春の霞と侵入者

 夜半になった。温みだしてきた帝都だが、まだまだ夜は肌寒い。家々の屋根や街路の木々に残った雪が、貝寄風に吹かれて舞っている。彼岸の空に曇りはなく、地面に降り注ぐ月光が、舞い散る雪や、こぼれる梅花を照らし出す。

 繁華街から離れた家々は、窓も扉も固く閉め、眠りの闇に沈んでいる。時折通る歩哨が鳴らす靴の音と、野良犬の遠吠え以外、後は物音一つしない。


 そんな粛然とした町内の、屋根から壁へ、壁から屋根へ、さっと一つの影が跳んでいく。月や街灯の明かりを避け、窓枠、壁のひび、配水管などを伝い、小さな身体を素早く進ませる。

 ましらの如く敏捷で小さな影は、民家の屋根から飛び上がり、反対側の家に下がる、袖看板の支柱を掴み、車輪のように回転し、上の屋根へ跳躍した。そして、右手を翳して帝城に眼をやった。

 蒼白い月明かりが照らしたその人は、ルカの密命を受けたハンスである。彼が今夜の役割は、ルカの密書を、皇帝に届けることである。


 カーラが寝息を立てたのを確認してから出て来たので、朝から一睡もしていない。如何にその胸中に、勃々たる使命が燃えていようとも、矢張り僅かに十二歳。眠いまなこをこすりつつ、帝城を見据えている。

 懐の密書をもう一度確認し、ハンスは屋根伝いに駆けだした。とにかく今の優先は、上申書きを届けることである。機敏に足を動かして、振り返りもせずに駆け抜ける。

 船遊びにも使われるお堀を越えて、帝城の外壁の下まで来た彼は、腰に留めてある鉤爪の付いた縄を伸ばした。見上げるほど高く聳える城壁に向かってそれを投げ、銃眼を通して内部に固定した。そして、縄を掴んで壁を登りだした。


「はあ……はあ……。中々しんどいなぁ……。まだ半分か……」


 ハンスは、額から垂れる汗を拭い、大きな息を一つした。縄を掴んでいる細い腕に筋が浮き、不安と緊張が心にまみれ、身体が変に熱くなる。犬の声も聞こえない静寂な夜ではあるが、月明かりだけは皎々と輝いている。身を隠す場所もないので、歩哨の眼に留まれば、格好の的にされるだろう。

 そう思うと、気ばかり急いてきて、壁を伝う足の動きは速くなる。まさか自分が、三文小説にいる忍者の真似事をするなどとは、夢にも思っていなかった。

 それから少しして、ハンスはやっとの思いで銃眼に入り込み、急いで物陰に跳び込んだ。少しでも身を軽くするために、武器は置いて来てしまった。


 しかし、この帝城が建てられてから二十余年、侵入者は一人としていなかったので、今宵の兵士達も、何処か気が抜けていた。ハンスが顔を出して見た先にいる四人の兵は、夜勤で上官がいないのを幸いに、札博打に現を抜かしている。

 

「よし、また俺の勝ちだ。次は何を賭ける?」

「ちぇ……。これで今月の小遣いはすっからかんだ。これ以上やったら家内に怒られるが……ここで下りたら男が廃る」

「そうこなくちゃな。次は俺が親だ」


 ハンスの後ろ側にいる者達も、酒で度胸試しをしているらしく、警戒心は皆無である。彼は生唾を飲み込んで、狐狸のように身を低くして這い始めた。

 匍匐して、腕がベトンの床に着くが、不思議と冷たさは感じない。異様な熱さを持った兵士達の眼差しを避け、ハンスは、心臓の音さえ聞こえるのではないかという不安と共に、息を殺して横を這う。卓に灯る蝋燭も、壁に掛けられた松明も避け、暗がりを必死で辿っていく。

 ツンとした酒の匂いが鼻をつき、疲労と緊張も相まって、彼は思わず嘔吐きそうになる。何とか堪えた彼は、地上に続く階段を駆け下りて、側防塔から外に出た。


 ハンスは、鮮やかな花に彩られた垣根に身を隠し、一応辺りを見廻した。広漠な庭園が見渡すばかりである。篝火が盛んに焚かれる石畳の道、飾り噴水の広場、四季折々の花畑の遙か先に、厳めしい門があり、皇帝の御所が見えていた。

 庭師の小屋や、兵士の宿所が途中にあるが、全て灯を落としている。この分なら、篝火を避け、庭続きに何の苦も無く行けそうだ。

 

