誇り高き皇弟殿下
床に投げられたハンスは、自分を捕えた男の前で、何とか縄をほどこうと、芋虫のように身体を動かした。縄は固く手首と足を締めており、容易には抜け出せない。窓から差し込む月光に照らされて、男の顔は、必要以上に蒼白い。
(落ち着け……焦っても縄はほどけない)と、ハンスは切迫した心を整えて、自分の記憶にある恩師、リカードの言葉を辿っていた。
『ハンス。捕らえられて縄で縛られた時は、先ず落ち着け。心の持ちようという意味だけでなく、縄目というのは藻掻けば藻掻くほど強くなっていくのだから。心頭を滅却すれば、自ずと周りが見えてくる』
ハンスは、呼吸を整えて、手首に自分の注意を向けた。確かに固いが、高手小手というわけではない。急拵えの緊縛なので、何処か甘い箇所がある。
彼は、不要に身体を動かさず、代わりに、ゴキッと、手首の関節を外した。術を知っていただけなので、彼は、想像以上の苦痛に顔を歪ませたが、縄からはスルリと抜け出せた。
帝国の属国が一つ、ルーニアの物語に出てくる吸血伯爵のような男は、口元一つ動かさず、感情を何処かに置き忘れた顔をして歩いて来る。
ハンスは、差し迫った危機を脱するべく、瞬時に関節を戻し、手を付いて後ろに転回した。そうして男から距離を取った彼は、背中をぶつけた卓の上にある、予め見つけていた剃刀を素早く取り、忌まわしい縄目を断ち切った。
茶髪の男は、それを見て、少し驚いたような顔をした。ハンスは、剃刀を右手に構え、罠に掛かった獣のように震えている。
(地下牢に入れられて拷問されるくらいなら、喉を突いて死んでやる……)と、悲愴極まりない、屠所の羊にも似た覚悟を抱き、白魚のような冷たい刃を握っていた。
「いやぁ。お若いのに、こんな所まで忍び込んできて、私を相手に怯まないなんて、感服致しました。ははは」
「へ?」
出し抜けに男が、飄々とした口調と態度を見せたので、ハンスは間抜けな声を挙げ、眼を丸くして相手を見た。
自分より遙かに若い少年が、啞のように黙っているのを見、男は、相手の琥珀色の瞳へ微笑んで、
「まあまあ、そう警戒せず。私は何もしません。君は確か……ハンス君でしたね。港町ハーフンに居住し、ご家族はお母様一人。年齢は十二歳。合っていましたか?」
「ど、どうして僕の事を」
「君が帝国の密偵だからですよ。私は人の上に立つ者として、官職に就いている者は末端でも覚えておくようにしております。おっと、こんな真っ暗な部屋では話も出来ませんね」
そう言って男は、隣の部屋の扉を開けた。十畳ほどの部屋には、上等な絨毯が敷かれ、中央には、趣向の凝らされた小さな卓と、何処から用意してきたのか、軽食が置いてあった。
なおも眉を逆立てて、怪訝な顔をしているハンスに、男は軽妙な足取りで近付いた。ハンスの後ろに廻り、自分の鳩尾くらいにある彼の頭を撫で、馴れ馴れしいことこの上ない。
「いやぁ。こう警戒されては話も何もありません。そうですね、君は少し自分の立場を解った方が良い。仮に私が今ここで、大声を出したり壁の鈴を鳴らしたりすれば、衛兵が潮のようにやって来ます」
「……」
「どう言い訳しようと、所詮侵入者に過ぎないハンス君は、運が良ければ牢獄に下されて拷問。悪ければその場で斬り捨て、明日の朝には梟首でしょうね。ははは、気を悪くしないで下さい、事実なのですから。そうなりたくなければ、賢明な判断をして下さい」
ハンスは歯噛みして男を睨んだが、他に選択肢があろう筈もなく、唯々諾々と承諾するしかない。そのまま男は、彼の背中を押すように、明るい部屋に案内した。
やたらと明るい照明に、ハンスは眩暈を起こしたが、男に促されて着席した。男は彼の向かい側に座り、珈琲を旨そうに飲み、ハンスにも促した。しかし、警戒心の強い少年は、目の前のホットチョコレートには眼もくれない。
