第3話 好都合
次に少女が起きたときには意識がはっきりとしており、お粥もスポーツドリンクも口にした。
寝かせて、食べさせて。看病の正しいやり方なんてものは知らなかったが、子供の回復力も手伝ってか、大体その繰り返しで徐々に熱は下がっていった。
丸一日の介抱の末、少女の体調は回復し、食べるものもまともになっていった。
翌々日の昼間には、もうすっかり治ったようだった。
何度も繰り返し謝罪とお礼を言ってくる少女に「別にいい」と輔は言って、少女が出ていく準備をしているのを横目に見ていた。
「……ああ、そうだ。その段ボールの中身、整理しといて」
「……?」
言われて、居間の隅にある段ボールの中身を覗き、少女は目を見張った。
「なんで、これ──」
中に入っているのは少女の住む部屋にあった荷物。
といっても、輔がさっと持ち出せそうだったものは着古された服や数冊の教科書、あとは歯ブラシやタオルケット等の日用品くらいのもので、布団の一枚すら見当たらなかったが。
輔の方を振り向いて聞いてくる少女に、輔は事も無げに言い放つ。
「他に必要なものがあったら持ってきていいから。お前、これからここに住め」
「──ど、ど」
餌を食べる金魚のように、あわあわと少女が口を開いたり閉じたりする。
最初の出会いから考えると意外だったが、表情は豊かな方らしい。
「なんだ、ど、って」
「ど……どういうことですか?」
「お前が寝てるときに言っただろ? 荷物持ってくるって」
少女は考え込むように目を伏せ、それから思い出したようにこちらを見た。
「それは……言ってましたけど、私は何も……」
ごにょごにょと口籠る少女。
それを横目に流して、輔は少女の荷物の方へ視線を放り、
「肌着類とか他に生活に必要なものは、後で金を渡すから自分で買ってくれ。着替えの服だけは何着か買ってきて、廊下に置いてあるから。気に入らないなら着なくてもいいけど。──んで、取り敢えず、風呂入れば? 二日入ってないんだし。気になるんだろ?」
有無を言わせぬよう捲し立てるように言う。
「な、なんで」
少女が一歩、輔の方に歩み寄りながら、怪訝そうな顔で聞いてくる。
「…………なんでって?」
「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
見ず知らずの相手になぜここまでするのか。
問われて、考える。
親族でもない未成年を家に入れる。そのリスクが分からない輔ではない。
それが分かった上でなぜ、少女を家に置こうと思ったのか。
ただの憐憫か、顏がいいからか──どれも納得のいく回答ではない。
警察を呼んでほしくないということは、児童養護施設に入りたくもないということだろうし、それ以外に選択がなかった──というのが妥当な結論だろうか。
そんなわけがない。
「さあ? なんでだろうな」
纏まりつつあった結論を放り出して、輔は白を切った。
こんな答えになっていないような話、わざわざ説明するだけ無駄だ。
「え……」
拍子抜けしたように少女が声を漏らす。
「そういやお前、学校は?」
「……聞いて、どうするんですか?」
何を警戒しているのか、少女の声に強い困惑が感じられる。
「別にどうも。休みの連絡は入れなくていいのかって聞いてるんだ」
「……今日は日曜日なので、学校はお休みです」
「そうか」
煙草の新しい箱を開けながら、短く返す。
それ以上は聞きたいこともない。どうせ、都合の悪いことには黙り込むのだ。
それならいっそ、最初から聞かない方がマシだった。
「間取り自体は左右逆なだけで同じだし、風呂の場所は分かるだろ? タオルは脱衣所にあるから好きに使えよ」
「……はい。……でも、その」
「なに」
「いえ。やっぱり、何でもありません。お風呂お借りしますね」
どこか含みのある調子で少女は言うと、居間を後にした。
「…………」
だが、輔は何も言及することなく、ライターを手に取ると煙草に火をつけた。
少女が風呂から上がってくるのを待たずに、輔は書斎へ向かった。
夜七時を回って。
輔は冷蔵庫に入れていた惣菜類とビールの缶を三本居間の机に並べ、二人分の箸を並べた。
少女は食事が用意されている時こそ何か言おうとしていたものの、いざ輔が食べ始めると遠慮がちに「いただきます」と手を合わせて、ちまちまと食べ始めた。
風呂に入った時に輔が用意していた服に着替えたようで、少女は見慣れた制服姿から、洋服店のマネキンが着ていた服装に変わっていた。
