密議を巡らす隠密達

 ――ルカ・ウェールズが、悪玉共を相手に立ち回っていた時から少し前、組合本部の受付に、二人の客がやって来た。受付嬢は二人から頼まれて、ルカ達の部屋に向かっていった。

 ルカに置いて行かれたハンスは、彼に言われた通り眠ろうとしていたが、今夜の憂慮が頭を逡巡し、牀の上に転がって、天井と睨み合っていた。一人でじっとしていると、悲観的な思考が湧き出てくる。

 カーラが高坂陣内こうさかじんないに手籠めにされたのではないか、母親が衰弱しているのではないか、ルカが膾斬りにされてしまっているのではないか…などと、憂愁に眉を動かして、溜息ばかり付いている。


「はぁ……カーラさん大丈夫かな? ルカさんも……」


 と、涙を眼に浮かべ、声を震わせて呟いた時、部屋の戸を叩く音がして、来客を告げる声がした。はっとハンスは起き上がり、大慌てで眼を拭い、どうぞ、と応答した。

 すると、ガチャリと扉が開かれて、白髪で総髪の老人と、外套頭巾を被った女が入って来た。ハンスが不思議な顔をしていると、女の方が頭巾を払った。決まりの悪い顔をして、頬が麻痺したようにぎこちなく微笑むのは、彼が心待ちにしていたカーラである。

 ハンスは思わぬ喜びを発条ばねにして跳び上がり、俄に彼女へ擦り寄って、今度は安堵の涙を浮かべていた。彼が懊悩していたなど、一切知る由もないカーラは、眉を顰めて怪訝な顔となり、


「いきなり何? 確かに、全然連絡をしなかったのは悪かったけど、泣くほどのこと?」

「うう……。僕、心配だったんだよ。ジンナイに捕まって乱暴されたんじゃないかって……」

「何言ってるの。あたしがそんなヘマするわけないでしょ。ほら、泣かないでよ。全く変なの」


 ここまで気を揉ませていたとは思わず、カーラは呆れ顔で彼を立ち上がらせた。身内以外の身を案じたこともなく、誰かに心配されたこともない身の上だ。ハンスが何故ここまで不安に思っていたのか、解らなかったのも無理はない。

 ふとハンスは、一緒に入って来た老翁の方を見て、不思議な顔で小首をかしげ、


「あ、あの、あなたは誰ですか? カーラさんにはお祖父さんはいない筈ですけど」

「ははは、少年。儂はエミリオという、ただの暇な老人じゃ。ちょっと君達のお話に興味があってな」

「え⁉ じゃああなたがルカさんのお師匠様ですか?」


 ルカから彼の事を聞いていたので、ハンスの驚愕はもっともだ。しかしその仰天は、同じ意外でも、ヴェイスからの死の誘いとは反対に、真に嬉しい邂逅だ。

 ハンスは、二人を火鉢の側に座らせて、一通りの経緯いきさつを、早口に話してやった。彼の苦心惨憺を、エミリオは頷きながら労って、今度は自分の状況を、穏やかに物語った。

 

「――そこで、この子が儂の懐から、財布を掏ろうとしたところを捕まえたのが、君達の居所を知る機縁となった。そこで一刻も早く、ルカに会おうと思って、夜中に押し入ってきたのだよ。痛い、痛い、と暴れて大変だったよ、ははは」

「そ、それには事情があって」


 と、カーラはあの時の醜態を、あけすけに言われてしまったので、顔を真っ赤にして早口で、切ない事情を説明した。面目無さそうに紅唇を震わせて、彼女が紡ぐ懺悔のことばは、二人の琴線を刺激して、共鳴の旋律を奏でさせた。

 その時、部屋の扉が開き、ルカが静かに帰って来た。常に変わらぬ落ち着きようで、ハンスを見て微笑んだ。しかし彼の上着には、跳ねた泥のような返り血が付いている。


「る、ルカさん、どうしたんですか? 血が付いてますよ」

「ああ、俺の命を狙っている連中に少し挨拶してきた。これで暫くは会いに来ないだろう。カーラも無事で良かった。ところで、こちらのご老人は?」

「……久し振りじゃな、三年ぶりかな?」


 その言葉と共に、エミリオがゆっくり立ち上がり、ルカの方に振り向いた。ルカはその顔を見て、非常な喫驚に包まれた。師父の前に膝を突き、震える手で相手の手を握り、自分の額に押し抱き、感慨の涙を流していた。

 エミリオも、かつての大弟子の肩に手を置いて、再会の喜びを感得した。何も言わず、何も問わず、ただ久闊を叙してくれる彼の優しさに、ルカは暫く立ち上がれなかった。この師弟の絆の強さは、親子のそれと同じくらい、いやそれよりも強靱だ。

