夕日が照らす想いと苦悩

 翌る朝、ルカは早くに起床して、机の上に紙を広げ、一心不乱に何か書いていた。流れるように筆が走り、紙の上へ左から右に、細く流麗な筆跡が描かれる。何の雅も無い木材の末路が、人の心に訴えかけ、情を動かす手紙となった。

 ルカは三枚目で漸く書き終えて、筆を置いて手紙を厳封した。そして封筒の表に太く強く、跡も残らんばかりに力を込めて、「上」としっかり記入した。暫く腕を組んでいた彼は、右隣の壁に向かい、


「ハンス、用事が無いなら俺の部屋へ来てくれ。頼みたいことがある」


 はい、と少し高い声音が聞こえ、すぐに少年がやって来た。昨晩、母親を夢に見てしまい、不安と憂いが顔に浮き出ている。しかし、態度や口調には表わさない。ルカは、彼の健気な様子が却って心配であった。

 ルカは机の上の手紙を取って、


「これを帝城の御居間殿、皇帝陛下の枕元に置いて来てくれ。本来なら、俺が行くべきだが、潜入ならお前の方が適任だ」

「え⁉ ど、どうしてですか」

「直訴状だ。俺は今や無位無冠の身だし、伯爵にお願いしても手続や承認で盥回しにされて、いつ陛下の許に届くか解らない」

「わ、解りました。帝城なんて一生入らないと思ってましたよ」


 流石にハンスは、幾度も死線を潜り抜けただけあって、帝城に忍び込むのに恐怖はない。仮に哨兵と遭遇しても、自身の身軽さなら容易に逃れられると思っている。ルカは涼やかな笑みを見せ、彼の肩を叩いて手紙を渡した。

 ふと彼は、ハンスが一人なのを不思議に思い、


「カーラはどうした? もう昼過ぎだが眠っているのか」

「何を思ったのか、自分の部屋を引き払いに行くと言ってました。夕方頃に、要らない荷物をまとめるのを手伝いに来てって。あの人、ルカさんに付いて行くつもりです」

「それは困るぞ。これからは辛い旅路だ。女連れでジパングの境を破るのは無理だ。はっきり言ってしまえば、足手纏いだ」


 それを聞くや否、ハンスは素早く立ち上がり、ルカに近付いて語気を強め、


「でも、カーラさんは自分の掏摸で、沢山の人を巻き込んだことを本当に後悔しているんです。自分の罪を償うために、あんな一念になっているのを止められませんっ」

「何と言われようが、カーラを連れて行くことは出来ない。良いか、これは遊びではない。下手を打てば死ぬことくらいお前にも解る筈だ。お前と彼女の童心に付き合っている暇は無い」

「真人間になろうとしている人を見捨てろって言うんですか! 僕は、僕はルカさんよりも、あの人のことを知っているんですっ。解ったような口を聞かないでくださいっ」


 ハンスはルカの襟首を掴んで叫んだ。何事かと掃除の者が覗きに来るが、ルカは手の動きでそれを追いやった。流石に心が練れているので、切れ長の眼を背けずに、ハンスをじっと見つめている。

 一方のハンスは、内心、自分のしていることが信じられずにいた。カーラと過ごしている内に、彼女の本質である誠実さとひたむきさに当てられた。彼女の深い悔悟の念、裏の世界から足を洗いたいという純な思い……。ハンスは、不憫な少女の一助になりたいと思っていた。

 本能的に動いたものの、本心では、自分勝手だと解っている。カーラの心を買いすぎている、自分の想いも多分にある。そんなことは解っていた。だが、カーラがルカに恋していることだけは、どうしても言えずにいる。だから、ルカは一介の女掏摸が、この一件に固執する理由が解らない。


 ルカはハンスの言葉が終わると、きッと眉を上げて、今度は相手を責めるような口ぶりで、


「確かに俺はカーラのことが解らない。だが、お前もまたお前だ。この件は遊びではないと何故彼女に伝えない。他領者禁制の鉄壁を潜る探索、碌な訓練もしていない者は連れて行けない。俺に他人の命の保証は出来ない」

「で、でも……」

「しつこいぞ。俺が危険を冒すのは、大に帝国のため、小にミーナの……」


 そこまで言ったところで、ルカの表情は暗くなり、俯いた色白の頬に向かい、黒く、陰鬱な影が差す。それを見て、ハンスも思わず彼から離れ、部屋は水を打ったような静寂となった。

