第4話 遠出と海



 ──部屋に戻り、少女を布団に寝かせて。


 輔は書斎で椅子に腰掛け、窓の外を眺めていた。手元の本は開かれてすらいない。

 雲の隙間から覗く月を見れば、目が冴えて気分が悪かった。


 吸い込まれるような田舎の住宅街の夜に視線を落とし、輔は頬杖をつき思案する。


 極力、面倒事は避けるタイプだったはずだ。


 少女の問いは核心を突いていた。

 どうして、つい三日前まで他人だった少女にここまでしてやるのか。


 いや──分からないわけじゃない。輔自身、目を逸らしているだけだ。内実は、少女を気にかけるのも、少女の目が気に入らないのも、同じ理由からきている。


 だが、それを自覚したところで何になるというのか。


「……柄でもないな」


 自嘲気味に呟き、昏い瞳で軽く拳を握る。

 幸い後悔はない。今後どうなろうが知ったことではない、の方が正しいか。


 少女を拾い、どこにも連絡を入れなかった時点で真っ当でないことをしているのだ。


 ──彼女なら、どうしただろうか。


「……いや」

 ふと過った考えを放棄するように、輔は頭を横に振った。


 今更、何もかも遅過ぎる。






     ◇






 翌日、輔は小さな手に肩を揺すられて目を覚ました。


 机上に組んだ腕の中で目を開け、書斎で眠ってしまったことを思い出す。


 大きな欠伸を一つ零して輔が後ろを振り返ると、そこには制服姿の少女が立っていた。手には通学鞄が携えられており、学校に行く直前といった様子だった。


「あ、あの」


 さっと手を引っ込め、少女は一歩後退る。


「なに」


「──昨日は、ごめんなさい」


 意を決したように勢いよく、深々と少女が頭を下げる。


 輔は何事もなかったかのようにそれを聞き流し、スマホで時刻を確認する。


「そう」


「お……怒ってないんですか?」


 輔の顔色を見澄ますように少女が顔を上げ、上目がちに首を傾げる。


「…………」


 輔は無言のまま伸びをすると、肩凝りを解消するために首と腕とを一周ずつさせる。

 それから、まだ突っ立ったままの少女に声を掛けた。


「別に怒ってないから。それとも、まだ何かあんの?」


「あ……えっと。学校に、行ってくるんですけど」


 少女がもじもじと指先を合わせる。


「……ああ、そう。それで?」


「なので、鍵を閉めてもらってもいいですか……?」


「居間の引き出しの一番上。鍵入ってるから勝手に使って」

「え……。えっ」


「聞こえなかった? 引き出しの一番上」


「い……いいんですか? 鍵なんて渡して……」

「俺が使う分はもう一本あるから」


 そういうことじゃない、とでも言いたげに少女が口元をもごもごさせる。


 鍵を渡すことに危機感がないのかと問いたいのだろう。じゃあお前はその鍵を悪用するのかと問いたくなるが、そうするとまた話が長引きそうなのでやめておいた。


「それより、何か食べた?」


 輔の問いかけに少女が口を噤む。輔は椅子を引いて立ち上がると、


「ご飯は炊飯器ん中に炊いたのがあるから。シンクの下の棚にインスタントの味噌汁もある。味の保証はしないけど。もしまだ時間あるなら俺の分も作っといて」


 机上の本を手に取り本棚に戻す。


 返事のない少女に一瞥をくれると、少女は輔から目を逸らさずに頷いた。


 そのままじっと輔の様子を窺うように、輔の動きに合わせて少女は視線を動かす。


「なに」


 輔が短く聞くと、少女は「いえ……!」と我に返ったように肩を揺らし、落ち着きのない動作で書斎を出ると、ぱたぱたと足早に廊下を歩いて行った。


 居間に向かい、輔は机の前に腰を下ろす。


 キッチンの方から湯を沸かす音が聞こえ、しばらくすると少女がご飯と味噌汁を持ってきた。それらが箸と一緒に二人分、机上に並べられるのを、スマホを弄りながら待つ。


「ありがと」


 少女が対面にちょこんと座り込んだのを見て、輔は礼を告げる。


「いえ……こちらこそ、ありがとうございます。いただきます」


 少女が丁寧に手を合わせるのを見届け、箸を手に取る。


 ふーふーとご飯を冷ましながら食べる少女が半分くらい箸を進めたところで、輔は食べ終わり、茶碗と箸を机に置いて立ち上がった。


「…………」


 びっくりしたように少女が輔を見て、すぐに目を逸らす。


 お茶碗一杯の白米に、申し訳程度のわかめくらいしか具のない味噌汁だ。