ベージュのスウェットシャツにゆったりとした黒のワイドパンツ。室内で着るには合わない格好だと思ったが、マネキンのコーデや店員の勧める服装そのままを買ってきたため、室内用のラフな服なんてものは一着も用意していなかった。
夕食を食べながら、少女はずっと上の空だった。
一足先に食べ終えていた輔は煙草を吸いながらそれを見ていた。
とはいえ、特にかけるべき言葉も見当たらなかった。
座卓を片付けて少女が寝るための布団を敷き直し、輔は居間を後にする。
「その。……おやすみなさい」
襖を閉じる直前、就寝の挨拶が背中に投げかけられ、輔は振り向くことなく返した。
「おやすみ」
この時は少女が何を考えているのか、まだ分かっていなかった。
──それが原因で、このあとすぐ、輔は面倒なことに首を突っ込む羽目になる。
◆
その日の夜中。喉が渇いて目が覚めた輔は、飲み物を取りに行こうと居間の前を通りかかり、そこで眉を顰めた。
──居間の襖が、僅かに開いていたからだ。
階段を上る音がアパートの共同廊下に響き渡る。
部屋番号を確認し、大きな音を立てないように気を払いながらドアノブを回す。
傍から見れば空き巣か何かと勘違いされそうだな、なんてことを考えながら、ドアを閉める前に、廊下の薄暗い明かりを利用して玄関の三和土を見下ろす。
そこには、小さな靴が二足、揃えられていた。
アパート自体、築年数が経っているからか、廊下を踏み出すごとに軋む音が聞こえた。
その音に、寝室にいた者も気付いたのだろう。
慌ただしい音ののちに寝室のドアが開けられ、その前に立っていた輔と鉢合わせする。
「……なにしてんの」
「──あ」
脇をすり抜けて逃げようとする少女の腕を掴んで、強引に引き寄せる。
少女の背を廊下の壁に押しつけるようにして、逃げ場をなくす。
「……っ! ごめんなさ──」
「殴らねえよ。だからその手、下ろせ」
寝室の窓から差し込む光だけでほとんど真っ暗な中、怯え切った目が輔を見ている。
輔に気を許していないのか、或いは親に対してもそうだったのか。
何もかもが不可解だった。輔のことが嫌なら嫌で、文句を言うわけでもなく、警察に駆け込むでもなく。ただこの空き家に戻ってくる。それに何の意味があるというのか。
それが分からないほど幼いわけじゃあるまいに。
「俺が何を言いたいのか、分かるか?」
「……えっと、その」
叱られる子供のように萎縮し、ぼそぼそと小さな声で取り繕おうとする少女。
「なんでここに戻ってくる? 荷物も持たずに。どうせ手持ちの金も、もうないんだろ?」
輔は微かに眉根を寄せると、できる限り静かに、感情を落ち着けた声で聞く。
「…………」
「あれだけしてやって、足りないものは何だ? 何が気に入らない?」
ご飯は与えた。気に入るものがあるかは別として着替えも用意して、風呂も貸し与えた。
つい数日前に知り合った仲としては、これ以上ない扱いだろう。
少女の方も、待遇に不満があるといった様子ではなかった。
だから何かあるとすれば、それは。
「お……お母さんが、帰ってくるかもしれないから……っ」
少女がぎゅっと手を握り、震えた声で言う。
「で? 数日待ち続けて、帰ってきたのか」
「……約束、してて」
「それはこないだも聞いた。口約束なんかに縋り付いて、それで何が変わる?」
「…………」
「どんな事情があるか俺は知らないし、知りたくもないが、今お前が置かれている状況だけは、誰の目から見たって明らかだ。異常なんだよ」
輔がそう言った瞬間、少女は堰を切ったように、興奮気味に大きく息を吸った。
「……っ。そんなの、あなたには関係ないじゃないですか……っ! だから、放っておいて!」
はっきりと拒絶するように首を横に振り、少女は苦しげに叫ぶ。
「放っておいて? それでどうなる。お前の親が帰ってくるわけじゃない」
「なんにも知らないで、どうしてあなたに、そんなこと……っ」
「──お前のその眼が、態度が、気に食わないからだ。それ以外に理由なんてない」
少女の言葉の途中に割り込むように言い捨て、少女の目を見やる。
含蓄のある言葉ではなかった。むしろ慮外で、言い訳に近い。
少なからず、酔っているからかもしれなかった。
今していることが何なのか、動機は何なのか。
輔自身、未だに明確な答えが出ていなかったからだ。