 恋の力! そう聞けば、ルカも理解したであろう。その代わり、今のように真剣でいる彼は、必ず無下にカーラを拒み、彼女にとって、酷薄な仕打ちをするであろう。目の前にいる美青年が、不憫な恋人を脇に捨て、カーラの恋を受け入れるなど、全く有り得る筈がない。


 だが、実らぬ恋だと知ったとき、カーラは悲嘆の底に落ち、何をしでかすか解らない。

 (掏摸とか盗みを辞めないならまだマシだよ……)とハンスは、自分の予想の先にある、最悪の結末を思えばこそ、カーラとの約束を果たせずにいた。

 ハンスは次の言葉が浮かばずに、顔を背けたままである。いつしか、板挟みとなった少年は、腹の底で弱り抜いていた。今、密議に絡む者の内、最も中途半端な人間は、恐らくこのハンスに違いない。


「解り……ました。解りましたよ」

「折があったら伝えておいてくれ。よく言い聞かせておくんだぞ。お前も姉のような人を危険に晒したくはないだろう。大切に思うからこそ、望みを叶えてやるばかりではいけない」

「……」


 ルカは俄に改まり、ハンスの胸を軽く押し、努めて優しく微笑んで、直訴状を頼むぞ、と彼を励ました。

 ハンスは空返事を一つして、操り人形のようにぎこちなく、密書を懐にスルリと入れた。そのまま彼は、部屋の中を支配する、微妙に嫌悪な空気に耐えきれず、後ずさりして足早に立ち去った。


 組合本部を出た彼は、俯いたまま逍遙し、夕日差し込む東地区を彷徨った。ハンスの目的であるジパングの探索に、一縷の曙光が差したのに、彼自身は溜息混じりである。

 勿論、喜ばないわけではない。春の鳥、陽気な犬のように軽やかにならないのは、カーラへ抱く憐憫が、捕縄のように彼を縛るからである。常識で考えるのなら、ルカの言葉に従うべきであろう。そんなことは、ハンスにも解りきっている。

 だが、カーラが明かしてくれた切ない胸の内、彼女が見せるいじらしさを思い浮かべると、突き放すことが出来ぬのだ。


 ただ足だけ動かしつつ、賑わい始めた繁華街を歩いて行く。これから飲み屋へ呑みに行く、陽気な人間達とは反対に、ハンスの顔は、憂慮の雲で沈んでいる。

 そんな彼の肩を、ポンと叩いた人がいた。彼が振り返って見てみると、紅唇を尖らせて、眼を三角にした少女――カーラが不機嫌そうに立っていた。


「ちょっと! あたしは君の事をずっと待ってたのに、こんな所で何してるの。早く来て手伝ってよ」

「え……あ! ごめん、忘れてたよ」

「忘れてた? 全く、なるべく他人は家に上げたくないし、お金も掛からないから君を呼んだのに。ほら、こうしている内に、ルカさんが出発しちゃうかもしれないから、早くして」


 カーラは元来た方へ振り返り、白い横顔を彼に見せ、早く、と呆れた声。ハンスは、夕陽に照らされた彼女の顔を見て、その美しさに見入ると共に、一つ思い切って尋いてみた。


「ねえ……」

「どうしたの? そんな暗い顔して。怒ったのは謝るからさ」

「カーラさんは本当にルカさんや僕に付いて行くつもりなの? 怖いとか思わないの?」

「……今更何言ってるの。あたしは……あたしはあの人のことが忘れられない。片時も手放したくないから付いて行くの。あの人のためなら、あたしも真人間に戻れる。そう……」


 先程まで膨れ面をしていたカーラは、途端に頬を赤らめて、恥じらうように俯いた。愛しいルカを思う度、その心に連動し、胸の内が締め付けられ、言葉がつかえてしまうらしい。

 透き通るように肌理細やかなかんばせに、未熟な椿の如き赤みが差している。普段の彼女からは想像も付かぬほど、純粋な少女の顔である。そんなカーラを見ていると、ハンスにはとても、「迷惑だから付いて来ないでくれ」と言える気がしなかった。

 また彼には、悩みの種がもう一つ。しかも、そちらの方がカーラにとって、けだし重要といえるだろう。しかし、言えない。伝えられない。まして、ここまで惚れ込んで一途になり、めくらな情熱に浮かされる、彼女の姿を見れば尚更だ。

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