悪玉共から死の誘い

 手討ちか糾問か陵辱か――無事では済むまいと思っていたカーラは、ルカの居場所へ案内してくれれば、いるだけ金はやろうと言うクロケットに、思わず潸々と紅涙を流しつつ、


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 と、声を震わせて泣き伏してしまった。

 エミリオは、彼女の背中を優しくさすり、クロケットの調べ口調とは全く違う、穏やかな声音で曰く、


「罪を糺すわけではないよ。さっきお前を見てから、カーラではないかと思い、敢えて後を尾けさせていたのじゃ。だが見事な手際過ぎて、儂も掏られた瞬間が解らなかった」

「本当にごめんなさい。もう辞めようとは思っていたんですが、どうしても妹達を助けてあげたくて、つい……。この一仕事を最後に、掏摸からは足を洗おうと思っていたのが間違いでした」

「その言葉に偽りは無さそうだ。多くはないが、この財布はお前にあげる。そして、これを最後に、掏摸は辞めることじゃ」


 カーラは何度も礼を言って財布を受け取った。そして、ルカの居場所へ案内することを固く誓った。

 クロケットは少し考えてから、


「エミリオよ。ジパングの者達も莫迦ではない。当家へあまり人手が多くては、連中に怪しまれるだろう。ひとまず、カーラを案内にルカの居場所を訪ねて参れ」

「はっ。カーラ、道案内を宜しく頼むぞ。儂は老いぼれで、ちょっと物覚えが悪くてのう……ははは」

「エミリオ、私と十歳しか離れていないのに、それは無いだろう。カーラよ、この男の戯れには耳を貸してはならんぞ。では、明日には吉左右が聞けるだろうから楽しみに待っておるぞ。そうだ、我が家の馬車に乗っていくが良い」


 クロケットは手を叩いて下男を呼び、馬車を用意するように言いつけた。エミリオは一礼して立ち上がり、カーラを眼で促して、そのままそこから歩き出した。

 カーラは感激に身体を震わせて、暫く立ち上がれなかった。所詮、無事に此処から出られぬと、すっかり諦めていた時に、思いがけなく、赦免の約束を得た上に、妹や弟を救う伝手も出来たのだ。カーラは無上の歓喜に包まれて、随喜の涙を流していた。

 しかし、彼女は不意に顔を上げ、華奢な腕で眼を拭い、先へ行こうとするエミリオへ、


「お爺さん、ちょっと待って。ミーナ様に会ってみたいんですけど……何処にいるんですか?」

「オオ、そうだった。このお屋敷の一室にいるぞ。儂も薬を差し上げなくてはいけないから、案内しよう」


 エミリオに案内され、カーラは茶室から離れて母屋に入り、吊下げ灯や赤絨毯が美しい、豪奢な大広間を通り抜け、二階の廊下の奥にある、檜戸の前に立った。

 カーラは、天井の花模様や壁の装飾に眼を奪われ、自分の境遇を恥じらった。横にあった鏡を見て、彼女が、申し訳程度に髪をいじっていると、エミリオがガラリと引き戸を開けた。

 遅れてカーラが部屋に入ると、明かりが殆ど存在せず、僅かに蝋燭が灯っている。しかも火が周りに移らぬように、鍵の掛かった硝子の箱に入っている。


 カーラが眼を細めて見廻すと、部屋の奥で、ぽつねんと膝を抱く人がいた。腰まで伸びる銀髪に、少し窶れた白い顔。虚ろな翠眼で闇を見つめる人は、見るに堪えぬミーナであった。