最初こそ、ただの善意で少女の力になろうとしていた。それは間違いない。
だが、彼女はそれを受け入れなかった。そこで放っておけばいいものを、輔は少女のことを見限れなかった。今、関わり続けているのも無償の行為だ。
かといって──こんなものが、人助けであるはずがない。あってたまるものか。
「眼が、って」
思いがけないといった様子で少女が呟く。
「……ま、そんな理由なんてどうでもいい。俺が言いたいのは、お前のその決断で変わるのは、お前の気の持ちようだけだってことだ。お前が見るべきなのは現実で、お前自身じゃない。誰かに言われないと分かりませんっていうなら──俺から教えてやろうか」
輔が半ば自棄になって言うと、少女は追い詰められたような表情を作った。
「もう、やめて。……それ以上、言わないで!」
「やめるわけないだろ」
耳を塞ごうとする少女の右腕を取り上げ、顔を近付けて耳元で続きを聞かせる。
少女は振りほどこうと暴れるが、所詮女子中学生の力だ。振りほどけるわけがない。
「お前のやってることはただの妄信で、自分への欺瞞だ」
「いや……っ!」
顔を伏せようとする少女の顎を手のひらで下から押し上げ、強引にこちらを向かせる。
「いい加減、目を背けることをやめろ。捨てられたんだよ、お前は!」
大粒の涙が溜まっている目を睨み付け、憂さ晴らしをするかの如く輔は声を荒らげた。
堪え切れずに嗚咽が漏れる。
しゃくり上げる声が輔の神経を逆撫でする。
「そもそも、なんで親が荷物纏めて消えた時点で、親戚の家なりに相談しなかった? 親が帰ってくるまでの間、泊めてくださいとでも何でも言えばよかっただろう」
「……それ、は」
少女が仰け反って一歩退く。
少女の後頭部が廊下の壁に押しつけられる。
「親戚の家が嫌なら、警察でも学校の教師でも、適当な大人に助けを求めればよかった」
「……っ」
「……にも拘らず、お前はそうしなかった。いや──」
少女の反応がないのを見て、輔は続けた。
「そうしなかったんじゃない。したくなかったんだ。そうだよな?」
「……あ、あなたに……何が分かるって言うんですか……っ」
「分からねえよ。矛盾を抱えてるやつのことなんか」
少女は一瞬、顔を上げ、意味が分からないというような表情を作る。
月明かりを反射して、涙を湛えた瞳が白く光る。
輔はその瞳のずっと奥を見据え、続けた。
「約束したからって、親の帰りを待ってる。そのくせ、本心では別の考えを持ってる。それでいて、その矛盾に気付いていない。……それも教えてやろうか?」
「……矛盾なんて」
「お前は、親と一緒に暮らしたいから親の帰りを待ってるわけじゃない」
「っ……そんなわけ」
「まだ分からないのか? それとも、分からないふりをし続けていれば親が帰ってくるとでも思ってるのか? そうじゃないよな。……そうあって欲しくないんだもんな?」
険しい表情のまま、皮肉げに輔は鼻を鳴らす。
どこか同族嫌悪のような感情に支配されているのを輔は自覚していた。
そのうえで、少女を抉る言葉を選び続ける。
「…………」
「お前がしてるのは振りだけだ。本当は、親に帰ってきて欲しくないんだろ?」
「そんな、こと……っ」
「本当に親に帰ってきて欲しいなら、お前は親が失踪した時点で、約束なんて気にせず速やかに警察に行って行方不明者届を出すべきだった。親が出て行ったのがいつかは知らないが、届を出すのが早ければ早いほど見つかる確率も上がる。お前はそれをしなかった。
答えなんて、分かり切ってるんだよ。
──お前は親とした約束とやらを守って、ただあの家で待つことで、親が帰ってきたときの言い訳と、親が帰ってこなくても自分のせいじゃないなんて体のいい大義名分を作り出してるだけだ。そんな行動に何の意味もないと、知っていながら」
そこで、少女が苦しそうに身を捩ったことで、輔は少女の顎を押し上げていた手をどけた。
知らず知らずのうちに、手に力が入っていたらしい。
げほげほと咳き込む少女を見下ろし、輔は目を眇める。
──しばらく、少女が息を整える音だけが廊下に響いていた。
やがて。少女は初めて自発的に顔を上げた。
涙の溜まった目が、微かに嚙み締められた唇が、答えを求めるように震える。
「……だったら、私はどうすればよかったんですか」
諦め、自嘲、気後れ、苦慮、悄然、絶望。
蚊の鳴くような声で告げられたその言葉には、様々な感情が綯い交ぜになっていた。
