第9話 別れの時
鍵を開けて玄関の扉を潜ると、黒猫が真っ先に出迎えに来た。
少し遅れて「あ、おかえりなさい……!」と、深雪が廊下の奥からやってくる。
輔は脱いだ靴を揃えて並べ、上着を脱いで靴箱の上に放る。
煙草の空箱が上着のポケットから飛び出して、靴箱の上を滑っていく。
それから、輔は右手のビニール袋から百均で買ったおもちゃの猫じゃらしを取り出し、持ち手を握って黒猫の前で振り回した。本能なのか、黒猫は一瞬にして目の色を変え、爪を出して棒の先に着いたもふもふに向かって飛びついてきた。
輔がその飛びつきを躱して反対側に猫じゃらしを振ると、着地した猫が瞬時に身体を翻し、再び飛びかかってくる。普段の大人しさからは想像もできないアグレッシブな動きで飛び回る黒猫で十数秒遊び、輔は深雪に猫じゃらしを手渡す。
「やる。他にもいくつかあるから、適当にそいつと遊んでやって」
百均のビニール袋を足元に残して、輔は突っ立っている深雪の脇を通り抜ける。
「え、あ……はいっ」
「朝ごはんって、用意してる?」
「いつ帰ってくるか分からなかったので、冷蔵庫に入れてます」
「ありがと」
一度書斎に戻って煙草を取ってきて、キッチンでご飯の前に一服する。
シンクに煙草の先を潰してゴミ袋に吸殻を捨て、コップ一杯の水道水を飲む。
次いで冷蔵庫から朝ごはんが乗せられた大きな一枚皿を取り出し、その場で箸を取る。
今朝は卵焼きと焼き目の付いたウインナー、レタスときゅうりのサラダだった。卵は深雪が焼いたのだろう。料理は不得手だと聞いていたが、かなり美味しいだし巻きだった。
少なくとも、スクランブルエッグ以外の調理法だと卵を焦がしてしまう輔と比べれば、料理の腕の差は歴然と言えるだろう。
朝食を済ませた輔が居間の襖を開けると、床に正座をした深雪と黒猫が見つめ合っていた。
輔が近付いても互いに視線を逸らすことなく、妙な緊張感が流れている。
「にらめっこでもしてんの?」
「あ……えっと」
どう答えたものかと迷ったのか、深雪が手を背中に回したまま輔を見上げてくる。
見てみれば、後ろに回された深雪の右手にはネズミを模した猫用のおもちゃが握られていた。それを黒猫の前に差し出すタイミングをうかがっていたのだろう。
「そのおもちゃ、尻尾引っ張ったら自動で走んの知ってる?」
「し、知ってますよ。でも、動きが遅くてあんまり楽しくないみたいで……」
「ふーん。……ま、百均だからな」
輔は深雪の隣に腰を下ろし、その手からおもちゃのネズミを掴み取る。
黒猫が飛びついて来ようとするが、反対の手で進路を遮り待ったをかける。
真横から見ると車輪が見えるそれを、輔は試しに尻尾を引っ張ってから畳の上に置くと、ネズミはウィーンと安っぽいモーターの音を立てながらのろのろと走り出した。
走っているというよりは歩いているくらいのスピードだ。確かにこれでは、普通の遊び方で黒猫が満足いかないのも理解できる気がした。
「そういや、普通に遊んでるみたいだけど。慣れたの?」
その場に横向きに寝転がって肘をつき、黒猫に視線を向けながら輔が聞く。
「この子が私に、ってことですか?」
「そう」
「……そうでしょうか?」
嬉しさ半分、照れ半分といった調子で深雪がはにかみ、側に合った猫じゃらしを手にして黒猫に向けて振る。黒猫は嬉々としてそれに反応して跳ね回る。
その光景をしばらく眺めていたが、やがて黒猫は疲れたのか猫じゃらしを追わなくなった。そのままくるりと方向転換し、甘え声で鳴きながら輔の腹をよじ登ろうとしてくる。
仕方なく輔は上体を起こして胡坐をかく。
と、黒猫は輔の膝上にちょこんと乗ってきた。
顎の下を撫でてやれば、ごろごろと猫らしい声を上げて頬を擦り寄せてくる。ほどなくして黒猫は大きな欠伸をしたかと思うと、身体を丸めて寝息を立て始めた。
どこまでもマイペースなやつだ、と思う。
「……羨ましい?」
その様子を羨望の視線で見つめていた深雪に、輔は見兼ねて声をかける。
「…………その。少し」
数秒の硬直の後、深雪はそう口にしたきり俯いてしまった。
折角仲良くなった黒猫を輔に取られたような気分になったのかもしれない。
輔は黒猫がよく眠っているのを確認して抱き上げ、深雪の膝に移動させてやる。
「え。あ……」
面を上げ、困惑の色が浮かぶ顔で深雪が輔の方を見てくる。
