表の顔と裏の顔

 ルカが宿から出発するより一時間程前、風呂屋の奥座敷にいたヴェイスは、自分の部下に手紙を持たせ、楽士組合本部に向かわせた。

 一緒にいた高坂陣内こうさかじんないは、同田貫どうだぬきの刃を改めて、雪駄の鼻緒を取り替えた。これからルカを襲うに当たり、手抜かりが無いよう、入念な準備を怠らない。

 ヴェイスはジェスタ橋周辺の区画を、詳細に描いた地図を広げ、襲撃の計画を立てている。既にクライヴを走らせて、帝都中に散っている、隠密共を二十人は集めていた。


 ヴェイスと陣内は地図を見下ろして、最後の確認をしていたが、武田茜たけだあかねの姿がない。奥座敷の寝室を彼女に与え、男二人は居間で起居していた。

 ヴェイスは鉛筆で地図に線を書き、早口で計画を説明していたが、ふと、茜がいないのに気が付いて、


『おや? 陣内殿、茜殿は何処におられるのですか? 風呂にはいないようですが』

『寝室ではないか? ちょっと見てくる』


 と、彼は奥の寝室の前に立ち、御免、と言って戸を開けた。しかし、茜の姿はそこにない。(はてな……)と、陣内は首を傾げたが、寝室の隅にある厠から、小さな声が聞こえてきた。

 彼が扉に近付いて、じっと耳を凝らしていると、哀しげな声が聞こえてきて、押し殺してはいるが、深い溜息が漏れ出てきた。何をしているのか解らぬが、直感的に陣内は、入るべきではないと悟ったらしい。

 (余り深く詮索するのも良くないな)と、彼は自分に言い聞かせ、音を出さず慎重に、逃げるように部屋から出て行った。


 一方の武田茜は、外で陣内が聞いていたとは知らず、鏡で自分の顔を眺めていた。時に頬に触れてみて、時に顎を撫でたりする。

 肌の粒子の細やかさや、さらさらと艶の良い髪よりも、ずっと印象的なのは、黒い光彩に包まれた瞳である。それは時として、他人を射竦めるように鋭くなり、それでいて、濁りがなく澄み切っている。しかし彼女の細い指が、短い亜麻色の髪に触れると、その眼に怒りが漲った。


『この身体さえ丈夫だったら……』


 幼い頃から病弱で、髪の色が薄かったので、人の群れからは外された。毎日、寺子屋から持って帰ってくるものは劣等感で、茜は傷付くために予習をし、傷を胸に抱えて復習した。


 ――茜が十歳くらいの頃、帰路に着いていた時である。彼女に眼を付けている悪童共が四人、度胸試しと嘯いて、路地裏に彼女を引っ張り込み、卑猥な悪戯を加えようとしたことがある。

 そこで彼女を助けたのが、姉の葵だったのだ。三つ歳上の姉が、瞬きする間も与えずに、六尺棒で悪童共を叩き伏せたのだ。そして何事も無かったかのように、帰ろう、と手を伸ばされて、茜は言葉も出なかった。

 その夜は、一晩中鏡を見た。鏡で自分の顔を見た。薄い水銀を一枚隔てたその先で、自分と葵の顔が重なった。茜の胸の中で、何かがもやもやと肥大した。その劣情を燃料に、心臓が蒸気機関のように鼓動を早め、寝付くことが出来なかった。


 それからというものの、茜は姉から眼が離せなくなった。少しでも彼女に触れようと、自分から剣の指導を願い出た。相手は自分の弱さを全て知っている人だから、茜は心から安心出来たのだ。


『茜はいつまでもわたくしにベッタリだね』


 ある日、葵が例の如く、微笑みを浮かべながらこう言った。茜はとして、胸の内を見透かされた気分になった。彼女は、慌てて否定したものだが、葵は子犬のように優しく微笑んで、


『きっとわたくし達は前世でも親しかったんだろうね。今世が偶々姉妹だっただけで、前世ではどっちかが男で夫婦だったりして、うふふ』

『何故そのような事が解るんですか? 前世が解るだなんて、まるで天人のような……』

『うふふ、わたくしは天人なんかじゃないよ。因縁っていうのは遙か昔から決まっているの。今世で好き合う人、親しい人とは前世でも親しかったの。だから、茜とわたくしは死んでも生まれ変わっても、ずっと一緒にいられるんだよ』