男は気味の悪い微笑を崩さず、柔らかな口調で言った。
「自己紹介が遅れました。私はジョン、この国を治める皇帝の弟です。歳は二十五ですから、若者の感覚とは少し違うかもしれませんが、ご容赦を」
「は、はぁ」
「それで、ハンス君。君がこんな夜更けに入り込んで来た理由を教えてもらえますか? 私の予想ですと、君が八歳頃から追い続け、今、君の周りで密かに進んでいるジパングの陰謀調査の関連ですかね」
ハンスは眼を皿のようにして驚いた。何か尋ねられても、沈黙を貫こうとしていたのだが、自分の素性と目的を、正確に言い当てられたので、流石に駭然せざるを得なかった。
皇弟は、ハンスの表情を見、満足そうに眼鏡の縁を上げた。どうやらこの男、かなり前から彼に目を付けていたらしい。変態的とも言えそうだが、兎に角、部下に命じてハンス達を監視させていた。
「君がカーラさんと一緒に、あのウェールズ君と一緒にいたということも掴んでいます。随分と仲が良いようですが、まさかガールフレンドも君達と絡んでいるのですか?」
「いや、別に……」
「ははは。片時も離れたくないという気持ちはあるが、恋人を危険に晒したくないといったところですかね。盲目な少年らしくて結構。それで、我が兄に何を訴えに来たのですか?」
ここまで読まれていては、抵抗する余地がない。ハンスは、呪文に掛かった人形のように、ぎこちなく、恐る恐る、懐から密書を取り出した。
皇弟はそれを受け取って、仰々しく開いてみた。ルカの流麗な筆跡で、びっしりと紙は埋められていた。息を殺して黙読する内に、皇弟の面には、怖ろしい怪物でも見たかのような、強い衝撃の色が浮かんでいた。
今、帝国の春は和光に満ち、天下は凪の如く治まって、人心も満ち足りていると思っていたのに、いつしか、旧来の没落貴族共と、数多ある属国群との間に、帝国への不満を薪にした、密かな叛逆の火が燃えていようとは、誰も考えなかったに違いない。
ルカの上書には、理路整然とそれが記されていた。そして、ジパングの国主、
かの国第一の不審は、十五年前から国境を固く閉ざし、他領者を一切受け入れぬこと。第二は、ハーフンの屋敷で、茶会に託けて、しばしば怪しい密談を催すこと。第三は、十五年前の陰謀で、遠流を申しつけられたイリーナが、帝国の眼を眩ました後、密かに同国の食客になっていること。
「ふむ……これは容易ならぬことです」
皇弟は、顎髭を撫でて声を漏らした。思いの外、落ち着いた様子ではあるが、心中の程は解らない。
更に上書の後半には、胸を衝かんばかりに切実な、ルカの嘆願が添えてある。嘆願は、ティーレ家の私事から始まっていた。
―陛下もご存知のことと推察致しますが、今から十一年前、帝国隠密組頭の当主ヨーデルは、ジパングの内秘を探るため、密命を帯びて、かの国に潜入致しました。しかし、それから十年間一切の音沙汰無く、遂に昨年、隠密組の掟により死亡したものとみなされました。
彼の一子は女子であり、養子もいなかった為、跡継ぎはおらず、ティーレ家は改易の憂き目に遭いました。一子であるミーナは、今、クロケット伯爵に世話をして頂いております。
私、ルカ・ウェールズは仔細あって、同家からの御恩があります。これは、けだし忘れるべからざる恩と言えます。烏滸がましいことは承知しておりますが、ヨーデルの遺志を継ぐべく、どうか私に帝国の隠密として、ジパング探索の密命を仰せつけてくださるよう、陛下の公正なる御心に、頓首再拝して嘆願申し上げます。ー
この熱願の文書を見、皇弟は眉を險山のように鋭くし、勢い良く立ち上がった。ハンスはその様子から、失敗した、と臍を噛んでいたが、
「うむ……うむ! いやぁ、素晴らしい。これなら任せられる……」
「え?」