輔としては気を利かせたつもりだったが、何かが間違っていたらしい。
「違う?」
「ちがっ、違わないです……っ!」
深雪の首が取れそうな勢いで横に振られる。ひどく決まりの悪そうな表情と、ほのかに上気する赤い頬から深雪が何を言わんとしていたのかが、何となく察せた。
輔は深雪の座る隣に腰を下ろすと、手を伸ばして頭を撫でてやる。
触れた瞬間、びくっと肩が跳ねたものの、深雪は拒絶することはなかった。
「あの……っ、な、なにしてるんですか?」
「これも違った?」
さらさらの髪を指先で梳きながら輔が聞く。
柔らかく、きめの細かい髪だ。使っているシャンプーやリンスが違うからだろうか。
「い、え。…………違わないです、けど」
たっぷり間をおいてそう告げられ、深雪の両手がぎゅっと握り締められる。
口調の割に、つとめて平静を装おうとしているのが分かるような掠れ声だった。
そうして、しばらく頭を撫でていると。
「輔さんって、髪触るの好きなんですか……?」
唐突に、深雪が上目がちにそんなことを聞いてくる。
「なんで?」
「だって朝も──…………あ。や、何でもないです……」
「起きてたのか」
輔はばつの悪さに目を細める。
どうやら今朝のあの時も、眠っているようで起きていたらしい。
それなら起きてくれれば良かったものを。
「えっと……! ぼーっとしてたので、夢かと思ってて……それに、嫌じゃなかったので」
なぜか深雪の側から弁解してくる。それでまた肩身が狭くなり輔は首を横に振る。
「何でもいいけど」
「……あっ」
最後に深雪の髪をくしゃくしゃと搔き回してから、手を引っ込める。それから再度その場に肘をついて寝転がり、近くにあったリモコンを操作してテレビを点ける。
手が離れた際、深雪が名残惜しそうな顔をしたかに見えたが、それも一瞬のことだった。
穏やかな表情で黒猫を撫で始めた深雪を、輔はニュースを横目にじっと眺めていた。
その日の夜も黒猫が駄々をこねたため、輔は居間で寝ることになった。
昨日のことを思い出し、深雪に「気になるなら代わりに書斎で寝る?」と聞いてみたが、彼女は少し考えた後、「私は大丈夫です」と言ってはにかんだ。
◆
「輔さん、起きてください……!」
翌日、十一時頃。若干焦り気味の深雪に起こされると、スマホに不在着信が入っていた。
着信履歴を見れば、少し時間を空けて三回知らない番号からかかってきている。
「鳴っていた時に起こしたんですけど、なかなか起きなくて……」
なぜか悪いことをしたかのように、深雪が唇を軽く噛む。
「いいよ。ありがと」
輔は短く礼を言うと、スマホだけを持って居間を後にする。
書斎に戻ってドアを閉め、不在着信に折り返す。
何となく、相手が誰かの予感はあった。
二回目のコール音が聞こえたあたりで、電話は取られた。
「……はい。──はい、紀川ですが」
「あ、輔さん。お電話大丈夫でしたか?」
輔が居間に戻ると、深雪は布団を片付けて黒猫の餌を用意しているところだった。
「ああ──そいつの飼い主からだった。今から迎えに来るって」
そう告げた途端、深雪は微かに、しかし明らかに悲しそうな目をした。
「そうですか。見つかって良かったです」
深雪は芯の抜けたような表情で笑った。
それからおよそ一時間半後──インターホンが鳴らされ一人の女性が訪ねてきた。
魚眼レンズから顔を離して輔が玄関のドアを開けると、女性は丁寧に一礼した。
「先ほどお電話を頂きました、
電話口で聞いた声と同じ声。やや高めの身長。年齢は三十後半か、四十代前半だろうか。
手には日傘と猫用ケージ、ブランドものの鞄、大きめの紙袋が携えられている。
「今、連れてくるんで待っててください」
「……えっと、連れてきました」
輔が言った直後、黒猫を抱いた深雪が廊下の奥から現れた。
公文と名乗った女性は黒猫を見るや否や、猫用ケージを足元に置き、手で口元を覆った。
「おはぎちゃん……! 紀川さん。うちの子を助けて頂いて、本当にありがとうございます!」
再度、綺麗な所作で頭が下げられる。
それから、「大したものではありませんが」と紙袋が差し出される。
「……電話で言った通り、拾ったのは俺じゃないんで」
紙袋を受け取った輔がそう返すと、そうでしたね、とにこやかに女性が告げる。
黒猫を抱えて一歩前に出た深雪に、女性は膝を軽く曲げ、目線を合わせて話しかける。