 やがてルカは咽びながら、


「師父……黙って出ていってしまい、申し訳ありません……」

「ルカよ、あれこれは問わん。何も言わなくて良い。師にも親にも黙って、帝都から出奔したお前は既に死んだ。今此処にいるのは、生まれ変わったルカ・ウェールズだ」

「う……う……」


 エミリオは、肩を震わせて嗚咽する弟子の頬に手を伸ばし、流れる涙を拭ってやった。

 師匠から赦される喜びは、何物にも代えがたい。しかもルカは、家を捨てた後悔より、師に別離の言葉を言い残さなかったことが、非常なものだったのだ。

 外柔内剛なエミリオは、すっと立ち上がり、少し声音に力を込めて、


「涙が涸れたら、約束して欲しい。生まれ変わったお前の命を、儂らに預けてくれぬか。此処にいる二人にも」

「……い」

「聞こえん!! 儂の弟子なら、そんな返事はせぬっ。そこにいる若者二人の方が、余程胆が座っておる。否応関係無く、肚の底から声を出すのじゃ!」

「はい!!」


 ルカはその玲瓏の面に、紅を呈して立ち上がり、部屋の梁が揺れるほどに、大音声を発して立ち上がった。大銅鑼のような叫號きょうごうに、脇で見ていたハンスとカーラは、思わず愕然としてしまい、糸で吊られたように背筋を伸ばした。

 ルカはしっかと師匠の手を握り、明眸に力を漲らせた。今の彼には、無駄な後悔も喪失感も存在しない。尊敬する師匠のため、今は亡き友人達のため、そして恋い焦がれるミーナのため――その命を投げ出す覚悟のみである。


 ハンスは安堵の笑みを浮かべ、横にいるカーラをひょいと見た。彼女は、思ってもいなかったルカの熱い一面に、最初は少し驚いていた。

 しかし今は、左右の手を胸の前で綾にして、ときめきを抑えるのに苦心している様子。みどりの瞳を輝かせ、耳元まで真っ赤に染めている。全く空振りに終わりそうな恋なのだが、この少女は何も存じない。

 ハンスは気を遣ってミーナのことは言わないし、ルカはカーラの気持ちに気付いていない。叶わぬ恋だと悟ったとき、彼女はどういう行動を取るのだろう……。


 閑話休題それはさておき、その夜、部屋には灯りが尽きなかった。四人は状況を整理して、それぞれが持っている情報を共有した。そして彼らは、不意に舞い込んだ難題に、はっきりとした曙光を得た。

 翌朝、ルカとエミリオは、眠ってしまったハンス達を部屋に置き、クロケット伯爵の屋敷を訪問した。その日は、春めく二月の初めであった。

 ルカ達は、屋敷の奥庭にある数寄屋に通されて、墨で描かれた家紋を背にする、伯爵殿と対面した。傍らには伊藤若冲の水墨画が飾られて、如何にも荘厳な雰囲気だ。数寄屋の周りには、叢竹が程良く植えられて、人目を避けるにはうってつけ。


 書院窓を閉め切って、行灯の火を頼りにして、朝から半日余り密談していた三人は、午後になって漸く話がまとまった。

 クロケットは、窓の障子を細目に開けて、渦模様の庭を見た。紅白の山茶花が部屋に吹き込んでくる。そして彼は、脇息に凭れたまま、


「さすれば、その議について私がお召を受けるのは必定だ。その時、お上のお尋ねに対し、お前達の願望と苦衷、詳らかに申し上げる」

「ひとえにご助力の程、宜しくお願い致します」

「うむ。お前達に頼まれないでも、帝国にとっては由々しい問題だ。それにしても……」


 ふと、伯爵は溜息を付いて外を見た。愁眉を閉じて瞑目し、何処か遠くに心が飛んでい。

 伯爵は今年六十五歳。若い頃は、非常に勇猛果敢で勤勉家だった先帝の側にあり、諸国を併呑するのに多大な功があった。今は帝国の元老の一人であり、何不自由無い暮らし向き。


 しかし今の皇帝は、一言で言えば「悠々自適」な人である。先代が五十を過ぎた後に生まれたので、幼い頃から家族や家臣達の寵愛に包まれて、珠よりも大切に育て上げられた。戦陣の垢も窮乏も、矢弾の雨も知らない御曹司。

 齢三十の今上は、全く悪い人では無い。体躯は小肥りで、恵比寿のように穏やかなかんばせに、いつも柔らかな微笑みを浮かべている。自分の役割を認識しているのか、それともただ魯鈍なのかは解らぬが、元老達や評議会の決定を、


「左様せい」


 と追認するのみだ。公務らしい公務と言えば、年毎、属国の諸王への饗応や、爵位栄典の授与である。他にすることと言えば、魚釣りや船遊び、詩歌管弦くらいである。

 これが平民だったなら、「あいつは良い男だよ」と多くの人から、非常な好感を得たであろう。しかし彼は、威厳が必要な皇帝だ。大国を率いるには頼りない。

 しかし今するべきことは、ジパングの陰謀を暴くことである。クロケットは、姿勢を正して二人を見、


「まあ良い。旧都の冷や飯喰らいの貴族達や、不穏分子達と気脈を通じて帝国を打倒しようとするジパングの計画、証拠が出ない内は飽くまでも疑惑だ。決してこの議、世間へ漏らしてはならんぞ」

