刃を光らす悲哀の涙

 今際の時が近付くのを、アーロン自身も悟ったのだろう。気息奄々としながら、自分の悪行を懺悔する。臨終を間近に控え、忘れかけていた善心が蘇り、今更、家族を苦しめていた後悔が、頭の中を駆け廻った。

 ミラ達を殴らないでと言う娘、雀の涙ほどの稼ぎを泣きながら差し出す姉弟……無惨な走馬灯の数々が、はっきりと瞼の裏に浮かんでくる。アーロンは、唇を震わせて、悔悛の言葉を並べていた。


「悪かった……すまなかった……。ミラや、オットーは、俺と死んだ妻の子供です。……ですが、カーラは、カーラだけは違います……。そのカーラから、手紙まで貰ったのに、悪因悪果を悟らずに博打から足を洗わなかった報いです……」


 と、絞り出すように呟いて、斬り飛ばされなかった右腕を、力無く伸ばして手紙を指した。

 血潮で乾いた汚い手紙が、今やアーロンの命脈を繋ぐ糸となっていた。


「楽士組合本部に泊まってると書いてあるんです。どうか……どうか後生ですから、娘を連れて来て下さい。あいつに一言、言い残すことがあるんです……。そうでなければ、死んでも死にきれねえ……うう……」


 何か深い事情があるのだろう。それをカーラに言わない内は、地獄の牛頭馬頭と対峙するつもりは無いらしい。

 楽士組合本部と云えば、此処から走って三十分。誰か行ってこい、と顔役の一人が命じたが、カーラは名うての女掏摸、帝国のお尋ね者である。見つけ次第、捕えるか衛兵へ報告しろとの下知である。

 しかし、今にも命の灯火が、消えそうな者の善き声を、無情にも無視することは出来なかった。長屋の一同、互いに示し合わせて口止めし、若い者を走らせた。


 顔役はその後、部屋の中にいる一同を見廻して、


「良いか皆。このことを番所に告げ口したら、そんな不人情者は私が許さんぞ。おい、アーロン。今カーラちゃんを呼びに行かせたから、気を確り持つんだぞっ」

「うう……お願いします……」


 大役を任された若者は、大急ぎで靴を引っ掛けて、疾風のように夜の町を駆けていった。往来を通る人々は、何事かと思いながら、その切羽詰まった様子を見て、誰言う事無く道を開けた。

 

 ――ルカの上書が効を奏し、皇弟は秘密裏に、元老であり司法卿のクロケット伯爵の邸宅を訪れた。その結果、ルカ・ウェールズは伯爵から火急に召喚され、いよいよ吉報と勇んで駆け付けた。

 しかし、不思議な事に、彼はそのまま行方を眩ました。


 哀れなのは、身を削って密書を届けたり、部屋を引き払ったりして、痩せる思いで久遠とも思われる時を過ごしていたハンスとカーラであった。

 明日は何か沙汰があるだろうと思うこと五日間、不安で寂しい時ばかりが過ぎていく。だが、待てど暮らせど、ルカは全く帰って来ない。

 カーラは憂鬱になった。溜息ばかりつき、窓を眺めたり寝転がったりするばかり。ハンスもハンスで、上書が悪い方へ祟ったのではないかと懸念が絶えない。

 それで彼は今朝、焦燥に駆られて出掛けていった。凶事か吉事か、この際、伯爵邸の門を叩いて、詰問しようというのである。


「ハンス……どうしたんだろう? もう日が暮れちゃったよ」


 と、カーラは孤独に耐えかねたように呟いた。窓の外、空中では真っ赤な夕陽に向かって鴉が飛び、眼下では灯火が盛んであった。

 すると、後ろで扉の開く音がした。乾いた蝶番の音を聞き、カーラは思わず笑みをこぼし、顔をそちらに向けた。だが、ハンスの様子は、彼女が想像していたものとは違っていた。


