一縷の涙と悔恨と
それから更に数日経った。呑み屋街の夕暮れは、酔いどれ共の怒鳴り声、博打の歓声、客引き共の叫び声と、兎にも角にも騒々しい。
肩がぶつかったと因縁を付け合って、殴り合いの喧嘩をしていた二人が数分後、今度は肩を組んで呑み合うなど、全国津々浦々から集められた豊富な酒が、全てを繋ぐ潤滑油となっていた。
この日、
茜は、肩口から腰まで斜めに斬られ、一時は昏倒していたが、今は歩けるほどに回復した。左腕を包帯して、白布で自分の首に吊下げている。小袖に隠れた身体にも、麻の布が巻かれていた。
闇夜の襲撃に失敗し、ヴェイスは、次の計画立案に邁進しているし、茜はずっと膝を抱えているしで、何となく不愉快な雰囲気だったので、宗十郎頭巾の侍は、気晴らしにきたものらしい。
都会の喧噪と人波に当てられて、茜は、如何にも不機嫌そうに項垂れて、貧血でも起こしたか、常にも増して面が白い。
『何処か適当な店にでも入ろう。金はヴェイスのツケだ。遠慮しなくても良いぞ』
『は……。はい……』
今宵は特に、連休の前とあって、四方八方に人が蝟集していた。何処の店でも、暖簾の外まで客がいる。
陣内は無数の飲食店の内、良さげな場所に目星を付けて、傍らにいる茜に呼び掛けた――が、何故かそこに彼女はいなかった。逸れたのかと思い、大声で彼女の名前を呼ぶが、喚声に掻き消されるか、通りの酔っ払いから罵倒されるだけ。
短気な侍は舌打ちして、今来た道を戻り始めた。茜は、帝国人の平均より、頭一つ分くらい低い。陣内が、広くて高い場所から彼女を捜そうと、梯子か階段を探り始めた時である。
『んー、ん! やめ、やめてください!』
と、遠くからではあるが、耳の聡い陣内は、聞き慣れた声をはっきり聞いた。(まさか)と思い、声のした方へ、人混みを掻き分け、時には邪魔者を突き飛ばし、黒い悍馬のように駆けだした。
風を切って、怒濤の如く、真っ黒な装いの侍は、路地から路地へ、同輩の姿を捜し求めた。
程なくして、見つけた。
茜は、酒呑童子のように顔を赤くして、酒臭い息を吐く四十代くらいの中年に、無惨にも組み敷かれていた。
片腕が利かないし、熱に魘されていた数日間、殆ど何も摂っていなかったので、碌に抵抗する力も無い。口に手で蓋をされ窒息し、捻じ倒された華奢な体躯は、土と塵にまみれている。
叫べども、暴れども、通りを歩く連中は、面倒を厭って見向きもしない。衛兵達も、ジパング人なら構わないという雰囲気だ。自分たちを、高尚だと勘違いする連中は、どうやら勇気も無いらしい。
触れるのも忌まわしい男を見て、茜は双眸から、雨のように紅涙を流し、生きた心地など微塵も無い。彼女の小袖の胸元に、男の手が掛けられた。
その時、酔っ払いの身体がふわりと浮いて、ドンと壁に放られた。
『あ、あねうえ?』
と、思わず呟いて、真っ赤になった眼を上げた。そこには、姉ではなく、先輩武士が立っていた。彼が、男の襟髪を引っ掴み、壁に向かって投げたのだ。
高坂陣内は、何も言わずに茜の前に立ち、中年男と対峙した。男は、爛れた享楽を邪魔されて、勃然と怒りを噴き上げた。
「おい、てめぇ! ど、どおいうつもりだっ」
「……」
陣内は頭巾の内から、怖ろしい
男は、生まれて初めて見た侍に、やや恐怖の念を抱いたが、朝から呑み通しで気が立っていた。その結果、盲蛇に怖じずの諺通り、匹夫の勇を奮い起こし、懐から短剣を取り出した。
「死ねっ。ジパング野郎!」
と、蟷螂の斧が跳び掛かる――転瞬、陣内の
鞘を脱した
