束の間に感ずる親心

 ハンスは、転がり込むように駆け付けて来た若者の言葉を聞き、慌ててカーラの方を見た。彼女は、床に顔を伏せたまま、声を殺して泣いていた。

 ハンスは手を刺された痛みも忘れ、彼女に、


「カーラさんっ。大変だよ、君のお父さんが」

「ぐす……ぐす……」

「カーラさん!」


 と、ハンスが叫ぶと、彼女は月下美人が花咲くように、ゆっくりと玉の顔を上げた。泣き腫らして紅潮した頬は、桜花のようになっていた。

 止め止めも無く流れる涙を拭いながら、カーラは肩を小刻みに震わせた。そして、恨めしそうな表情で、


「君……前にも言ったでしょ……。父は……あいつは……あたしを女衒に売ろうとしたんだよ……。それに……あいつが働かない所為で、ママは死んだのに」

「それは解ってるよ。でも、今は只の可哀想な死にかけの人だよ」

「だから何だって言うの……。あたしはルカさんに捨てられて死にそうなのに。君は自分の心配をしてよ」

「そうだけど、親なんだし……」


 ハンスが、頑固なカーラを説得している内にも、彼の手からは血が流れ出していた。顔は見ている間に青ざめて、片眼を瞑って耐えている。

 やがて、焼けた鉄を押し当てられるような痛みに耐えられず、手首を押さえて蹲った。カーラはそれを見て、罪悪感と憂いに満ちた顔をした。

 ハンスは息を喘々させながら、頼むよ、と何度も繰り返した。その命を賭した、涙を誘うばかりな言い方に、カーラも漸く心を動かされた。彼女は双眸を閉じて、大きく胸を上下させ、


「解った」


 と短く言った。


 ――長屋でアーロンを看ていた一同は、蝋燭の灯を絶やさず、薄暗く、重苦しい空気の中で一念に吉報を待っていた。

 お互いに焦慮の気持ちをぐっと堪え、床に寝かされた怪我人を見ているばかり。薄暗い部屋の中で、いつしかアーロンは、呻く力も失せたらしい。乏しい蝋燭の火が、彼の命のようにも見えてきた。皮膚の色、吸う息吐く息、譫言など、刻々と悪い方へと向かってゆく。

 居並ぶ連中の内、誰かが問わず語りに、


「ああ、間に合ってくれれば良いが……」

「会わせてやりたいものだ。私達は全く知らなかったが、カーラちゃんは、本当の娘じゃないそうだ。だが、親子にそんなことは関係無いからな」


 と、低い声で囁いていると、また痛みが走るのか、危篤の怪我人は、か細く呻いて身をよじらせた。見るも無惨なその姿に、一同が顔を伏せていると、扉を勢い良く開けて、遣いに走った者が入って来た。

 部屋の中にいた連中が、一斉に振り向くと、その男に連れられて、銀髪の少女と、見慣れぬ少年が入って来た。

 カーラは、ハンスの手当を素早く済ませ、高坂達がいるから不安だと云う彼と、一緒になって急行してきたのだ。


「あ、カーラ姉ちゃん……それにお兄さんも」


 不憫極まるミラとオットーが、布団の裾から飛び付くのを、ハンスが慌てて抱き押さえた。

 その声を聞き、茫と濁った眼で天井を見つめていた怪我人は、微かな気を起こしたらしい。あらぬ方へ鈍く顔を動かして、しきりに娘を捜していた。

 枕元にいた者が、彼の耳元へ口を寄せ、カーラさんが来ましたよ、と囁いた。その者が指差す方向へ、アーロンは鈍い眼をやった。


 少しして、薄暗い火光の影に、ゆっくりとカーラが映った。五年ぶりに見た顔だが、父が娘を忘れる筈がない。漸く会えた嬉しさに、瞼を痙攣させて滂沱の涙を流し、唇をぶるぶる震わせた。

 異様な感情の昂ぶりに、カーラは思わず父親の側に飛び付いた。不意に周りの者が中腰になって、怪我人の顔を見直した。瞬間ではあったが、アーロンの眼に生気が宿り、皮膚も色を取り戻した。


「お父さん! お父さんっ」

「ああ……カーラ、済まない、済まない……」

「お父さんっ」


 と、カーラが泣きすがると、碌でなしは碌でなしなりに、感傷を引き起こした。ホッと太い息を一つして、ゴクリと生唾を飲み込んで、


「済まなかった……済まなかった。俺は悪い親父だった」

「お父さん……あたしの方こそ、御免なさい……」


 アーロンは、ふと幼いミラ達を抱えるハンスを見た。墓場のような雰囲気だが、居づらそうな顔はしていない。

 アーロンは不審な表情で、


「カーラ……あの子は誰だ?」

「あたしの友達……ハンスって云うの。あたしを助けてくれた人。あの子に説得されたから、此処に来たんだよ」


 それを聞くや否、アーロンは涙を流し、ハンスを近くに差し招いた。彼が何気なく近寄ると、怪我人はしっかと彼の手を握り、


「こんな立派な昵懇の仲の人がいるなら、俺ももう安心だ……。どうか、どうか娘を守ってやってください……。こんな呑んだくれが言える筈もないが、お願いします……」

「は、はい。……約束します」


 アーロンは何か勘違いしたようだが、死にゆく者の請願を、無碍に出来る筈もなく、ハンスは強く頷いた。蚯蚓腫れになるほど強く握られた手首を見て、彼は勇を鼓して瞳を据えた。