 味わうようなものでもないし、猫舌でもないからすぐに食べ終わる。


「食器、食べ終わったらそのまま机に置いといて。あとでまとめて洗うから」

「はい」


 こくりと頷く少女を横目に流し、明日以降のことを考える。


 輔は毎日この朝食でもいいのだが、少女の方はそうはいかないだろう。

 中学生なら育ち盛りだろうし、何より味気ない。


 だからといって輔は料理ができない。壊滅的かと言われるとそうではないが、インスタントや出来合いの惣菜よりも不味いならできないのと同じことだ。


 少女がご飯を食べ終わるタイミングを見計らい、輔は声をかける。


「お前、料理できんの」


「簡単なものなら作ったことは……でも、そこまで得意じゃないです」


「……ま、そうだよな」


 中学生なら簡単な料理ができるだけで大したものだが。


 それはそれとして、言っておいてなんだが、料理の担当を少女に一任するのは酷だろう。


「なら、しばらくはインスタントとか惣菜で我慢して」


 そう言い残し、何やら言い淀む少女を置いて輔は書斎に戻った。


 しばらく後。少女は律儀に「いってきます」と言いに来てから、家を出た。


 輔が洗い物をしようと居間に戻ると、そこに食器はなかった。その足でキッチンへ向かうと、水切りラックの上にさっき使った茶碗や箸が並んでいた。






     ◆






 それから八日後の火曜日。


 その日、少女が帰ってきたのは午後四時前のことだった。

 居間の壁にかかる時計を一瞥して、床に寝そべった輔が切り出す。


「別にいいけど。毎日帰ってくるの早くない?」


「えっ」


「寄り道したり、部活とか、友達と遊んだりとかしないの」


 学校が何時に終わるのかは知らないが、少女は四時前か、曜日にはよるが遅くとも四時過ぎには必ず帰宅する。直帰でないにしては流石に早い気がした。


 小中学生の頃はよく寄り道をして帰りが遅くなり、親に叱られたものだが──と、輔はそこまで考えてやっと、深雪が言葉に詰まっている理由を察する。


「……そういうのは、あんまり」


「するなって言われてた?」


「……その」


 徐々に俯いていく少女の反応に、輔は話を変える。


「そう。この後なんか予定ある?」

「……いえ。なんですか?」


「ちょっと遠出する。暇なら楽な格好に着替えてきて」






 モノクロのレイヤードワンピースに着替えてきた少女を連れて家を出る。

 後ろを着いてくる少女を頭から靴の先まで眺め、輔は小さく唸る。


「な、なにか……?」


「お前、やっぱり見た目は良いよな」


 顔立ちは元から整っており、長い黒髪は艶があってさらりと流れている。一週間と少しでやつれ具合も大分マシになった。


 時折すれ違う人が、少女の方を振り返っているのも気のせいではないだろう。


 少女は反応に困ったのか、ぺこりと一礼だけを返してきた。

 輔もそれ以上は何も言わなかった。


 平日の四時過ぎということもあってか、細い道から国道に出ても車の通りは少なかった。

 といっても、この道路が渋滞しているのを輔は見たことがなかった。


 たまに法定速度を軽く超えているであろう速度で車が走り去っていく。

 田舎の国道なんて、そんなものだ。


 十分ほど歩いてバス停に着くと、それから数分もしないうちにバスが来た。


 プシュー、と圧縮空気の解放される音がしてドアが開く。


 バスに乗り込み、整理券を二枚取り、一枚を少女に手渡す。


 一番後ろの広い席に座る。少女はその隣にワンピースの裾を整えながら座った。


 少女は4と大きく書かれた券をしげしげと見つめ、裏返す。当然裏に印字されているわけもなく、少女が何か尋ねたそうに輔の方を向く。


「バス、乗ったことないの?」


 半分冗談のつもりで聞いたのだが、少女は頷いた。


「はい。初めてです。これって、切符ですか?」


「似たようなもんだ。あとでそれと一緒に金払うから、落とすなよ」


 説明が面倒で適当に返す。


「わかりました」


 少女は指先でつまんでいた整理券を手のひらに収める。


 輔は上着のポケットからスマホを取り出して、適当に弄り始める。少女はというと窓の外に興味を向けたようで、車窓から流れる景色をじっと眺めていた。


 二十分と少しバスに揺られて、輔は降車ボタンを押した。


 無機質な自動音声が流れて、少女が音の出所を探して車内を見渡す。