 能面のように沈鬱な表情で、幼い頃、ルカから貰った小物入れを見つめ、悄然と俯いている。その愍然たる姿を見て、カーラは柳眉を八の字にして、思わず眼を背けてしまった。

 ミーナは、突然入って来た二人には眼もくれず、一心不乱に何か呟いている。カーラが耳を澄ましてみると、ぼそぼそと消え入りそうな声量で、


「ルカさん……ルカさん……ルカさん……」


 と、紅唇を僅かに動かしている。蘭瞼まなじりの周りには、疲労から出来る隈があり、この世に、幸福など無いと言わんばかりである。

 部屋をよく見てみると、縄をぶら下げられそうな物はなく、椅子や牀にも持ち手が無い。勿論、刃物類は皆無である。

 エミリオは、立ち竦んでしまったカーラに構わず、ミーナの前に膝を突き、


「ミーナ様、ミーナ様。またお食事に殆ど手を付けられなかったと聞きました。このままでは身体も病気になってしまいますよ」

「……良いのです。家も優しい人達も守れなかった私なんて……死んでしまった方が良い」

「いけません。さ、ミーナ様、良い薬を取り寄せて参りました。お飲みください」

「いりません……殺して……殺してください……」


 と、ミーナはそぞろ涙を流し、膝に顔を埋めて身体を震わせた。エミリオは彼女を掻き口説いたが、容易に泣くのを止めないので、困り果てている様子。

 カーラは、意を決してミーナの手を掴み、みどりの瞳に力を宿し、真っ直ぐにミーナの顔を見た。


「貴女は……確か、カーラさん……? どうして此処に?」

「エミリオさんに連れられてやって来ました。ミーナ様、簡単に死ぬなんて言わないでください。あなたが会いたがっている、ルカ・ウェールズさんの居場所もハンスと一緒に突き止めました」

「ハンス……? あ、カーラさんの恋人の……。その方も助かったのですね」


 カーラはハンスとの関係を、ただの友人だと言おうとしたが、今はそれどころではないと思い、心外ではあったのだが、相手の言葉を首肯して、


「はい。彼が今、ルカさんの所にいます。なので、ミーナ様も塞ぎ込まずに、諦めないでください。ルカさんもお友達が死んだら悲しみます。あたしに任せてください」

「有難うございます。……どうしてか解りませんが、カーラさんが他人には思えなくて、凄く安心します。貴女もお気を付けて」


 不憫な佳人は頭を下げて、カーラとエミリオを見送った。白玉のようなかんばせは、疲労と哀寂に打ち沈んだままではあるが、僅かに希望を見出して、仄かな血の気が差していた。

 エミリオは、近くにいた家政婦の一人を呼びつけて、用意した秘薬の数々を、ミーナに飲ますことを言い残し、カーラを連れて出発した。硝子窓の外からは、既に真っ赤な夕陽が差していた。


 ――年明け一月の寒さは、陽が沈めば一段と厳しくなり、顔と爪の先から沁みてくる。遙か彼方の山間に、僅かに紅い陽はあるが、もう町はすっかり夜の顔、辻の街灯や家の灯りが付き始め、まるで群れ蛍のようである。

 仕事から帰る者達が、忙しなく行き交う往来の脇、楽士組合の本部がある。そこの二階の一部屋で、ハンスは火鉢に当たりつつ、溜息ばかりついていた。彼と対面する形で、ルカは火箸で炭をいじっている。


「どうしたんだろう……もう一週間になるのに……」

「心配か」

「当たり前ですよ。あんなに会いたがってたんだから、すぐにやって来ると思ってたのに。もしかすると、ジンナイに捕まったか、呑んだくれの親父さんの博打に売られたのかも……。お母さんは、もう随分前に死んでしまったらしいですし」


 ハンスは焦燥を募らせて、ここ数日、帝都の彼方此方を出歩いて、ミーナの行方とカーラの姿を尋ねたが、皆目手掛かりが無かったのだ。夜はルカと一緒になって、ジパングに入り込む密談を重ねている。

 しかし、ハンスは沈鬱な表情で、すっかり悄気てしまっていた。無論、彼が案ずるのはカーラである。風呂でも牀でも食事でも、独り言と溜息を漏らしていた。

 ルカは、涼やかな切れ眼でハンスを見、玲瓏の面を微笑ませ、


「ハンス、お前はカーラの家庭事情をよく知っているんだな。話を聞いていると、お前達二人は相当信頼し合っているようで、俺は羨ましいぞ」

「……そうだったらどれだけ良かったか」

「そうに決まっているだろう。信頼していなければ、身内の事情を話したり家にあげたりはしない」

「でも、カーラさんは……」


 と、言い掛けたところで、ハンスは喉まで出掛かった言葉を止めた。同時に、部屋の外で、板床を鳴らす靴の音がした。

 音の主は、ルカ達の部屋の戸を叩き、


「ウェールズ様。まだおやすみではありませんか?」

「起きておりますよ。何か御用ですか?」

「はい。ちょっと火急の用だと言う方がいまして、お手紙を持ってこられました。扉を開けてもよろしいですか?」


 どうぞ、とルカが短く言うと、部屋の温い空気が吐き出され、廊下の冷ややかな空気が、入れ替わりに中に浸ってくる。

 部屋に入ってきた職員は、折り畳まれた手紙をルカに渡した。ルカは封を切って読み下したが、じっと天井を見つめ、何か思案顔を浮かべていた。

 ハンスが手紙について尋ねても、彼は難しい顔のまま答えない。やがてルカは職員に向き直り、


「委細承知しました、とご使者にお伝えください。後で必ず参りますので」

「解りました。ご使者にはお目にかからなくてよろしいのですか?」

「構いません」


 では、とその者は一揖為して出て行った。遠ざかっていく靴音を聞きながら、ルカは恬然として、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、横で不思議そうな顔をするハンスに向かって、留守番しているように言いつけた。ハンスは当然驚いて、何故かと詰問した。