 何処で支度を整えたのか、白地の旅装束を身に纏い、二つの剣を腰に差し込んで、長旅にでも出るような格好だ。

 状況が飲み込めず、眼をしばたくカーラを見、ハンスは朝に比べ、一段と暗い影の差す顔で、部屋の中にも入らず、


「カーラさん……お別れだよ」

「え? ど、どういうこと? 何、なんでよ」

「伯爵に会ってきたんだ。ルカさんはもう五日前に出立して、僕もすぐに追い掛けるように言われたんだ。それで……無関係なカ-ラさんは置いていくようにって云われたんだ」


 カーラは余りの驚愕に、眼を皿のように見開いて、暫くは息も忘れていた。この不憫な少女は、ハンスがいつまでもしないので、一人で勝手に支度を整えて、家まで引き払ったのだ。

 しかし、彼女が恋い焦がれるルカは、密かに帝都を出奔し、ハンスはハンスで、突拍子もなく彼女を捨ててしまう。


「うそ、うそ、嘘だよね⁉ いや、あはは。じょ、冗談辞めてよっ」

「……伯爵は黙って出て行くように云ったけど、お世話になった君に、一言お礼が言いたかったんだ。カーラさん、ここは諦めて考え直して欲しいんだ」


 ハンスが言い終わらぬ内に、カーラは蛾眉を曇らせた。須臾にして顔が蒼白し、眼に紅涙が溜まっていく。

 (あたしは結局誰にも信用されないんだっ。だから捨てられるんだ)と、胸を動悸で上下させ、紅唇を戦慄かせた。勝気なだけに、じっと堪えてはいるが、込み上げてくる悲哀と共に、涙が一筋頬を伝う。


「ハンス……どういうこと? 詳しく、詳しく聞かせてよ。いや、解ってる。ルカさんは、あたしが邪魔なんでしょ? 」

「違うよ! ……いや、あの、ルカさんだってカーラさんが、黒屋敷からミーナ様を助け出したことに心からお礼を云ってたよ。でも、それとこれとは別なんだ。僕だって、さっき知ったんだ」

「え? じゃあルカさんは君にも黙って出て行ったの?」

「うん。皇弟殿下からルカさんへ直々に命令が下されたんだ。――ジパングの牢獄に監禁されているヨーデルを救出し、陰謀を暴く証拠を見つけて参れ――って云う命令だったらしい」


 公で表沙汰にするには、まだ証拠が足りないのだ。かといって、評議会に取り上げて議論しても、なにがし部署の裁可だの、なにがし卿の御認可だの……皇帝のお耳に入って、隠密派遣の勅命が下るまで、少なくとも半年は掛かるだろう。

 そんなことをしている内に、ジパングの方には気取られて、証拠は秘匿されてしまうに違いない。なので皇弟は、今回の探索を、ルカ一人に一任した。それでルカが、かの国の急所を突く重大な証を手繰り出せば、即座にお取潰しという運びである。

 ハンスは、ここまで一気に捲し立て、ひとまず息を整えた。今にも倒れ込んで泣き出しそうなカーラを見て、気遣いたくなってきた。しかし、ここで情けを起こしては、一度固めた決意が無駄になる。


「ジパングは島国で四方の海が四六時中、監視船で一杯だ。しかも奴らは帝国中、天領にも他の属国にも情報網を張ってる。だから先ずは、ルカさんが一人で密かに抜け出して、僕に後から追わせると決めたらしいんだ」

「……」

「伯爵は、カーラさんには伝えずに出立しろって云ったけど……云ったけど……。せめて、お別れだけは言いたくて」


 ハンスは言葉を詰まらせて、肩で大きな息をした。更に項垂れて、衷情の言葉を続けた。


「僕のお別れだけを受け取って欲しいんだ。カーラさんの気持ちは……痛いほど解るよ。でも、今の望みは諦めて欲しいんだ」


 この不思議な因果に見舞われた少年ほど、ジレンマに苦しむ者も無いだろう。だがそれ以上に、切ないのはカーラである。さっきから一言も発しないまま、翠眼に涙を滲ませて、泣くまい嘆くまいと拳を強く握っていた。

