢いで謝っていた印象が強い。


「えっと……はい。思い出しました。何か御用でしょうか?」


 取り澄ました態度で深雪が聞くと、辻は明らかに残念そうに眉をひそめた。


「あの時のこと、謝りたくて。今日はおじさんは一緒じゃないの?」


「学校の帰りなので……」


「そっか。改めて、あの時は勘違いしてごめん」


「い、いえ。私は別に何とも思ってないので大丈夫です。……その、頭を上げてください」


 急に頭を下げられて、深雪は慌てて周囲を見渡す。

 人通りはなく、幸い誰にも見られてはいないようだった。


 辻はほっとしたように息を吐くと、こちらを安心させるような人の良い笑みを作った。

 ……いきなり話しかけられて驚いたが、悪い人というわけではないのかもしれない。


「ありがとう。ちょっと、気にしてたからさ」


「いえ」


 会話が途切れる瞬間のぎこちなさが場を支配する。

 その空気感を悟ったのか、辻が口を開く。


「そういえば、学校の帰りなんだっけ。この辺りに住んでるの?」


「……まだもうちょっと先です」


 一瞬、隠すべきかと悩んだが、咄嗟に嘘が思いつかず、結局本当のことを言ってしまう。


「それじゃ、引き留めちゃ悪かったかな。遅くなるとおじさんも心配するよね」

「…………」


 ふいにそんなことを言われ、深雪は黙考する。


 いつも帰ってくる時間に帰らないと、輔は心配するのだろうか。

 これまで帰りが遅くなったことはほとんどなかったため、よく分からない。


 お母さんには毎日早く帰るように強く言い聞かされていたが、輔には言われたことがない。むしろ帰りが早いと言われたことがあるくらいだ。


「もしかして、そうでもない? ……あんまり仲良くないとか?」


「そんなことはない……と思い、ますけど。でも、まだ大丈夫だと思います」


 やや自信なく深雪は告げる。


「まあ、まだ四時半だしね。君は部活とかやってないの?」


「入ってないです」


「じゃあ、趣味とかは?」


 そう聞かれた辺りで、深雪が怪訝な顔をしたのに気付いたのだろう。

 辻は慌てて取り繕うように、手のひらを前に突き出した。


「あ、いきなり色々聞きすぎたよね。ごめん。悪い癖なんだ」


「……いえ。でも、そろそろいいですか?」


 無理やりにでも話を切り上げようと、深雪は軽く、それでいて確かな拒絶を込めた声で告げた。


「ああ、うん。引き留めちゃってごめんね」


「こちらこそ、すみません。それじゃ……」


 そう言って深雪が辻の脇を通り去ろうとすると、同時に歩き出した辻とぶつかった。その衝撃で通学鞄を落としてしまい、教科書や筆箱といった中身がばら撒かれてしまう。


「ごめ──」

「ごめんなさい……」


 気まずさから顔を上げられず、深雪はしゃがんで散らばった物を拾い集める。

 その目の前で辻が教科書を集めて揃え、手渡してくれる。


「はい」


「……ありがとうございます」


 深雪はすくっと立ち上がり、一礼をして歩き出す。辻は膝を屈めた体勢のまま、何かを言おうとしていた気がしたが、見なかったことにしてそそくさとその場を立ち去った。






 家に帰り、居間の襖を開けると、思いがけず涼しい風が頬を撫でた。

 部屋の中央辺りに、輔がこちらに背を向けて寝転んでいる。


 服装はよく見る無地の黒シャツにジャージ姿だった。

 聞きこそしないが、彼は一体何の仕事をしているんだろう、とたまに考える。


 輔は煙草をやっているし、最近は自分のためでもあると言いながらドライヤーを買ってきてくれた。自炊をしているわけでもないし、それなりに裕福なのだろう。

 それなのに、外に仕事に行くのを見たことがない。


 深雪が学校に行っている間に、行って帰ってきているのかもしれないが、それよりは書斎にいる間に在宅の仕事をしているのかなと最近は思っている。


 輔は寝返りを打ってこちらを向き、深雪の姿を確認すると、再び寝返りを打った。


「おかえり」

「た、ただいま、帰りました」


 背中越しに言われ、深雪はたどたどしく答える。


 輔はテレビを着けて、チャンネルをいじってニュースを見ている。というよりは、テレビを見ている時とご飯の時以外は、居間にいること自体が珍しい。


 そのまま深雪が突っ立っていると、輔は再度こちらへ振り向いた。


「なに。出て行ってってこと?」


 無言で圧力をかけていると思われたのだろうか。


「や……。えっと、輔さんって、いつでも家にいますよね」


 何を言っているんだろう、と自分で思う。

 慌てて何か弁解しなきゃいけないと思って、反射的に答えてしまった。


「それはあれ? 仕事してんのかってこと?」


「い、いえ……っ、全然、そんなわけじゃ……⁉」


 少し前に考えていたことを言い当てられ、声が上擦る。


 輔はその反応に何を思ったのか、黙り込んだ。その隙に深雪は言葉を続ける。


「えっと。家に帰ると誰かがいるっていうのが、ちょっと、嬉しくて。……ごめんなさい。いきなりこんなこと言われても、何言ってるか分からないですよね」


 ──もっと何を言っているんだろう、と深雪は自身の発言に目を白黒させる。

 不快にさせてしまったかもしれない。


 だが、輔から返ってきた言葉は想像と違ったものだった。


「別に、分からないこともないけど」


「え……」


「なにその反応。そんなに意外?」


「はい。……」


 輔は一人でいたくてそうしているものだと思っていた。


 だって、輔は深雪の目から見ても、目鼻立ちが整っていて格好いい。

 性格も最初は怖いと思っていたが、不器用なだけで優しく、気遣いもしてくれるし、友人や彼女の一人も見かけないのが不思議なくらいだった。


 誰とも付き合いがなさそうなのは、人が嫌いだからなのだと臆見していた。書斎に籠っているのも、深雪とあまり顔を合わせたくないからだと。


 だからこそ、家に人がいて嬉しいという言葉に彼が同意を示したのはとても意外だった。


「ま、それもそうか」


「…………」


「──そんな心配しなくても、特別な感情は持ってねえよ」


「……?」


 言われたことの意味が分からず、深雪は首を傾げる。


「いや。違うならいいけど」


 輔は口を手で覆うと欠伸を一つ零した。


「それ腕のとこ。なんかぶつけたの?」


 目を細め、輔が聞いてくる。


 右腕、左腕と順に見ると、左腕が少し赤くなっているのに気付く。


「……気付きませんでした」


 さっき、ぶつかった時だろうか。言われてみれば、じんじんと痛み始めた。


「冷凍庫に保冷剤あるから、タオルにでも包んで冷やしといたら」


 ぶっきらぼうに言い捨て、輔は立ち上がった。


「そうします。……どこか行くんですか?」


「煙草吸いたいし、買い物行ってくる」


 すれ違いざま、「気を付けろよ」と言って、輔が頭を撫でてくる。

 大きな手に撫でられた瞬間、鼓動が高鳴るのを感じながら、深雪は熱くなってきた頬を隠すように両手で顔を覆った。

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