 娘を託して安心した父親は、一言こう漏らした。


「カ、カーラッ。許してくれなんて、言わないっ。だが、これだけは。お、押し入れの奥に剣が……ある……」


 それだけであった。アーロンは、二度と物を言わなかった。自業自得とはいえ、余りに無惨な最後であった。

 水を打ったような無言の内に、皆の啜り泣きが聞こえてきた。カーラも背中を震わせて、声を出さずに泣いている。紅涙が堰を切ったように溢れ出し、亡父の顔を濡らしていた。

 ハンスも消沈した顔で項垂れていると、外から誰かが慌ただしく入って来た。その者は早口で、一座に向かってこう言った。


「大変だ! 今、一階の方で誰かが彷徨いていたから声を掛けたんだが、トミー曹長の野郎だったぞっ。俺が声を掛けたら、一目散に逃げて行きやがった」


 トミー曹長といえば、カーラを長年追い掛けている役人だ。うだつの上がらない三一だが、熱意だけは人一倍。恐らく今、応援を呼びに行ったのだろう。

 目前には、今息を引き取ったばかりの父の死骸、側には哀しみで呻吟する姉弟がいる。しかし今、カーラの身辺には、もう追手が迫っていた。

 流石にカーラも当惑し、自分の無慚無愧を呪ったが、身体がそこから動かない。ハンスは、カーラの肩に手を掛けて、


「カーラさん、早く、早くっ。逃げなきゃ。此処に留まっても、お父さんの前で捕まっちゃうよ」

「でも……」

「カーラちゃん、逃げて。後のことは私達に任せてっ。ミラちゃん達のことも任せなさい」


 長屋の年増や老人も、しきりにカーラを急き立てた。カーラ本人よりも、むしろ、ハンスや長屋の者達の方が度を失っているようである。

 追い立てるように支度をさせて、ハンスはふと、


「そうだ、カーラさん。お父さんが押し入れの中に何かあるって云ってたよ。忘れないようにしないと」

「え……? 押し入れ?」

「ああ、もう! 哀しいのは解るけど、しっかりしてよっ」


 と、ハンスは腑抜けには構わず、押し入れに滑り込んで、中をガタガタと探りだした。程なくして、彼は、細長い紙包みをと一緒に這い出てきた。

 埃だらけ虫食いだらけの渋紙を、丁寧に剥いでみると、更に革の袋が掛かっていた。丹念に包まれているが、その中身は、眼で見ただけで、女用の剣であることが解る。

 一端の方には、これまた古い紙が巻き付けてあった。ハンスはそれを見て、


「こんな上等そうな剣があるなんて……大事にしまってあったから、きっとこれがお父さんの云っていたものだよ。さ、これを持って逃げよう」

「ハンス君の言うとおりだ。兎に角、今は何処かに身を隠しなさい。トミー曹長はすぐに大人数と一緒に来るだろうさ。これからは真面目に生きて、世間の噂を消すんだよ」


 長屋の連中は、口を揃えて、遠い門出でも見送るように、涙に暮れるカーラを促して、背中を押さんばかり、否応無く外に出る……。

 すると! 見慣れぬ松明の群れと、鉄甲に身を固めた衛兵が、二十人ばかりで下にいた。曹長の方が一足早かったのだ。

 カーラとハンスが顔を見合わせていると、トミー曹長の、得意げな声が傲然と聞こえてきた。


「カーラ! カーラ・サイツ! もう逃げられはせんぞ。神妙にお縄に付けば、生きたまま連行するっ。そうでなければ、この場で斬り捨てだ!」


 先頭にいる中年の男は、腰に手を当てて、鼻高々である。彼が、侮られないために囃している顎髭が、今日は一段と頭にくる。

 ハンスは、どうしよう、と慌てた様子だが、長屋の顔役は、落ち着いた様子で、


「二人とも、私達に任せなさい。一つ良い案がある」


 と、言うなり、彼は一団を引き連れて、下に降りた。

 何をするのかと、ハンスとカーラが見ていると、


「おお、お役人様。こんな貧乏長屋に来て頂いて光栄です。最近は商売あがったりで」「お役人様、私の眼鏡を知りませんか?」「わあ格好良い。剣だ、触らせてよ」「おい、曹長! この税金泥棒っ」


 と、長屋の一同束になって、トミー始め、木っ端役人共を取り巻いて、全く関係無い相談だの、愚痴だの雑談だの……蝟集して騒ぎ出した。

 トミーや彼の部下達は眼を皿のようにして、


「どけっ。邪魔だ……って、誰が税金泥棒だ!」「お前の眼鏡は知らんっ。管轄外だっ」「餓鬼、剣を触るなっ。怪我したらどうする」「おい、誰だっ。今足を踏んだの!」


 と、最早収拾が付かない様を見て、ハンスはカーラの手を取って、


「今だ、逃げよう。早くっ」


 カーラは後ろ髪を引かれる思いで、一目、父の亡骸に振り向いたが、それで未練を断ち切った。

 彼女は、眼下の一同へ頭を下げて、心の内で何度も礼を言い、ハンスと共に、裏口から逃げ出した。浮世の下層に住まう人々の、美しい斟酌に万謝して、革包みのつるぎを小脇に抱え、夜の町を駆けていった。

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