「どうすればよかった、か」
輔は眉間に皴を寄せながら少女の問いを繰り返す。
「……だって、そんなの……っ、辛いし、寂しいし……っ。胸に穴が空いたみたいなのが、どうしても治らなくて。お金だって使い切って、どうしようもなくなって……っ」
涙でくしゃくしゃになりながら、少女が心に積もった澱を直叙する。
「でも……警察の人にばれたら、例えお母さんが見つかっても、あとでどんな風に怒られるか……それが、分かってて……っ。だったら、私は、どうやって……っ!」
悲痛な叫びは、ようやく晒された少女の本心だった。
心に入った罅を庇うように胸に手を当て、少女は髪を振り乱す。
きっと、親に捨てられたと気付いた時、計り知れない不安や喪失感を味わったのだろう。
生活を続けるための金もなく、頼れる大人もいない。それどころか、誰かに気付かれて警察を呼ばれてしまえば、帰ってきた親に更に酷い目に遭わされる。
少女がおそらく食事よりも風呂を優先していたのも、周囲にばれないようにだろう。
異変に気付かれてはいけない。親の帰りを待つ以外に、安心して過ごすこともできない。
どこにも行き場がなく手詰まりの状態で、今日まで過ごしてきたのだ。
「確かに、自分の子ども放り出してどっかに行く親だ。……警察に行って、もし親が見つかりでもしたら、それこそどうなるか分からないよな」
少女の言わんとする言葉を代弁し、輔は眉間に手を当てた。
「それなら──」
少女ははっと、何やら言おうとしていた言葉ごと息を呑み込んだ。
輔が腰をかがめ、少女と同じ高さに目線を合わせたからだ。
視線が交錯する。驚いたように目を見開く少女の顔を見ながら、輔は言った。
「なら、俺を利用すればいい」
「…………」
輔が意味ありげに告げた言葉に、少女が声を呑む。
「──一人でいるのが辛いなら、一緒にいてやる。他に住むところがないなら住まわせてやる。警察にばれたくないなら、匿ってやる。そうすればいいのか」
「そうすればって……なんで、あなたが」
「お前の眼が気に入らないのと同じだ。理由なんてない」
「そんなの、だって……、そんなことしたって……あなたに利点なんて、どこにも」
「俺のことはどうでもいい。理由を求めるな。お前がどうしたいかで決めろ」
「私がどうしたいか、なんて……。そんなの……私に、都合のいいだけで」
「好都合ならそれでいいだろ」
言葉の綾を取り上げ、輔は少女に手を差し伸べる。
少女は一瞬その手を取りかけ、かと思うと肩を揺らして躊躇った。
「っ……なん、で」
「なんだ」
「……どうして、優しくなんかするんですか……っ。誰にも期待なんて、してなかったのに。したくなかったのに……っ、あなたは……なんでもそうやって、強引に決めて……。私なんて放っておけば……それで、いいのに……っ」
途切れ途切れに、どこまでも不安定に、少女が思いの限りを吐露する。
輔は、それ以上は何も答えなかった。
少女が欲しているのは言葉じゃない。それだけは、火を見るよりも明らかだったからだ。
どれだけ言葉を尽くそうとも、少女の信用には足れない。
代わりに輔は少女の目の下に指を伸ばすと、溢れてくる涙を拭った。
それから、そのまま手を少女の頭の上に乗せ、労わる様にそっと撫でた。
「────」
泣き止ませようとやった行動だった。
だが、逆効果だったらしい。
「──ぁ」
少女は喉奥から細い声を漏らしたかと思うと、唐突に決壊した。
力が抜けてその場に頽れ廊下に膝をつく少女の身体を、輔が右腕を伸ばして抱きとめると、少女は輔の胸に顔をうずめてまた泣き始めた。
一度整えたはずの息も荒く、何度も繰り返ししゃくりあげて。
やがて、泣き声が枯れて。涙が乾いてからも。
長らく、そうしていた気がした。
一頻り泣き終えた後、少女は輔の胸に身体を預けたままぐったりと項垂れていた。
下を向いているため顔は窺えない。
「眠いのか?」
「…………」
輔が声を掛けると、少女は僅かに身じろぎしたが、泣き腫らした跡を見られたくないのか、それとも顔を上げる気力も残ってないのか、こちらを向くことはなかった。
「……帰るぞ」
呟き、輔は少女の腰に腕を回して担ぎ上げる。
相変わらず軽い身体だ、と思う。
少女は返事こそしなかったものの、何の抵抗もせずそれを受け入れた。
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