「はっ。それは私もルカもよく心得ております。大事に大事を重ねて、秘密は守り通します」


 ルカは、伯爵から重大な策を授けられ、彼から助勢も約束されたので、慇懃に礼を述べた後、


「この上は、少しでも早く宿に帰り、仔細をしたためた手紙を書き、仰せのようにします。ではこれにて……」

「あ、待ちなさい。エミリオが君の恋人をあの大火の晩にお助けし、私の屋敷に連れ込んでいた筈だ」

「え、み、ミーナが?」


 ルカは見るからに狼狽えていた。普段の冷静沈着さは何処へやら、頻繁に眼をしばたいて、乱れだした拍動を、抑えるのに苦心しているようである。

 冷静になろうと悶え、滾りだした情熱に苦しむ弟子を見て、エミリオは気の毒そうに語韻を沈め、


「残念だが、逢うことは出来ぬ。常に暗いお部屋で鬱々として、お食事も殆ど摂られていなかったのを見た医者の指図で、ミーナ様は伯爵家の別荘に昨日出発なさったのだ。静かな環境でのんびりすれば、抑鬱も少しは改善されるだろうということで」

「そ、そうですか」


 と、ルカは些か安堵したように呟いた。無論、針のような辛さは心の中に渦巻いている。だがその一方で、恋人を捨てて帝都から出た後ろめたさから、まだミーナに直接会う勇気は無い。

 やがて彼は思慮を決めて、切れの長い明眸に、端然とした意志を宿し、


「伯爵、勝手ではありますが、御当家の好意に甘えて何卒、このまま暫くの間、お預かりお願い致します」

「うむ。医療の及ばぬ病だが、私に任せなさい。北方の属国、ルーシから心の医者を呼んでおく。北国は日照時間が短いので、ああいう症例が多いそうだ」

「本当に有難うございます。重ねてお願い致します」


 そう言ってルカは、頭を下げて屋敷を辞した。門の前で、暫く悄然と空を見上げていたが、やがて彼は、光るものを一筋流し、そのまま道を走っていった。


 ――その頃、カーラは漸く眼を覚まし、欠伸を一つして起き上がった。ハンスを蹴飛ばして奪った牀なので、足元の床には彼が眠っていた筈だが、何故かそこにはいなかった。

 彼女は腹が減ったので、彼を連れて飯屋にでも行こうと思い、部屋の中を見廻した。少し離れた所で、卓に突っ伏している人がいた。他ならぬハンスである。


「母さん……父さん……」


 と、ハンスは、自分の両親のことを思いだし、そぞろ涙を流している。自分の母親のことは、声や仕草に至るまで、至って鮮明に思い出せる。しかし、父親の顔となると、霧の向こうにある小島の如く、朧気にしか浮かんでこない。

 さもありなん、ハンスの父親は、彼が二歳の頃に死んでいる。ジパングの陰謀を暴くべく、友人のリカードと共に活動していた折、刺客の手に掛かったのだ。

 逆袈裟を居合で斬られた後、凄まじい一撃で眉間を割られていた。何とか取り出したであろう、鞘に入ったままの長剣は、真っ二つに斬り割られていた。惨たらしい亡骸の傍らに、ジパング語の斬奸状があったので、奉行所は早々に捜査を打ち切った。事勿れ主義の役人が、ジパングとの諍いを嫌ったためである。


「何で死んだんだよ……父さん。母さんもいなくなったら、僕は……独りぼっちだよ」


 と、声を震わせる姿が痛ましい。初めてハンスの弱音を聞いて、カーラは不思議そうな表情だ。

 彼女は、しゃくり上げるハンスを見つめていたが、敢えて、声を上げながら背伸びをした。哀れな少年はと顔を起こして涙を拭い、慌ててカーラの方に向き直り、


「あ、カーラさん。起きたんだね、おはよう」

「あはは、もう昼過ぎだけどね。あたしお腹空いたから付いて来てよ。奢るからさ」

「え、でもルカさんが帰って来るけど」

「そんなの良いから、ほらほら」


 と、カーラはハンスを促して、声を弾ませながら部屋から出た。建物の外に出た後、彼女は麗しい笑顔を浮かべて振り返り、


「そうそう。君には助けてもらってばかりだけど、偶にはあたしを頼って良いからね。あたしにとって、君は弟みたいなものなんだから。お姉さんに任せなさい、なんてね」

「……ふふ、何それ」

「何でもないっ。ほら」


 ハンスは呆れた様子だが、活発艶麗なカーラを見て、いつの間にか涙が引いていた。

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