 茜は三白眼をしばたいて、余りに奇抜な回答に、戸惑いを隠しきれていない。葵は相変わらず柔らかい表情で、妹の逡巡を見抜いたようだ。

 彼女は不意に、懐から護符を取り出して、紐にそれを通した後、茜の首に掛けてやった。顔が近くなったので、茜は顔から火が噴き出しそうであった。


『これは縁繋ぎのお守り。茜は頑固だから、これをわたくしだと思ってね』

『姉上と拙者は、永遠に一緒、なのですね』


 葵からすれば、妹に対する些細な贈り物に過ぎなかっただろう。しかし茜からしてみれば、無上の喜びに他ならない。

 何という素晴らしい空想だろう。いま共にいられるだけでも嬉しいのに、生まれ変わっても魂は共にある。頭が蕩けるような、雲の上まで舞い上がりそうな幸福感。茜は、漸く人間になれた気がしていた。


 ――そんな調子だったので、茜は、姉のことが本当に好きだった。今も鏡を見つめ、姉の面影を何処かに残す、自分の顔を見つめていた。しかし残念だったのは、髪の色の他にもう一つ、やはり雰囲気が普通なのである。

 葵の方は、常に嫣然を絶やさず、月のように幻想的である。それも、輝かしい満月ではなく、青月のような不可思議さを持っている。

 武田茜は溜息を大きくついて、首の護符を哀しく見つめ、また襟にしまって部屋から出た。


 ヴェイスは、一人で戻って来た陣内を見、茜の様子を尋ねたが、陣内は一瞬言葉に詰まり、


『うむ。どうやら……心を落ち着けているらしい。これから大仕事だから、緊張しているのだろう』

『そうですか。しかし、早くして頂かないと困りますね。茜殿の腕前はルカを討つのに必要ですから』

『そうだな。……ところでヴェイスよ。そなた、昨日何処に行っていたのだ? 拙者達が目覚める前に出ていって、昼過ぎに帰るなんて』


 と、陣内は何気なく尋ねてみた。金髪の男は、首だけ動かして彼を見て、すぐにいつもの如く、人懐こく微笑んで、友達ですよ、と軽く述べた。

 しかし高坂陣内は、彼が一瞬見せた、木彫りのような表情に、思わず息を呑んでしまった。


 二人が話しているところへ、問題の茜がやって来た。ヴェイスは彼女を横目で見て、フンと鼻で笑ったが、特に何も言わず、改めて計画を説明した。


『良いですか。我々の味方はクライヴを含め、二十人はいます。隠密組の者達ゆえ、ルカには遠く及びませんが、勢子としては充分でしょう。彼らに剣槍を持たせ、ルカを囲ませます』

『しかし、囲んだだけでルカ殿は討てませんよ。半年前だって、拙者達の重囲を突破されました』

『ふふふ。そこでお二方の腕をお借りするのです。巻狩というのをご存知ですか? それと同じ要領で、ルカを刃の輪で取り囲み、陣内殿と茜殿が彼奴を斬り捨てるのです』


 陣内はヴェイスの策を聞き、刀の柄に拳を落とし、意気軒昂に奮い立った。そして、傍らにいた茜が瞠目し、今度は驚愕で身体を震わせるような大声で、


『うむ……よウし! 成る程、それなら味方の持つ松明で、闇の中でもよく見えるだろうし、茜も一緒だ。彼奴を同田貫で真っ二つにしてくれようっ。茜、そなたも良いだろう』

『は、はい。高坂様がいらっしゃるなら、拙者も安心です。ヴェイス殿、拙者も及ばずながら、お味方致します』

『そう言って頂けると有難い。……ええ、一人で悶々と意識を陶酔させるより、余程爽快だと思いますよ。ふふふ』


 と、微醺が差したように仄赤い茜を見て、ヴェイスは、卓に両手を突いたまま、心の底から嘲るように微笑んだ。

 そういうわけで、同床異夢の三人は、早速支度を調えて、肩を並べて出て行った。外では寒風が吹いており、こんな時に限って、月が雲に隠れていた。石畳の両脇に、街灯が灯されて、それだけが町の道標。

