親に捨てられて帰る家もない少女を拾った話

往雪

第1話 拒絶



 午後七時が回り、暗くなってきた居間に明かりが灯る。

 空調の効いた部屋にちる煙草の匂い。


「──ま、どうでもいいけど」


 座卓をへだてた向かい側。縮こまるように正座し、俯いたまま一言も発しない少女を見据えて、壮年の男──紀川きがわたすくは、胸の内に憤懣ふんまんが募っていくのを感じた。


 降って湧いた面倒事に、輔は額に手を当てると短く溜め息を吐いた。

 同時に口の端から煙が漏れる。灰皿に煙草の先を押し付けて潰し、ややあって少女の方へ向き直る。


「取り敢えず、食べれば」


 座卓上に並ぶ夕飯を適当に見繕って皿に取り分けながら、少女にも食べるよう促す。

 健康志向のあまりない輔が選ぶのは、唐揚げや餃子、白身魚の刺身等彩りの少ないものばかりだ。卓上には輔が取ったものの他にも、惣菜類やサラダ、フルーツゼリーなど、二人で食べるにしても多過ぎるくらいの量の食材が手付かずのまま残されていた。


 発端は二十分ほど前に遡る。


 本日三度目の、冷蔵庫の中身の確認をした輔は、流石に空腹に耐えきれなくなり、財布を片手に近所のスーパーへと向かおうとした。


 黒いシャツにジーンズといったラフな格好の上に外套を羽織り、玄関に脱ぎ散らかされた靴の中から一番マシなものを選んで、玄関ドアを開けたとき、既に事件は起きていた。


 玄関先にセーラー服を着た、見た目十三歳前後の少女が倒れていたのだ。


 普通に息はしていたし、目立つ外傷こそなかったが、その痩せ細った貧相な体つきを見て、何も想像し得なかったわけではなかった。


 それに、このままだと近隣住民──主に同じアパートに住む者からあらぬ誤解を受けかねないと危惧した輔は、ひとまず少女を玄関内へと運び込んだ。

 少女の体はあまりにも軽く、大して腕力に自身のない輔でも簡単に運べた。


 取り敢えず警察に連絡して、いや、それよりも先に救急か──などと輔が考えていると、少女が意識を取り戻した。

 少女は怯えたような悲しそうなよく分からない表情を浮かべて、第一声に「……警察には、連絡しないでください」と、譫言のように呟いた。


 元より面倒事に巻き込まれたくなかったことと、彼女の意志を優先する形で、輔は携帯を腰ポケットに落とし込んだ。

 とはいえ、このまま放っておくのも後味が悪く、彼女に「あまりうろうろするなよ」と念を押し、一人スーパーに向かって食料を買い込んだ。


 輔が家に帰ってくると、少女はその場からほぼ動いていなかった。


 狭い玄関で話をするのも何なので家の奥に行くように言うと、少女は有無を言わずに従った。居間まで案内すると座布団の上に座らせ、買ってきた夕食を卓上に並べて、


「好きに食べていい。食べ終わったら、全部話せ」


 少女の対面に膝を立てて座り、そう促した。


 しかし、少女が割り箸やスプーンに手を伸ばすことはなかった。

 質問を幾つ並べ立てても、答える意思はないようだった。


 親は、家族は? 満足に飯を食っていないのか。学校は、どこの生徒だ。そのどれもに少女はこれといった反応を示すことなく、ただ震えて萎縮するだけだった。










 ──そうして、冒頭に至る。


「…………その」


 少女は一瞬だけ視線を輔の方に向けたものの、蚊の鳴くような声を発すると、すぐに躊躇うように視線を彷徨わせる。

 それから、再び遠慮がちに俯いて黙り込んだ。


 恐らく腹は減っているのだろう。状況の前後を鑑みてもそれは明らかだった。

 だが、実際に彼女が示すのは慎ましげな態度と峻拒の意だ。


 それはおそらく、遠慮よりも罪悪感に近い。

 いずれにせよ、およそ子供がする反応ではなかった。


 輔はさっと食事を済ませ、空の食器を机の端に寄せる。


「別にいいけど。食べないなら後は捨てるから」


 それだけ言い残して輔が立ち上がると、少女は目を見開いて焦ったように顔を上げる。


「……えっと」


「何その顔。別にお前の金じゃないし、気にするなよ」


 少女はなぜか泣きそうな表情で逡巡するが、数秒の後、遠慮がちに手を合わせた。

「い……いただき、ます」


「……さっさと食べて、好きなときに出て行けばいい」


 問題を先延ばしにすることを決めた輔は、少女に背を向け、居間の端に寝転がる。


 幸い、何故かは知らないが、少女の方も警察にお世話になりたくないと思っているらしい。放っておいたところで、交番に駆け込まれることは恐らくないと考えていいだろう。


 他に考えておくことがあるとすれば、児童相談所に連絡を入れるかだが──そうすると、説明を求められてそれこそ自分の首を絞める可能性が高いし、何より面倒だ。


 別に、この少女と前々から面識があったわけじゃない。

 一日、晩飯を与えたくらいでそこまでしてやる義理はないだろう。


 しばらく考え事に耽っていると、背後で食器がかちゃりと音を立てた。

 控えめな視線を感じて首だけを振り返ると、いつの間にか、寝転がる輔のすぐ傍に少女が立っていた。


「……あの」

「なに」


 そこで、初めてちゃんと顔を見たような気がした。

 長い前髪と俯きがちな姿勢に隠されていた双眸はまだあどけない。

 頬の肉付きはやや足りていないように思えるが、概ね可愛らしいと言って差し支えない顔立ちだった。


 それなのに、その諦念を孕んだ目だけが、やけに癇に障る。


「ご、ごちそうさまでした」

「…………」


 少女はぺこりと頭を下げて、その場に立ち尽くす。


 見たところ、輔からの反応を待っているというよりは、話しかけてはみたものの、その後のことを考えていなかったといった様子だった。

 なら無言で帰ればいいものを。


 じっと輔の背中を見つめてくる少女の目は、瞬きを忘れたように固まっていた。


「なあ」

「……はい」


「お前の家、どこだ?」


 輔としては、できる限り落ち着いたトーンで聞いたつもりだったが、それが逆に声音を低くしたらしかった。ガラス細工のように透いた少女の瞳に、はっきりと怯えの色が滲んでいくのを見て、輔は頭を掻き毟り舌を打った。