「実は、私もジパングの陰謀を探っていた者の一人なのです。しかし、あの国はまさしく鉄壁。容易に潜入出来ません。しかし、此処まで来たハンス君、そして侍共の重囲を切り抜けたウェールズ君なら、きっと成し遂げるでしょう」
「そうだったんですか。てっきり鼻先であしらわれるかと思ってました」
「ははは、気持ちは解ります。私も少数派ですから。……今回の一件、私が預かりましょう。兄に知られては、事が大幅に遅れてしまう。善は急げと言いますから」
そう言って皇弟は、満足げに手紙をしまい、送りますよ、とハンスを促した。一時は死さえ覚悟していた彼は、急転直下に物事が進んだので、少し呆然としていたが、やがて快活な笑顔を見せて、はいっ、と元気に立ち上がった。
いつの間にか夜が明けて、山の向こうから差し込む陽光が、部屋の中を照らしていた。
――皇弟の引率で、ハンスは足取りも軽く、帝城の正門まで来た。トントン拍子に上手くいったので、彼も少し緊張が解けたのか、生来のあどけない表情で、皇弟と雑談しながら歩いて来た。
去り際、皇弟は少年に、
「そうそう。少ないですが、君の勇気に敬意を表して、お小遣いです」
と言って、彼にずっしりとした袋を手渡した。ハンスは跳び上がらんばかりに驚いたが、皇弟が受け取るよう強いるので、何度も頭を下げて受け取った。
遠ざかってゆく緑髪を見送りつつ、皇弟は、
「ふん……」
と眼を細め、朝陽を背中に浴びながら、ゆっくりと帝城の中に姿を消した。
――丁度その頃、ルカは、夜明けと共に起床して、楽士組合本部の庭で腰を下ろし、瞑目しながら今後の行動を考えていた。黄金色の光に照らされて、半分影になった玲瓏の面は、矢張り何処か不安げだ。
(ハンスは大丈夫なのか……。俺も俺だ。あいつは俺より、七つも歳下なんだぞ。弟みたいな子供に頼るなんて)と、自嘲気味に心で呟いた。
朝の風が、濡鳥色の総髪を緩やかに撫でている。その時、木に凭れ、片膝を立てて座る彼の横から、
「ルカ様」
「ん……。何をしに来た。敵情視察か。それとも自首か」
ルカに声を掛けたのは、何ぞ測らん、ヴェイスの手先のクライヴだったのだ。
こんな木っ端など、恐るるに足りないので、ルカは彼に見向きもせず、項垂れたままで応対した。
クライヴは、ルカの眼前に跳び込んで、地面に叩頭しながらこう述べた。
「ルカ様! 俺は、俺は間違っておりました! あの男は悪魔だ、もうヴェイスなんかには従いたくありません」
「どういうことだ」
「実はヴェイスは、ずっとミーナ様を監禁していたんです。俺はそれを知らず……。あいつの金に目が眩んで、今では恥ずかしい限りです。ヨーデル様には多大なる御恩を頂いていました。どうか、俺を仲間に加えてください」
この男に、ジパングのことを話した覚えはないが、恐らく、茜達から聞いたのだろう。そう思ったルカは、短く溜息を吐いた後、
「良いだろう。だが、覚えておけ。もしハンスやカーラを瘡付けたり、俺達を裏切ったりしたら、お前は五体満足ではいられなくなるぞ」
「有難うございますっ。約束します……約束します」
クライヴは、幾度となく礼を言い、早速ルカに進言した。
「ルカ様。ヴェイス達は、アカネが
「そうだな。だが、もう少し待ってくれ」
それから数日して、皇弟が何の前触れも無く、供も連れず単身で、クロケット伯爵の元へやって来た。彼はそこで、ルカの嘆願書を取り出して、伯爵に様々な下問をした。
ルカを呼び出した後、皇弟は重大な密命を、彼と伯爵に授けたらしい。吉報を待っていた青年は、御意、とだけ言って受諾した。
確かにこの日、ルカは伯爵邸へ入ったに相違無い。
だが、彼はその後、組合本部にも帰らずに、ハンス達にも会うことなく、忽然と姿を眩ました。
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