 恋の幻滅、更生の失望。これらの無念、察するに余りある。

 カーラの胸を割ってみれば、爛れた享楽も今は無く、帰る望みを持つ家庭はとうに無い。胸中にあるものは、微かに僅かに、心に抱く儚い思慕と、生まれ変わらんとする本善のさがだけである。


「……解ったよ。でも、でも、あたしの気持ちにもなってみてよ。どうしても、ルカさんが忘れられない。あの人がいるから、あたしは掏摸を辞める気になったのに」

「それは僕も充分解ってる。解った上で諦めてくれって言ってるんだ」

「そんなの、あたしに修道女になれって言うようなものだよ……。それに、このまま君やルカさんから離れたら、いつかまた掏摸を始めて、その内、きっと晒し首にでもなるか、路地裏で死んでるよ。あたしはそれが一番怖ろしい」


 カーラは、痛ましい程に声を震わせて、ハンスに縋るように強く願った。彼の前に崩れ落ち、顔は床に向いたまま、無言で、硝子のような紅涙を地面に落とし、


「お願い、一生のお願い。あたしを助けると思って、連れて行ってよ。お願い、お願い……!」

「そう言われても、ルカさんは僕だって置いていったんだ。本当に」

「……そうか、君も皆と同じように、あたしが嫌いなんだ。だから、足手纏いなあたしを此処で捨てて行くんだ!」


 そう言うや否、カーラは、懐から短剣を取り出した! 両手に持って、キラリと光る冷たい光を、あわや自分の喉笛に、グサッと突き立てようとした。

 ハンスはそれを見て、奪い取るのでは間に合わないと、本能的に悟ったので、意識より先に身体が動き、カーラに躍り掛かっていた。

 前から彼女を押し倒し、その喉笛に向かう切っ先を、自分の右手めてで素早く防ぐ。激痛が電撃のように走ったが、構わず左手ゆんでを横から払い、短剣を強く弾き飛ばした。


 ハンスは、安堵と同時に力が抜けて、血潮滴る右手を押さえ、カーラの上から身をずらし、苦悶の表情のまま、仰向けに倒れ込んだ。

 気の変転が早い自殺志願者は、自分以外の血液を、碌に見たことが無いらしい。弟のような彼が、血を流して倒れたのを見て、途端に動揺し始めた。ハンスの右手首を優しく握り、顔を真っ青にして、


「ど、どうしよう! ハンス、血が、血がっ」

「莫迦! 他人が君をどう思ってるからって、簡単に生きるとか死ぬとか決める奴があるか! 僕が知ってる君はそんな人じゃない!」


 と、ハンスは珍しく大声を出し、眼を怒らせてカーラを振り払った。憤激と痛みで、顔が朱泥のようになっているので、殊更、激烈な剣幕である。

 カーラは駭然とし、そのままそこへ泣き伏した。やや暫くの啜り泣き、ハンスは何も言わず、痛みに眉を顰めて座ったまま、それを見守っていた。

 

 そこへ、バタバタと一人の男が、入り口から勢い良く入って来た。

 右のてのひらから血を流す少年と、啜り泣く銀髪の少女を見、一瞬、状況を理解しかねたようではあるが、すぐにハンスの方へ顔を向け、


「少年。こちらにいるのはカーラ・サイツさん?」

「そ、そうですけど、あなたは?」


 ハンスは、蒼白い顔で冷や汗を流しつつ、何とか声と息を整えて応対した。男は、早口で、こう言った。


「俺は、カーラさんのお父さんが住む長屋から遣わされたんだ。カーラさんのお父さんが、夕方頃、侍と喧嘩して相手に一太刀で斬られた。今夜持ち越せるかも解らない危篤状態で……だから、すぐにカーラさんに来て欲しい」

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