第2話 発熱
遮光カーテンの隙間から入ってくる陽射しを避けようと寝返りを打つ。
枕元でうるさく電子音を鳴らすスマホを手探ると、画面に触れアラームを切った。
昨晩、度の強い酒を飲んだせいか頭痛が酷く、何の用事があってアラームをかけたのかすら思い出せなかった。どうせ、大した用事でもないのだろうが。
一度うつ伏せの体勢になってから起き上がり、冷蔵庫まで直行すると、二リットルペットボトルのお茶を取り出しがぶ飲みする。中身が半分近く減ったところでキャップを閉め横倒しにして冷蔵庫に戻し、徐々に澄んでいく頭で考える。
あの少女を拾った日から、既に三日が経過していた。
もし仮に彼女の言い分を鵜呑みにするのであれば、既に母親は帰ってきているのだろうし、わざわざ気に掛ける必要もないだろう。
ただ、あの部屋の惨状を見た後だと、そう楽観的に構えてもいられなかった。
親戚の子でも何でもない、ただ飯を食わせてやっただけの関係性だとしても、寝覚めが悪い気分にさせられるのは御免被りたかった。
(……関わるんじゃなかった)
どうして名前も知らない少女のことがここまで気に掛かるのか。
相手が子供だからか。それとも、少女の行動があまりに不可解だからか。
いくつか考えを浮かべてみても、明確にこれだという答えは出ないが。
なんにせよ、胸にくすぶる靄は払っておけるのなら、それに越したことはない。
そう結論付けた。
寝床まで戻ってスマホを開き時刻を確認する。西日が入ってきていたことから薄々分かってはいたことだが、夕方の四時だった。さすがに腹も減っている。
「取り敢えず、買い物行くか……」
上下ジャージのまま、財布と煙草を上着のポケットにしまって家を出た。
最寄りのスーパーで惣菜を多めに買い込み、灰皿の側で一服してから帰途につく。アパートまで戻って来て、ついでに少女の様子を見に行こうと階段を上がっていると、
「あ……」
つい最近聞いたばかりの、か細い声が頭上から聞こえてきて、輔は顔を上げる。
そこに突っ立っていたのは、手すりに縋るようにして階段を上っている件の少女だった。体調が優れないのか、傍目からでも明らかに顔色が悪いように見える。
今日までどうやって過ごしていたのかは知らないが、前回見たときよりも頬がやつれていた。
じっとこちらを見据える目は、どこか遠くを見ているようにも思えた。
「お前、──」
と、輔が声をかけたことで少女は、はっと我に返ったようだった。逃げるように階段を駆け上がろうとして──ぐらりと身体をふらつかせ、次の階段を踏み外す。
「ばっ……」
通学鞄が少女の肩からずり落ちて、ばたばたと音を立てて階段を転がっていく。
咄嗟に片腕を伸ばして、力の抜け切った身体を抱き止めた。
少女の体重が酷く軽いことを再認識すると同時に、項垂れたまま動かずにいる少女の様子に疑義が生じる。
──まさか。
嫌な予感がして少女の額に手を当てると、まるで発熱したカイロのように熱かった。
「嘘だろ、おい……」
思わず頭を抱えたくなる状況に、輔は呆然と呟いた。
◆
輔は書斎代わりに使っている、本棚の並ぶ、寝室用の小さな一室。
部屋の端に設けた椅子の上で輔は本を開いていた。
と。不意に聞こえてきたノックの音で頭を上げ、窓の外が暗くなっていることに気が付く。
書斎には時計がなかった。ついでに言えば灰皿もなく、口元が寂しくなっていた。
輔は栞を挟むこともなく手にしていた本を閉じると、ドアの方へと身体ごと向き直る。ドアがギィと軋む音を立て、暗い廊下から少女が姿を現す。
少女は肩を窄めて、書斎に足を踏み入れることを躊躇っているように見えた。
気が置けるというよりは萎縮した様子だ。大方、前回突き放すようにして別れた手前、また意図しない形で世話になってしまったことが不本意だったということだろう。
どこまでも子供らしくない反応だった。
ややあって、少女が口を開く。
「……その」
「なに」
「もう、治りましたから……ご迷惑ばかりかけてごめんなさい。……お邪魔しました」
両手に通学鞄を抱え、少女が一息に言って深々と頭を下げてくる。
「…………」
輔は無言のまま椅子から立ち上がると、少女の元へと歩いていく。
気圧されるように少女が一歩後退り、鞄を取り落とす。
「な、なに……っ⁉」
少女がビクッと身体を震わせるのを無視してその額に手を当てると、まだ熱かった。
この状態で家に帰っても、どうせまた同じように倒れるだけだろう。
「嘘つき」
「……えっと、その……っ、ひゃっ⁉」
輔は少女の脇の下と膝の裏に手を入れると、お姫様抱っこの要領で抱え上げた。
暴れこそしないものの、顔を耳まで真っ赤に染めながら口をぱくぱくさせる少女を持って、布団を敷いてある居間まで運び、きれいに畳まれた掛け布団の上に下ろす。
少女はしばしの間、目を白黒させていたが、ふと我に返ったように上体を起こした。
熱があるためかその勢いで若干頭をふらつかせながら、早口に告げてくる。
「あのっ……。じ、自分の部屋でも寝られますから……っ!」
「いいから大人しく寝てろ。──お前が寝てる間に、大家のとこまで行って話を聞いた。あの家、引き払われた後なんだってな。もうお前が帰っていい家じゃない」
輔が言うと、少女は意表を突かれたように唖然とし、何か言おうと開いていた口を閉じた。
「っ……」
「お前が空き家に住み着こうがどうしようが、文句を垂れるつもりはないけど。鍵もない家で、お前一人で、これからどうするつもり?」
