気性に貴賤は関係無し

 孤児になった、孤独になった。もう母親も父親もこの世にない。元より、親心を知らぬ放蕩娘ではあるが、いざ、親を亡くしてみると、身を焦がれるような哀しみが襲ってきた。

 女掏摸という凶状を持つ以上、幼い姉弟達と会うことは許されない。犯罪者の身内など、純粋無垢な幼童達には必要無い。

 カーラは心の中で、ミラ達の安寧と健康を何度も念誦しつつ、振り返りたくなる衝動を抑えて駆けた。だが、無意識で走っている間にも、長年、逃亡馴れした足は、自然と暗い方、影になる場所を選んでいた。


 (あたしは……いつになったらまともな暮らしが出来るのかな……)カーラは、今歩いている道の如く真っ暗な気持ちと共に、口の裡で呟いた。

 孤独や寂然とした雰囲気は怖ろしい。だが、役人の眼に付き易い大通りもまた心安まらない。一見矛盾する複雑な性格をした少女は、今宵も縄目から逃げている。


 悪い渡世の行いは改めます、これからは真面目に生きていきます! カーラは胸に誓っているが、世間はそう思わない。役人からは追跡され、衆目からは嘲弄され、親の死に目にある時も、捕手は影身に付き纏う。

 歩けど走れど道は暗い。今の足元もこれからの未来も、全てが暗夜行路である。回光返照しても報われないという寂寥感に苛まれ、哀切に包まれている内に、カーラは転んでしまった。


「痛っ……」

「カーラさん! 大丈夫っ? ほら、立てる?」


 カーラは力無く項垂れたまま、ハンスに手を取られ、引き摺られるように歩き出した。

 暫く歩いて、カーラは溜息をして面を上げた。すると、眼からこぼれる紅涙ではない光が、淡く眼に入ってきた。それは、ハンスの服の背中である。

 幽暗の路地の中で、彼の着ている白地の服が、仄明るい道標のようであった。


 小一時間ほど歩いた後、カーラは流石に疲れたのか、しゃがみ込んで動かなくなってしまった。

 彼女は、消え入りそうな声で、待って、とハンスを呼び止めた。黙々と先頭を歩いていた少年は、怪訝そうな顔で振り返る。


「ハンス……ちょっとだけ待って……」

「どうしたの?」

「疲れた……。凄く眠いし、頭も痛い……休みたいよ」


 何処か雨が凌げる場所を探そうと、ハンスが辺りを見廻すと、そこは冷寂とした墓地である。カーラはハンスに付いていっただけだが、彼は、帝都の周縁部へ出るように歩いたらしい。

 もう夜も更けてきた。朧げな弦月が夜空に浮かび、仄明るく地面を照らしている。振り仰ぐと、寂れた掘っ立て小屋が遠くに見えた。

 すっかり鬱屈とし、普段の勝気など忘れてしまったカーラは、もう瓦石に等しい存在だ。黙然とハンスに付いていき、小屋の中に入るや否、崩れるように横たわった。


 墓地の空気は寂寞とし、時折聞こえてくる夜鳥の声や、野良犬の遠吠え以外、後は伽藍のように静かである。窓から入り込んでくる月光が、小屋の中を蒼く照らしていた。

 二、三時間ほど眠り込んだ後、カーラは少し気分が良くなった。彼女が上半身だけ起こしてみると、ハンスは、入り口の側で眠らずに見張っていた。

 カーラは、ばつが悪そうな顔をして、


「ごめんね。後はあたしが見張ってるよ」

「いや、大丈夫。それよりも、さっきは僕も思わず貰い泣きしてたけど、その袋、剣だって云ってたよね?」

「そうだけど……でも、あたしの家に、こんな立派な剣なんてある筈ないよ」


 ハンスとカーラは、革に包まれた剣を見ながら、少し考え込んでいたが、兎に角、開けてみようと結論した。

 丁度、薄い月明かりが窓から差しているので、麻糸の結び目は容易に見える。それを解き終えると、カーラはふと、考えるような眸で、ハンスの顔を覗き込み、


「ねえ。君には言ってなかったけど、あたし、随分前に此処へ来た事があるんだよね。確か、四歳か五歳くらいの頃」

「十年前くらいに? 何か思い出したの?」

「うん。あの時も、こんな真夜中だった。隅の方に植えられてる梅の花がこぼれてて、吹雪みたいだったから覚えてる」


 カーラは革袋から手を離し、膝を抱えて語り出した。借りてきた猫のように無垢っぽい姿だけ見れば、到底、婀娜あだな泥棒猫とは思えない。

 