 松明を持った陣内を先頭に、闇路の中で口も聞かず、三人はヒタヒタと歩いていった。


 ――ルカの細くて高い影が、梅の花に包まれて、組合本部の門から出た。戛々と階段を踏み鳴らし、彼が大通りに出ると、少し離れた場所で、提灯を持った男がいる。

 男は、大きく明滅の輪を描き、ルカに向かって手を振った。ルカが彼に近寄ると、


「もし……貴方様はこれからヴェネに行くウェールズ様ではありませんか?」

「ええ、私がルカ・ウェールズです」

「オオ、良かった。私はその料亭の遣いで、フリード様からのお手紙を預かった者です。貴方様をお送りするようにとも仰せつかっております」


 そう言って、提灯を持った男は、ルカを先導して歩き出した。闇から闇へ、提灯が人魂のように飛んでいく。仄かな灯りに、二つの人影が照らされている。

 男は、緊張を緩和させようと、あれこれ他愛の無い話をしていた。ルカは、適当に生返事を返していたが、(この男……。一度だけ見たことがある)と、相手がクライヴであると見抜いていた。

 なので彼は、密かに気殺の構えとなり、周囲への目配りを怠らず、いつでも背中に手を伸ばす気組みである。地面を踏み固めるように慎重な足取りで、クライヴを先に歩かせる。


 クライヴは、いと自然な口振りで、他愛も無い話をしているが、常にルカの左に立ち、提灯の灯りが、自分よりも相手の前に来るように歩いていた。

 鬱蒼とした竹林が、道の左でざわめいて、右には無機質な土塀が続く。月も星も無い晦冥で、魔魅でも出て来そうな夜である。やがて分かれ道に出ると、クライヴは右へ行こうとした。

 右は真っ暗な裏道で、左は賑やかな繁華街。ルカは苦笑を噛み殺し、彼に案内させておいた。


「オオ、見えて参りましたよ」


 と、クライヴは振り向いて言った。いつの間にか、赤土の丘の上に立っており、闇ではあるが、四方がひらけたのが解る。

 ルカは彼の横に立ち、冬風に総髪を靡かせつつ、


「もうだいぶ遅いようですが、ヴェイスはいつから待っているのですか?」

「ええ。二時間ほど前から、奥の座敷で呑んでおいでです」

「ははは……。あの狐だけではあるまい。俺に会いたい人間は、もう二人くらいいるんじゃないか?」


 ルカが言い終わらぬ内に、クライヴは小用をたす振りをして、彼に提灯を押しつけて、スッと横っ飛びに身を隠した。

 ルカは何気なく提灯を手に取ったが、途端に周りの暗闇が蠢きだし、黒装束共が飛び出した。(やはりな……)と、ルカは慌てず騒がず、そっと背中の剣に手をやった。

 すると、手柄欲しさに一人の隠密が、白刃を抜いて斬りつけた。ルカは眉間に皺を寄せ、迫り来る相手を睨み据えた――うわっ、と夜闇に短い叫びが走り、血煙が濛と立った。

 ルカは、いつの間にか剣を抜いており、彼の前で、黒装束の男が一人、無惨に斬られて死んでいる。抜き打ちに斬り捨てたのであろうが、抜く手も見せない早技に、他の者達はどよめいた。


 人垣を払った二人の侍が、物々しい雰囲気でルカと相対した。まず一人は、黒縮緬の着流しに、同田貫の大刀を帯に差し、宗十郎頭巾を被った高坂陣内。もう一人は、真紅の小袖に野袴を着けて、来国俊らいくにとしの大小を佩いた武田茜である。

 ルカと二人の侍は、あれこれ無駄口を叩かずに、視線と視線がぶつけ合う。一颯の風が枯葉を巻き上げて、ルカと彼らの間を吹き抜けた。

 黒装束共は度肝を抜かれたが、後ろにいるヴェイスの支持で、一斉に松明を点火した。辺りは昼のように明るくなり、闘技場の様相を醸し出す。


「……」

「……」


 ルカは片手に剣を持ち、取った構えは斜め青眼、彼の師匠と同じである。頭の先から爪先まで、鵜の毛で突いたような隙も無い。

 玉映のように美しいかんばせは、優男とは程遠い、静かな気魄に満ちている。眉も鼻筋も切れ長の明眸も、全てが凜々しく揺るぎない。

 一方の茜も刀を抜いて、霞の構えで相手を睨む。紅口白牙の茜は刀を抜くと、毅然とした美少年に見えてくる。と柳眉を逆立てて、黒真珠のような瞳には、異様な殺念が燃えている。


「ふふふ……」


 ヴェイスは睨み合う三人を、遠巻きに眺めながら静かに笑い、とある準備に掛かっていた。ルカを確実に仕留める支度である。

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