余りにも振りが速かったので、刃に血脂が付いていない。陣内は二太刀目を振るわずに、同田貫を納刀した。侍に無礼を働いた者を、ただ殺すのは許し難い。敢えて急所を外すことで、長く苦しませてやろうという算段だ。
数年ぶりに、間近で陣内の居合を見、茜は呆然としていた。
陣内は彼女を助け起こし、
『大丈夫か。歩けはするようだな』
『は、はい』
『ならば良い。疲れただろう。今日はもう帰るぞ』
高坂陣内は、自若として騒がず、夥しい血に沈んだ男を捨て、悠然と帰っていった。茜は、少し狼狽えていたが、黒ずくめの侍に付いていった
好奇心と、あわよくばご相伴に与ろうという変態精神に駆られ、路地裏を覗いていた野次馬共は、忽然と侍が現われて、男を斬り捨ててしまったので、須臾にして騒ぎ出した。
「お、おい! 斬られたぞ! 誰か、誰か医者を!」
「ああ、こいつはもう助からないぞ。肋が砕けて肺に刺さってる」
「助からないって、茫と見てる奴があるかっ。それ、手を貸せ、手を」
日常、荒っぽい喧嘩は見慣れていても、人間の死骸や血の海など、想像したこともない連中は、右往左往するばかり。程なくして、役に立たない群衆が集まりだした。
右の脇腹から左の脇に掛けて、鋭い太刀瘡を浴びせられ、無様に仰向けで倒れている。その服装と、蒼い顔で呻く様子を見て、一人が思い出したように、
「お、こいつはアーロンじゃねえか。ほら、あの博打狂いの」
「あの呑んだくれ野郎が? いつか大変な事になると思ってたんだ。だが、こうまでなるなんて……。おい、担架を持って来い。こいつを家まで連れて行くぞ」
「任せろいっ」
機転の良い男が布を持ってきて、アーロンの瘡口を押さえている内に、三人が担架を持ってきて、呻く怪我人をそこに乗せ、横丁を駆け足で急ぎだした。
二十分ほどして、彼らは帝都東地区の外れにある、アーロンの長屋に辿り着いた。しかし、いざ扉を開けてみると、中はすっかり蛻の殻である。
奥さんや子供がいるだろう――とばかり思っていた者達は、思わず戸惑いの色を隠せない。そうしている内に、アーロンの顔は土気色に変わっていく。
担架を引率していた者が、隣の部屋の空調窓を三回叩き、出て来た女に、
「すみません。お隣に住んでいるアーロンさんですが、ご家族はいらっしゃいますか?」
「ああ、アーロンさんの家族なら、今し方帰ってきた所ですよ。稼ぎに出ている子供で、ミラちゃんとオットー君と云うんですが」
「それで?」
「余りにもひもじそうだったんで、ついお隣の家に上がってみたら、家具は殆ど無いし、お米もパンも全くなくて。可哀想だったんで、余り物で夕飯を作ってやったところですよ」
親切な内儀は、溜息混じりにこう言って、今度は彼女から、
「お知り合いでしたら、是非ともアーロンさんに子供くらいは満足に食べさせてあげろと伝えてください」
「それが奥さん、そのアーロンさんが今、何処かの侍に斬られてしまったんです。担架に乗せて連れてきましたが、どうも助かりそうには……」
「え⁉ 本当にっ。大変だよ、二人とも、お父さんが!」
内儀は色を失って、慌てて奥の方へ行き、今度は家から飛び出した。
途端に、家の中から、近所に響き渡るような嘆きが聞こえてきた。顔を焼けた鉄のように赤くして、両手で眼を擦るオットーと、咽びながら彼を励ますミラが、見るも痛ましい姿で現われた。
貧乏な集合住宅は、一時騒然となった。怪我人に血止めを巻き付けて、彼の部屋に寝かせたが、素人目に見ても、どうやら助かりそうもない。
蝟集してきた近所の同情は、瀕死のアーロンより、むしろ、側で堰を切ったように泣くオットーと、姉らしく、必死で堪えるミラに向けられていた。
「泣くんじゃない、泣くんじゃない。ほら、大丈夫だよ」