「ママが昔、あたしを連れて此処に来たことがあるの。そしたら、外に置かれた椅子で待っている人がいて、怖くなっちゃってママに抱きついた。そしたら、その男の人は、突然あたしの手を握って涙ぐんだ」


 しわぶき一つ聞こえぬ墓地には、ただ、水面のような夜気が漂っていた。土の下にいる死者だけでなく、野良犬さえも眠りに着く夜更けである。

 カーラの脇に座ったハンスには、今夜の彼女が、純情可憐な小娘に見えた。月魄のように麗しい横顔に、彼は、本来のカーラを見た気がした。

 カーラは莞爾として笑い、話の息を継ぎだした。


「それで、その人は暫くの間、怖がるあたしの手を取って泣いてたけど、その後でママに、胸が締め付けられるような顔で、何か言ってた。その人は、長旅に出るみたいに、名残惜しそうに何回も振り返って、花吹雪の闇の中に消えていったの」

「うんうん。そして?」

「何も無いよ。でも、影絵みたいに遠ざかっていくあの人が、妙に心に残っていて……」

「うーん……。あまり言いたくないけど、もしかすると、その人がカーラさんの、本当のお父さんだったのかも……」


 カーラは、この不躾極まりない発言に柳眉を逆立てて、膝を進めてハンスに寄った。どうもこの少女、今宵は特に難しく、ハンスに対して当たりが強い。

 虎の尾を踏んだ少年は、思いがけない迫力に、身体を強張らせてしまった。怒れる少女は、ハンスの斜め上から、彼に向かって細い指を伸ばし、


「それ、二度と言わないで。いくら君でも、ママを莫迦にしたら許さないから」

「ご、ごめんよ。そんなつもりは無かったけど、その剣を見たら、そんな気がして。取り敢えず開けてみようよ。何か由緒が書いてあるかもしれないし」


 カーラは唇を尖らせたまま、現実に戻って、膝の上に載せた剣の包みを静かに剥いだ。すると、小さな布がポトリと出て来た。

 固く結びにしてある布を、糸切歯で噛み切ると、手紙が中に入っていた。カーラは、怖ろしい運命の神籤でも見たかのように、恐る恐るそれを拾い上げた。

 何ぞ測らん、手紙は懐かしい母に宛てられたものである。教養に乏しい者には見られない、流麗な筆跡と繊細な語彙で綴られていた。


 ハンスはふと、手紙の裏に書いてある、差出人の名前を見た。すると彼は、物凄い驚愕に当てられて瞠目した。


「カ、カーラさんっ。裏、手紙の裏っ」

「うん? 何」


 と、カーラは何気なく手紙を裏返した。

 ヨーデル・ティーレ 敬具。

 と書いてある。


 ああ、何と不思議な因果であろう。誰にも予知出来なかった輪廻の現れだ。

 カーラは、幾度も手紙に穴が空くほどそれを見た。だが、何度見返しても、ヨーデルの名前に間違い無い。帝国隠密組頭で、あのミーナ様の父である。十年余りも、ジパングの山牢に監禁され、今は生死の消息さえ不明の人である。

 そのヨーデルが、カーラの母へ手紙を出した不審に打たれ、カーラは驚目を瞠ったまま、渺茫とした迷宮に心を迷わせた。ハンスもまた、琥珀色の瞳で真っ直ぐ手紙を見た。言うべき言葉も浮かばぬまま、瞬間、二人は息をするのも忘れていた。