「は……」


 緑髪の少年は、深い息を一つした。ふと無意識に、左手が、右胸に当たっていた。生命の拍動が感じられる。まだ生きている。彼は特異体質で、全ての内臓が逆転しているのだ。

 流石に中庭ともなると、怠けている兵士は見当たらない。諸所に二人一組が見え、一人は松明、一人は鉄棒を持っている。しかも首に呼笛を下げており、いざとなれば、闖入者にとって終わりの音色を鳴らすだろう。

 折良く、空に厚い雲が立ち込めだし、地面を照らしていた月が隠れ、後は如法の網となる。幸いにも、ハンスは夜目が利く。姿勢は低く、物の影から影へ、小さな身体を跳ばしていった。


 ――歩哨を避け、灯りを避けて、ハンスは漸く、一際豪奢な棟の下にいた。窓枠は金で飾られて、壁、硝子、柱など、何処を見ても傷はおろか、埃一つの汚れも無い。

 彼は、進入出来る搦手を探し、壁に沿って歩き始めた。歩いている内に、窓に反射した自分の顔が眼に入った。カーラが、慣れない手つきで巻いてくれた包帯が見え、ハンスは少し微笑んだ。


「カーラさんだって頑張ってくれているんだ……」


 と、自分にしか聞こえない声で呟いて、何気なく鏡に映った自分に手を伸ばした――すると、開いた。小窓の一つが、キイと音を立てて、屋内に向かって開いたのだ。


「な、なんで?」


 と、思わずハンスは、素っ頓狂な声を上げ、慌てて口に蓋をした。誰も来る気配がなかったので、彼は安堵に息をつき、一種の昂奮と動悸を覚えたまま、窓枠に手を掛けて、するりと中に侵入した。

 そこは使用人達が使う食堂らしく、広間に長い木の卓が並べられていた。綺麗に片付けてあるが、僅かに食事の残香が漂っている。ハンスはそこを抜けて、長廊下に進み出た。


 長廊下は終わりが見えぬほど長く続いており、床には錦繍の絨毯が敷かれ、壁には帝国各地の美術品が飾られていた。灯りが落とされているので、廊下の奥の方は、大蛇が口を開けているように真っ暗である。

 ハンスは数十分もの間、闇の中を彷徨い歩き、一段と瀟洒な扉を見つけ出した。


「あ……きっとあれだ。あれが皇帝陛下の部屋だ」


 と、彼は高鳴る鼓動を抑えつつ、一歩一歩そこに近付いた。今までの艱難辛苦が、少しでも前進すると思うと、今すぐに駆け出したい気分であった。

 (これが浮沈の分かれ目だ。きっと何か良い報せがある筈……!)と、少年らしい希望を抱き、扉の取っ手に手を掛けた。


「君」


 後ろから、低く、色気を含んだ声音が短く響き、ハンスは電撃を浴びたように硬直した。一秒、二秒もない内に、彼の身体は、弾かれたように横へ跳んだ――かと思われたが、実際には、声を掛けた男に襟髪を引っ掴まれ、ドンと床に倒された。

 ハンスは声を上げる暇もなく、哀れにも、口を猿轡でギリギリと塞がれて、目隠しをされた後、両手両脚を縛られて、そのまま担ぎ上げられた。暴れても、相手には鵜の毛で突いたようなブレもない。


「嫌だ……嫌だ! 死にたくない、まだ死にたくないよ! せめてこの手紙だけでも……!」


 と、心の中で叫んだが、口を塞がれているので声が出ない。代わりに涙が頬を伝う。男は風を切るように素早く走り、皇帝の部屋から離れていく。今まで異常なほど慎重に進んだ道のりが、嘘のように過ぎ去ってゆく。

 十分ほど過ぎた後、二人は一つの部屋に入った。ハンスは恐怖で咽せており、涙で猿轡が濡れていた。普段は大人を相手に斬り合う彼も、矢張りまだ幼い少年だ。武器も無く、不意を打たれ、言葉の応酬もなく縛られたので、怖ろしさと狼狽しか頭にない。

 カーラの笑顔や呆れた顔、母親の怒った顔や優しい顔が、矢継ぎ早に頭を廻り、悔恨と無念が湧いてきた。


 男はハンスを床に下ろし、先ず猿轡と目隠しを外した。そこでハンスは、初めて男の顔を見た。薄茶色の長髪を戴いて、眼鏡の奥に煉瓦色の瞳を持つ、長身痩躯の男である。

 男は何も言わず、細長い眼で、じっとハンスを見つめていた。少年は声も出せず、小刻みに息を吐き、涙を浮かべたままである。やがて男は、壁に飾られていた剣を取り、鞘を捨てると、抜き身を引っ提げたまま、ゆっくりとハンスに近付いていった。

 ああ、折角今まで苦労を重ね、骨を折って此処まで辿り着いたのに、この不憫な少年は、敢え無くつるぎの錆となるのだろうか……。

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