「心配するんじゃない。今日は皆一緒だから」
父親は近所の厄介者に違いないが、子供達は、界隈中から大切にされていた。
一方の鼻つまみ者は、苦悶の後に昏睡し、息の細りと共に、幽明の境へ近付いていく。
長屋の顔役が三、四人、もう怪我人に見切りを付けて、密かに善後の策を相談中。まず何よりは、葬儀費用のことである。
「棺桶と線香代は近所の皆から募金してもらうとして、お墓は?」
「うーむ。西地区にある共同墓地は?」
「あそこは、身元不明の旅人を埋葬するところですよ。博打狂いの男まで受け入れてくれるでしょうか」
「困ったなぁ。兎に角、明日の朝、私が行って泣きついてみよう」
アーロンはそれを聞いているのかいないのか、どんよりとした瞳を屋根に向けていた。土気色の面に力は無く、小刻みに浅い息を吐いていた。
すると、父親の横で肩を震わせていたミラが、ひょいっと泣き腫らした顔を上げ、声を哀しみで途切れさせながら、
「おじさん。こまるってなに? お金のこと?」
「いや、ミラちゃん、何でも無いよ。お前は子供だから、何も心配しなくて良い」
「ぐす……お金なら、お金はタンスに入ってる。使ってないお金がたくさん」
「え?」
半信半疑で相談の上、ミラが示した箪笥を開けてみると、高級な革の袋が入っており、それを解くと、手垢も無い、真新しい金貨が古床の上に、サラサラと一千枚は落ちてきた。この世界での金貨一枚は、我々の感覚で云えば、一万円くらいである。
当然、貧乏長屋に住まう一同は、驚愕の表情を浮かべたまま、ただ茫然としてしまう。厄介ごとを抱えたその矢先、また難儀なものが登場した。無職で借金まみれのアーロンが、鋳造所の坩堝から出たばかりの、小綺麗な金貨を持っているのは、怪しいというより怖ろしい。
金の素性も問わぬまま、手を付けてしまうわけにはいかぬので、隣室のお内儀が、妙に声を押し殺し、
「ミラちゃん……このお金、どうしたんだい? 何か知ってるの?」
「この間……この間の夜、姉ちゃんが、カーラ姉ちゃんが家に来て、そっと渡してくれたの」
「え⁉ カーラちゃんが?」
その名前を聞いて、一同みな顔を見合わせた。
カーラといえば、五年前に長屋を飛び出して以来、すっかり音沙汰のない娘である。幼い姉弟は知らないが、今では賞金首の女掏摸。
ミラは、沈黙してしまった連中を、一度ぐるりと見廻したが、構わずにこう言った。
「このお金で借金を返して、皆でお店でも持って仲良く暮らしてね。お姉ちゃんはいつか帰って来るから――って言って、手紙と一緒にお金を置いていったの。あたしもオットーも、字が読めないから解らないけど……」
語っている内に、ミラは胸を悲哀と混乱で詰まらせて、二度三度しゃくり上げた後、また鬱屈と膝を抱えてしまった。
長屋の者達が、納得したように目と目を合わせていると、今まで昏々としていたアーロンが、不意に眼を醒ました。
「痛つつ……ああ」と、苦悶と激痛の皺を眉間に寄せて、火のような喘ぎと共に、どうしたものか、頬に涙を伝わせた。
「うう……すまない、本当に申し訳ない。皆さん、後生ですから、俺が三途の川を渡る前に、カーラに一目だけ会わせてください……。あいつは、あいつは此処にいますから」
絶え絶えの声で、時折咳込みつつ、慄く手で、彼が懐から取り出した二枚の紙。元は一枚の手紙だったが、陣内の居合で真っ二つにされ、どちらも赤黒い血で染められていた。
血で干からびた一端に、楽士組合本部――と淡い字で書いてあった。
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