「……っ」

 少女はさっきまでよりも更に俯き、息を詰まらせる。

 それがまた、腹に据えかねた。


 上体を起こした輔は、辟易を隠そうともせずに目を細める。

「この部屋の前に倒れてたんだ。ちょっと調べればすぐに分かる」


 輔は三階建てのアパートの二階、階段を上って正面の部屋に住んでいる。

 その部屋の前に、それも制服姿のまま倒れていたことから考えると、少女が同じアパートに住んでいる可能性は非常に高い。

 あとは輔の住んでいる階か、その上かだけだ。


 同じことを少女も考えたのだろう。やがて、観念して口を開いた。


「……ここの、三階……です」

「何号室だ?」


「…………」

「三階って時点でほとんど言ってるんだ。今更黙ったって仕方ないだろ」


 再び目を逸らして黙り込む少女に焦れ、追い打ちをかけるように吐き捨てる。

 その食い気味に発された言葉を輔の憤懣の限界と受け取ったのか、少女は肩を揺らし、ぽつりと溢した。


「……三〇四号室です」


「突き当たりの部屋か」


 一拍の間をおいて、輔は寝返りを打つ要領で立ち上がった。


「用事ができた。そこで待ってろ」

 玄関へと向かう際、すれ違いざまに少女に告げる。


「ど……どこに行くんですか?」

「…………」


 背後から投げかけられる声を無視して、居間を後にした。

 その後すぐ、少女も輔の意図を察したのだろう。追いかけてくる足音が聞こえたことで輔は少し足を速めた。


 紐の解けた紐靴をさっと履いて、薄暗い共用廊下に出る。

 外はすっかり暗くなっていた。消えかけの電灯がちかちかと頭上で光っている。


「待っ、て……やめてくださ……っ」

 遅れてやってきた少女が玄関に散乱する輔の靴に蹴躓いてたたらを踏み、前のめりにこけた。それを横目に、輔は苛立ちに歯噛みし、階段を踏みしめていった。


 三階の突き当たりまで来ると、部屋番号が一致しているかだけを確認して力任せにドアノブを引いた。思いがけず、鍵は掛かっていなかったようで、ドアは簡単に開いた。


 急な運動の余韻とただならない違和感に鼓動を逸らせながら玄関周りを見渡す。


 まず不審な点として、靴が無かった。玄関脇に備え付けられている靴箱を開けてみても、革靴やサンダル一足見当たらない。隅の傘立てには、傘の一本すら差さっていない。


 空き家だと言われれば、その通りだと納得しかねないほどに何もなかった。


 違和感の正体はそれだけじゃなかった。人の気配が全く感じられないほか、真っ暗な廊下の奥からは、微かに水が腐ったような臭いが漂ってきている。


 電気を勝手につけようとスイッチを切り替えるが、電気がつく気配はない。

「……誰もいないのか」


「二人とも、お仕事……でっ」


 怯えにも似た警戒心と、明確な拒絶を感じさせる息切れ混じりの声に輔が振り返ると、薄い胸元を両手で押さえながら、非難するような視線を向けてくる少女がそこにいた。


「いつから」


「い、いつから……って」


「いつから仕事で、いつ帰ってくるんだって聞いてるんだ」

「それ、は……」


 少女は輔から僅かに視線を逸らして言い淀む。


「答えたくないなら別にいい。勝手に調べるまでだ」


 輔は踵を踏み潰していた靴を脱ぎ捨て、スマホで足元を照らしながら廊下へ足を踏み入れる。

今度も少女が止めてくるかと若干考えていたが、そうはならなかった。


 同じマンション内なだけあって、間取りは輔の住んでいる部屋とほとんど変わらない。部屋の位置が角部屋の右端か左端かが違うせいで、寝室などが逆に配置されているだけだ。


 廊下を真っ直ぐ進んだ先の襖を開け放ち、誰もいないことを再確認して居間へ入った。居間の様相を一通り見終えると、廊下を少し戻って左手のキッチンを一瞥。


 そこからもう少し廊下を戻り、途中、廊下に突っ立っていた少女を押し退けて、右手にある扉を乱暴に開ける。


「──なんだ、これ」


 次々と目の前に繰り広げられる惨状に、輔は絶句する。


 サニタリーを除けばこの寝室で最後の部屋だが、やはり誰も居ない。


 突き動かされるようにベッド脇のタンスを片っ端から開けている最中、少女が寝室に入ってきたが、入り口の辺りで立ち尽くしているだけで、輔の邪魔をしようとはしなかった。


 少女が警察には連絡するなと言った理由の全てが、この家にあった。