 ポケットの財布から小銭を取り出していると、バスが停車した。


 運賃箱に二人分の料金と整理券を入れ、バスを降りる。

 アスファルトの舗装道に降り立つと、微かに潮の匂いがした。


 少女は輔の後を着いてきながら、運転手の様子をおどおどとしながら見守っていたが、バスが走り去ってから、控えめな力で、それでいて焦り気味に輔の上着を引っ張ってきた。


「なに?」

「あの、料金……! 私、小学生じゃな──」


「あー。そう」


 しらを切り、輔はまだ明るい夏隣の空を見上げる。


 輔が少女の分の料金を払うとき、半額分しか払っていなかったのを見ていたらしい。


「じゃあ、何歳なの?」


 ちらりと少女の方に視線を落として聞く。


「十五歳です」


「十五?」


 少女の回答が意外で、思わず聞き返す。


「は、はい」


 発育からせいぜい中学一年生くらいだろうと思っていたのだが、見当違いだったらしい。となると、小学生料金のために三歳も鯖を読ませてしまったことになる。


 不安そうにバスが去っていった方を見つめる少女の頭に手を乗せ、輔は口を開く。


「運転手も一回しか乗せてない客の顔を覚えてられるほど暇じゃない」


「……そうですか?」


 まだ思案顔で足を止めている少女の腕を引き、輔は歩き出す。


「行くぞ」


「……は、はい」


 淀みなく歩を進める輔とは対照的に、少女は周囲を見渡しながら歩いていた。

 どこに連れていかれているのかが気になっているのだろう。


「そういえば、どこに向かっているんですか?」


 ごくりと唾を飲み込み、自然を振舞って少女が聞いてくる。


 行き先を聞くのに覚悟を決める必要があるのか、と思うが、口にはしない。

 代わりに輔は行く手に視線をやり、短く答えた。


「すぐに着く」


「……そうなんですか?」


 少女はきょろきょろと視線を彷徨わせる。


 右手側には堤防が、左手には古い造りの家が目立つ住宅街が見える。

 道の奥には同じような景色が広がっていて、コンビニの一つすら見当たらない。


 少女の低い身長からすれば、そこまでしか見えていないだろう。

 困惑するのも当然だった。


 輔は車が来ていないかを確認して、道路を右側に横断する。


 と、そこで輔は立ち止まって少女の腕から手を離す。

 輔が視線で促す先──堤防の切れ目から覗いた景色に、少女は瞠目した。


「わ──」


 砂浜の向こうに、夕方の日差しを反射してきらきらと輝う海が広がっていた。






 堤防から伸びた階段を下りて、海沿いの砂浜を歩く。

 少女の身長では堤防越しには見えなかったであろう水平線が一望できる。


 海面は夕日に照らされ、直視できないくらいに光を反射している。


 乾いた下唇を舐めると潮の味がした。少女は輔の付けた足跡を辿るように着いてきている。まるで綺麗な砂浜を自分の足跡で汚すまいとしているかのように。


 少女はしばらく何か言いたげに視線を彷徨わせていたが、輔が何も言わずにいると、諦めたのか黙って後を着いてきた。そうして、お互いに無言の時間が続いた。


 砂に砂利が混ざり始めた辺りで輔は足を止めた。


 手で庇を作りながら顔を上げた少女と、ふと視線が交錯する。


「あ、あの……どうして、ここに?」


 砂浜はそれなりに風が強く、少女が髪が乱れるのを気にしながら聞いてきた。


「さあ」


 輔は短く返す。


「えっ」


「強いて言うなら時間潰しと、遠出したかったってだけ」

「そう、なんですか……?」


「別のとこが良かった?」


「いえ……。とても、綺麗な場所ですね」


 漣の音にさらわれるくらいの声で、少女が静かに呟く。


 いつの間にか少女は輔から視線を外し、じっくりと目に焼き付けるように、砂浜からの景色を堪能していた。まさか海に来るのも初めてなのだろうか、となんとなく思う。


「昔、知り合いに教えてもらった場所だ。もう長いこと会ってないけど」


「知り合いに……。そうなんですか」

「…………」


 余計なことを言ったかと勘繰ったが、少女は気に留めてはいないようだった。


 少女は遥か先の水平線を望んで目を眇め、控えめな歩幅で波打ち際へと歩いて行く。


 後を着いていく途中、輔は足元の砂に紛れてオレンジに透き通るシーグラスを見つけ、しゃがみ込んでそれを拾い上げた。手のひらの上で転がして角がないか検めてから、