「あなたが深雪さんね? お話は紀川さんから伺っているわ。うちの子を拾ってくれてありがとう。……おはぎちゃんを連れ帰っちゃうの、ごめんね」
「……いえ、良かったです。この子も安心できると思います」
対する深雪は貼り付けたような笑顔を浮かべていた。
それを見た女性は少し目尻を下げ、一度輔を見て、再び深雪の方へと向き直った。
深雪がさみしさを我慢しているのを感じ取ったのだろう。
「そんな風に笑うくらい、大事にしてくれてたのね。……ごめんね? おはぎちゃんは私のたった一人の家族なの。本当に、あなたみたいな優しい子に見つけてもらえてよかったわ」
胸元に手を当て目を瞑り、女性がしみじみと告げる。
家族、と聞いた瞬間、深雪が微かに表情を歪めたのに輔は気付く。
──と、深雪が何かを言おうとしたところで、黒猫がミャアと鳴いた。それから毛繕いをせがむときのように、甘え仕草で深雪の身体に顔を摺り寄せてくる。
「……猫ちゃ──おはぎちゃん」
深雪は黒猫を抱いている手で、その黒く小さな背を優しくひと撫でした。
それから、足の動きだけで靴を履いて女性の前へと歩み寄り黒猫を差し出した。
「……ありがとうございます、公文さん」
「こちらこそありがとうね。深雪さん」
お互いにお礼を言い合い、そうして黒猫への別れの挨拶は済んだ。
黒猫──おはぎは女性の持ってきたケージに迷いなく入った。
それから念のため、女性の持ってきた写真で本猫確認を行い、少し話を聞いた。どうやらおはぎは隣町から家出してきたらしく、それで見つかるまで時間がかかったらしい。
帰り際も、女性は頻りにお礼の言葉を繰り返していた。
深雪と並んで居間に戻ると、輔は紙袋の中身を取り出して確認する。
箱の包装を解くと、中身は輔も名前を知っている高級な洋菓子店の一口バウムクーヘンだった。
一つ封を開けて口に放り込み、高級菓子特有の繊細な味を堪能する。
それから、部屋の隅に残っている猫用グッズをじっと見つめながら呆然としている深雪にも一つ手渡した。
「ん」
「……あ。ありがとうございます」
深雪はバウムクーヘンを受け取ったものの、食べずに手を下ろした。
「猫ちゃん。輔さんの言った通り、名前付けなくて良かったです」
輔が隣に立つと、深雪はぽつりと呟いた。
「そうだな」
「猫じゃらしとか、いらなくなっちゃいましたね。……どうしましょうか?」
「普通に捨てればいい。どうせ百均の安いのばっかだし」
ふと深雪の横顔を見れば、目元が少し赤らんでいた。
輔が手を伸ばしてその目尻の辺りに触れると、深雪は輔の方を向いて力なく笑った。泣きそうなのを我慢しているのか、深雪の頬は熱を持っていた。
「元々飼えないって分かってたのに、ちょっとさみしいですね」
「…………なら」
「はい……?」
「──いや、なんでもない」
──なんで笑うの、と聞こうとして輔は口を噤んだ。頬に触れていた手を引っ込める。
「それ、食わないの」
深雪の手元に視線を注ぐ。バウムクーヘンの袋は軽く握り潰されていた。食べるよう催促されたように感じたのか、深雪は袋を開けてバウムクーヘンを小さく頬張った。
「ふわっとしてて美味しいです」
「……そう」
「輔さん」
深雪が改まって名前を呼んでくる。そういう時は大抵、何か思うことがあった時だ。
「なに」
「輔さんは、私に迎えが来たら、引き留めたいと思いますか?」
自分から聞いておいて、輔の答えを待たずに深雪は酷く後悔したような顔をした。
「…………」
「ごめんなさい。……変なこと聞いて」
誤魔化すように付け足された謝罪に、ややあって輔は短く溜め息を吐く。
「……もし仮に、母親がこの家まで迎えに来たんだとしたら、俺は引き留めない」
息を呑む音が聞こえる。それから深雪は「……そうですよね」と諦念染みた声で呟く。
輔はその様子を横目に流すと、ただ、と続けた。
「深雪がまだ帰りたくないと思ってるなら、迎えが来ても帰らなくてもいいんじゃないの」
「……!」
深雪はぱっと顔を上げて驚きを露わにする。
「……そうなんですか?」
「ま、親じゃなく警察が来たら無理かもな」
輔はそんな風に軽口を叩く。
しかし深雪はそれで気が済んだようで、それ以上何も言わずに頬を緩めた。
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