 とはいっても死体や血痕のような、別段見られて困るものがあったわけじゃない。

 むしろ、その逆だった。


「……ち」


 玄関先を一目見て感じた通りだ。この家には、生活感がまるでない。


 辛うじて使われていそうなのは居間の机、ベッドくらいのもので、他はほとんどアパート契約時のままだ。普通ならあるはずの少女の服も、タンスの中に畳まれた数枚の肌着や学校の体操着らしきものを除けば全くない。

 キッチンに備え付けられていた食器洗浄機にも、平皿が数枚とガラスコップが二つ、入っているだけだった。


 実際に触ってみたわけではないが、水道も止まっているのだろう。部屋中に充満している異臭はおそらく、排水口から上がってきたものだ。


 しばらく放心していたのか、気付けばすぐ後ろに少女が立っていた。


「お前、これは」


「──気が済んだら、帰ってください」


 輔の言葉に被せるようにして、少女が拒絶の意を唱える。


 深く俯いており、長い前髪が顔にかかっているためにその表情は窺えないが、それからすぐ、少女は失言に気付いたように、はっとなって口元を抑えた。


 ただ、発言を訂正するわけでもなく、そのまままた黙り込む。


「……それで、お前はどうなる?」


「お父さんは分からないけど、お母さんは明後日、帰ってくるって言ってたんです。だから、もう大丈夫です。……ご飯、ごちそうさまでした」


 噛み締めるように告げ、少女は深々と頭を下げる。その肩が、小刻みに震えていた。

 ──そこで、面倒さよりも苛立ちが勝った。


 輔はおもむろに、腰ポケットからスマホを引っ張り出した。

 それを見咎めた少女が、腕を引っ張ってくる。


「……その。な、なにしてるんですか」

「警察、呼ぶから」


 腕を掴む手を振り払うのも億劫になり、輔は少女を無視してスマホのロックを解く。一から警察に説明するのは手間だが、親が帰ってこない以上、いつかは誰かがすることだろう。


 この少女と関わり合いになってしまった事態はどう足掻いても消しようがないし、後々それが分かったりすれば、更なる面倒事に巻き込まれかねない。


 などと、言い訳じみた考えに落ち着こうとしていると、


「……やめてください」


 力なく発する声とは裏腹に、輔の腕を引っ張る手には強い力が込められていた。


 輔は腕を降ろし、少女の目の前までスマホを持っていって、電源を切る。

 それから、驚いたような表情で輔の顔を見上げる少女に、吐き捨てるように言った。


「どうあっても通報されたくないらしいけど。それで、どうするつもりだ?」

「どうするつもり、って……」


「水道は止まってる、空腹で倒れてたんなら金も無いよな。未成年だから金を稼ごうにもバイトすらできない。んでもって、親もお前をほったらかして帰ってこない。それでこの先、明後日までだって、どうやって生活していくつもりだって聞いてるんだよ」


「……っ」


 少女の息が詰まる音が聞こえる。


 どうにも進展のないやり取りに隔靴搔痒し、輔は煙草を吸おうと慣れた手つきで尻ポケットに手を伸ばした。しかしポケットは空で、部屋に置いてきてしまったことを思い出す。


 輔は何とも言えない気まずさを誤魔化すように溜め息を吐き、


「おかしいと思わないのか? 片方だけならまだしも両親とも──」


「……二人とも、ずっとお仕事で忙しいだけで。お金は、貰った分を私が使い過ぎちゃっただけで……。それに、お母さんは絶対に帰ってきます。……そう、約束したんです」


「……。なるほどな」


 掠れた語尾に、途切れ途切れの言葉。

 それが答えだったのだろうが、輔はそれ以上、言及することをやめた。


 親に夜逃げされた少女の助けになりたいくらいの良心はあっても、偏執に囚われている少女の考え方を変えてやるほどの義務感も徳義心も輔にはなかった。

 握り締められた小さな手も、取ってやることを拒否されるのなら仕方ない。


 無性に煙草の味が恋しくなり、興味をなくしたように踵を返して部屋を後にする。


「……ありがとうございました」


 背中越しに表された形だけの感謝の意の後に、返される言葉は何もなかった。

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