「手、出して」


 と少女に手を出させ、その上にシーグラスをぽとりと落とす。


「これは……?」

「シーグラス。要らないなら海に返してもいいけど」


 少女は「シーグラス……」と呟き、指先サイズのそれを様々な角度から観察していた。


「そんなに珍しい?」


「お店で見たことはあるんですけど……。ほんとに、海に落ちてるんですね」


「そう」


「あの。持って帰ってもいいですか?」


 海に沈みゆく夕日にシーグラスを重ねながら、少女がそんなことを聞いてくる。


「俺が渡したもんだし。いちいち聞かなくてもそんくらいいいから」


「あ……ありがとうございます」


 輔の方を振り向き、深々と少女が頭を下げる。


「…………」

 それを見て、輔は一度黙り込むと、一拍間をおいて言葉を続けた。


「そういやお前、名前は?」


「……名前、ですか?」


「いい加減、呼ぶときに不便だろ。どうしても教えたくないってんなら、これまで通り好きに呼ぶけど」


 目を細めながら、ぶっきらぼうな口調で輔が告げる。


 刹那、少女の瞳に少し嬉しそうな、それでいてどこか寂しげな感情が映る。


 そのことを察せない輔ではなかったが、それが意味するところを分かってやれるほどに、少女と輔とは深い関係を築いているわけでもなかった。


「なに、その顔」

「あ……えっと。……興味ないのかなって、思ってたので」


 少女はぎこちなく曖昧な笑みを浮かべた。


 確かに一週間以上もの間、一緒に暮らしていて、輔は少女に名前を聞かなかった。 

 また、輔から名乗ることもなかった。


 何の興味も持たれていないと少女が感じたのも、おかしな話ではないだろう。

 そしてそれは、あながち間違いでもない。


「これまでは、わざわざ聞き出す必要がなかっただけだ。これからもしばらく一緒に生活するなら、呼び名だってあるに越したことはないだろ」


 輔がもっともらしい理由を口にすると、少女は小さく頷いた。


「そう、ですね。…………深雪、です。私の、名前」


 言葉の所々を詰まらせながら、少女は自分の名前を告げる。


「そうか。深雪」

「はい。なんでしょうか……?」


「……いや」


 てっきり嘘を教えられたのかと思ったが、少女の反応を見るに偽名ではなさそうだった。

 まあ輔としては、通じさえすれば本名だろうが偽名だろうがどうでもいいのだが。


 少女──深雪から視線を外すと、輔は踵を返す。

 半ば無意識にポケットから煙草を取り出そうとして、周囲に灰皿がないことで思いとどまる。


 携帯灰皿は外出用の鞄に取り付けてあるはずなのだが、鞄自体を持ち歩く習慣がないため、灰皿が本来の役割を全うしたことはなかった。そもそも輔のよく行くスーパーやコンビニには灰皿が設置されているため、普段は困ること自体がないのだが。


 半開きになった口を紛らわせようと、輔は代わりに口を動かす。


「なあ。なんか、これからやりたいこととかないの」


 急な問いに深雪は戸惑ったのか、視線を微かに揺らす。


「やりたいこと、ですか?」


「なんでもいい。これまでできなかったこととか、あとは欲しいものとか、あるだろ」


「──……」


 深雪はその問いをどう受け取ったのか、思案顔を作ると口を噤んだ。


「まあ、急に言われても分からないよな」


「……ごめんなさい」


 俯きがちに謝罪され、輔は煩わしさに目を瞑り溜め息を吐く。


 おそらくは謝ること自体、癖になっているのだろう。そのうえ、謝れば何でも許されると思っているのではなく、謝らないといけないと思い込んでいそうなのがたちが悪い。


「別に咎めてない。今思いつかないなら、また考えといて」

「……はい」


「……。バスの時間までもうちょっと時間潰して、それから帰るから」


「はい」


 輔が海の方を向いて、膝を立て砂浜に腰を下ろすと、深雪はワンピースの裾を整えながら、その斜め後方に縮こまるように体育座りをした。


 深雪は膝に組んだ腕の隙間から、日が沈みゆく海を眺めていた。


 それからバスが来る時間になるまで、互いに口を開くこともなく時間を潰した。


 徐に輔が立ち上がり、「帰るぞ」と告げると、少女は「はい」と従った。

 空は暗くなってきており、潮風には涼気が混じり始めていた。



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