大家に話を聞きに行った、という部分は丸々輔の出まかせだった。要するにかまをかけたわけだが、少女の反応からするに、やはりというべきか予想は当たっていたようだった。
電気や水道が止まっていたのも、大家が止めたのだろう。退去のときくらい部屋の中をちゃんと確認しろと思うが、高齢の爺さんだというのもあって、その辺りは甘いらしかった。
もしくは業者委託にしていて、業者をまだ呼んでいないという線もあったが。
そんなことはどうでもいい。
少女からの反応がないのを見て、輔は続ける。
「あとで必要な荷物とか、こっちに持ってくるから。通報されるよりマシなんだろ?」
「…………」
なお黙り込んで唇を噛む少女から視線を外し、輔は居間の床に頬杖をついて寝転がる。
このままでは埒が明かないと判断した輔は、思案を巡らせる。
「……じゃあ、別のこと聞くけど。お前、好きなものとかあんの?」
「……? な、なんですか」
明らかに警戒した声が返ってくる。輔は視線を少女の方へと向け直した。
「だから寝てろって。寒いなら布団も被っとけ」
未だ上体を起こしたままで肩を僅かに震わせている少女に、輔は促すように告げる。
「……はい」
有無を言わさぬ輔の言い方に、少女は怯懦に頷いた。
掛け布団の上から一旦退き、側臥位の体勢になって布団を被り直す。
「じゃあ、食欲はないのか」
「それは……」
少女が一瞬言い淀んだのを見て、輔は溜め息を吐きながら立ち上がる。
どうせ待っていたって何も答えやしないのだ。なら、反応から察する他になかった。
「……待ってろ。というか、寝てろ」
少女の側まで歩いていき、水色の掛け布団を引っ掴んで頭まで被らせる。
それから、少女の頭の側に空調のリモコンを置き、
「寒かったら切っていいから」
「…………」
少女が掛け布団から顔を半分出し、首を曲げてリモコンの方に視線を向ける。
その様子を流し見ながら、輔は大股で居間を後にした。
しばらくして。輔は手に温めたお粥を持って居間に戻ってきた。
近所のスーパーで買ってきた、湯煎で作るパックのお粥。水っぽくて味気はないだろうが、普段大して自炊をしない輔がお粥を炊こうとしても、焦がしてしまうのが落ちだろう。
それならば、市販の一番安いお粥の方がまだましだった。
「ちょっとでもいいから食え。んで、早く治せ」
背を向けた少女の寝姿に声を掛け、反応を待つ。
しかし少女は輔の言葉に返事をすることなく、こちらを見ようともしない。
代わりに、寝苦しそうな息が聞こえる。
「……寝たか」
呟き、お粥の入った器を布団の横に置いて少女の正面に回り込み、その場に座り込む。
長い前髪をどかして見れば、先ほど見たときよりも顔が赤かった。
熱が上がってきているのだろう。
あれから三日間、ほとんど何も口にせずにあの部屋で生活していたとすると、免疫力も相当落ちているはずだった。この熱もいつ下がるか分からない。
病院に連れていけば何か分かるかもしれないが、今度は少女の意思が分からない。
担いで無理に連れていけないこともないが、保険証もどこにあるか分からないし、何よりそこまでしてやる義理も輔にはなかった。幸い咳や鼻水は出ていないようであるし、ただの疲労の蓄積や精神的な衰弱からきた熱だろうと結論付ける。
ふと、少女の頭に手を置き、さらりとした髪を撫でる。
近所の銭湯にでも通っていたのか、水道の止まった部屋にいた割には汚れていない。
食事も満足にとっていないのだろうに、随分と余裕のあることだ。
まあ、少女が自分の金をどんな風に使おうが、輔には関係ないことだが。
「……ま、それで倒れてんなら世話ないが」
「──お母さん?」
と。少女がぼんやりと薄目を開け、寝言のように呟いた。
高熱に茹だる頭で意識が朦朧としているのか、輔を母親と勘違いしているようだった。
「……なわけあるか」
ぐしゃぐしゃと少女の髪を搔き回して、体温計はどこにあったかと思い出しながら、輔が膝を立てる。
「……。どこか、行くんですか……?」
「…………」
それは母親に向けられた言葉だったのか、輔に向けられた言葉だったのか。
おそらくは前者なのであろう。
細く引き絞られた目の端には僅かに涙が溜まっていた。
──そんな目をするくらいなら、なぜ、行って欲しくないと言わないのか。
「体温計を探すだけだ。病人置いて行くかよ」
「…………」
言葉が通じているのかいないのか、少女は何か言いたそうな顔をしていた。
それは叱られることを恐れる子供というよりは、迷惑を掛けたことを謝らないといけないと考えているような、輔を通して母親を見ているとは到底思えない表情だった。
そういう風に育てられたのだろう。
熱が出たときも両親の手を煩わせないように、手のかからない娘を演じる。それが不自然なことだと気付きすらしないままに、今まで暮らしてきたのだ。
挙句の果てに親には捨てられ、それでも約束とやらを信じて帰りを待ち続けている。
馬鹿げている。
巡らせていた思考をばっさりと打ち切り、輔は指先で髪を梳くように少女の頭を撫でた。
何か意図があったわけじゃない。
それでも、少女はやがてふっと気が抜けたように瞼を閉じ、すぅ……と寝息を立て始めた。
気力で何とか意識を繋いでいただけで、体力はとうに限界だったのだろう。
少女の頬を指先でつつき、完全に眠りに入ったのを確認して、輔は今度こそ立ち上がった。
やらなければならないことが幾つかあった。
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