「うーん……全く解らない。どうしてヨーデル様がこんな手紙を?」


 ハンスは、思案するのに疲れて溜息を付くと、カーラもそれに釣られて、息を漏らした。

 彼女が取り落とした手紙を拾い取って、ハンスが静謐な月光に照らして読んでみると、


 ージパングへの密航船を待つ間、これを最後にひとこと言い残したくなり、こうして手紙を書いております。帝都にいる間、そして帝都を発つ時に見た我が娘、カーラの稚い顔は今でもよく覚えております。

 しかし、この度の任務は一命を賭すものであります。正式のものではありませんが、これは遺言状と捉えて頂ければ幸いです……


 こう読みかけて、ハンスは全て合点がいったように、カーラの顔をじっくりと見た。カーラも、信じられないという表情で、二人は愕然としたまま顔を見合わせた。


「カーラさん! 今の聞いたかい? 君はヨーデル様の娘だよ!」

「で、でも、ミーナ様がいるじゃない」

「今やっと解ったよ。ミーナ様の髪色と瞳の色が、カーラさんと同じで、二人が何処か似てた理由が。君が紙を伸ばせば、きっと瓜二つになる筈だよ」


 紙背を通すような眼差しで、食い入る如く読む内に、全ての疑惑は晴れていた。ハンスの予想は当たっていた。


 十五年前、ヨーデルと彼の妻の間に子どもが産まれた。玉のように可愛らしい娘に、夫婦の喜びは一入ではなかった。しかし悪いことに、それは双子であった。

 帝国の御定法によれば、双子は相続の際、争いの火種になるということで、後に分娩された方を、生きながら火葬しなくてはならないのだ。しかし、ヨーデル夫妻は、余りにも子が不憫であった。

 そこで救いの手を差し伸べたのが、その頃は真面目に生きていたアーロンだ。彼はヨーデルと旧知の仲であり、友人の子を、見殺しには出来なかった。

 カーラと名付けられた妹は、アーロンに引き取られ、自分の出生を知らぬまま、貧乏長屋で成長した。


 これらのことが、ヨーデルの手紙の中で、彼の感謝と共に回顧されていた。手紙は、カーラの将来を託すという文言と、ティーレ家の押印で終わっていた。

 もう疑う余地もないが、残る剣の方を調べてみると、柄頭に琅玕が埋め込まれ、小鳥の羽のように広がる鍔に、象嵌の細工が為されていた。握りは女性物らしく細身であり、鞘にも複雑な彫刻があり、極めて華美というわけではないが、争えぬ品格がある。


 カーラが、震える手で鞘を払ってみると、刃の目積もりは四十センチくらい、片手で扱うのに丁度良い。

 刃紋は朧夜の雲に似て、刃に七星が刻印されている。月の蒼さ、星の光を吸った名剣は、燦然と珠玉のように輝いていた。

 ハンスは、鋭く美しい切っ先に眼を奪われて、問わず語りに呟いた。


「凄いや……こう見てると身体の芯まで凍えてきそうだよ」


 カーラは、深みのある錵の色に、暫く心を吸い込まれていた。しかし、刃に映る自分へ言って聞かせるように、


「ジパングに行けば……ジパングに行けば会える! あたしの本当の父親にっ」

「カーラさんっ」

「あたしは行かなきゃ! ジパングに行って、お父さんを助け出すんだっ」

「よし!」


 と、ハンスはカーラの独り言に、元気良く頷いた。彼もここに意を決したらしく、決然とこう言い切った。


「一緒に行こう! ジパングへ一緒にっ。もうこうなった以上、僕が止める謂れは無い」

「連れて行ってくれるの?」

「うん。夜明けを待って、ルカさんの後を追い掛けよう」

「有難う……。何だか目の前が急に明るくなってきた気がする……」


 無明長夜の闇から、一縷の光を見つけたように、カーラは右手の名剣を見つめていた。

 カーラとハンスが、一つの希望を見出した頃、彼らが隠れる墓地の入り口で、明らかに役人ではない連中が、辺りをしきりに見廻していた。

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