 ルカは鼻先で笑い、卓に置いてある手紙を眼で示した。ハンスが取り上げて読んでみると、ヴェイス・フリードからの手紙である。


 =拝啓 ルカ・ウェールズ様

 七草の候、貴殿におかれましては、益々ご清祥のことお慶び申し上げます。

 先日は、私の友人の癇癪と不手際により、ルカ様の平穏な世捨て人生活へ、多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。本人を初め、私も不誠実な対応をしましたこと、心よりお詫び申し上げます。

 ジパング人は頑固者が多く、世間の悪い噂など意に介しませんので、ルカ様はお気に召さないでしょうが、どうかお許し頂けたら幸いです。

 大変恐縮ながらも、まずは書中を以てお詫びさせて頂きます。


 さて先日、貴殿にお目に掛かった時は、路傍であった上、雑踏でもありましたので失礼致しましたが、今宵はゆっくりと旧交を温めたいと思っております。

 また私は、ルカ様がお捜しの宝物、ミーナ様の身柄を保護致しました。恋い焦がれているルカ様がいらっしゃらないので、ひどく怯えておいでです。貴殿の顔を見れば、けだし健康を取り戻されるに違いありません。

 至急、ジェスタ橋の近くにある、ヴェネという店までご足労願います。是非、一献お付き合い頂ければ、幸甚の至りでございます。

 ヴェイス・フリード 敬具=


 美辞麗句が巧妙に書き連ねてあるが、所々でルカを嘲笑し、悪意たっぷりの手紙である。無論、これが罠だということは、ハンスから見ても明白だ。

 彼は途端に怒りを露わにし、憤激して手紙を投げた。そして、ルカの袖を掴むようにして、


「ルカさん、駄目ですよ! こんな見え透いた罠に掛かったら殺されますっ。止してください、僕は大反対です!」

「俺も罠だと思っている。しかし、こちらがミーナの居場所を突き止めてない以上、奴らに先を越された可能性は充分にある。何しろヴェイスは、帝都中に部下がいるから情報戦では奴の方が上だ。それに、無駄足だったとしても奴らに釘は刺せる」

「で、でも……」

「お前が昼間、食事もせずにカーラを捜し廻っているのと同じだ。大切な人のためなら、誰だって命を惜しまない。俺もそうだ」


 と、ルカはハンスの危惧を笑い、彼の憂いを聞き流した。そして彼の手を解いて、頭を軽く撫でてやり、


「たとえ危険を冒してでも、前へと進まなければ道は開けない。心配するな、朝までには帰って来るから。お前は火の始末だけして眠っていれば良い」


 ハンスはなおも心配そうな表情で、狼狽しているが、ルカは手早く身支度し、黒鞘の長剣を手に取った。

 ハンスはそれを見て、自分も身支度をし始めた。こうなっては反対し得ないが、それならばルカに加勢しようという心。

 ルカはそれを押し留め、明眸に凜々しい光を宿し、少し語気を強くして、


「つまらない意地を張るな。ジパングに潜入した暁には、お前にも充分に働いてもらうが、今はその時では無い」

「ルカさんまで僕を子供扱いするんですかっ。僕は心配でならないから付いていくんです。自分のことぐらい自分で守れますっ」

「違う。お前を子供扱いするつもりはない。お前は立派な小戦士だ。だが、敵は飛び道具のみならず、闇討ち騙し討ちなど卑怯な手も厭わないだろう。母君から貰った身体を容易に瘡付けるな」


 そう言われては、ハンスも俯かざるを得なかった。ルカは、付いていきたそうにする彼を前に、長剣の刃毀れを改めて、満足げに頷いた。

 彼からしてみれば、漆黒の闇は却って好都合。武田茜たけだあかねは北辰一刀流、高坂陣内こうさかじんないは示現流の達人だ。ヴェイスはともかく、陽の高い内に、この二人から同時に襲われては、如何にルカでも勝ち目は薄い。

 また、口には出さないが、ルカは心の裡で、万が一ハンスに何かあった場合、彼の母親とカーラに合わせる顔が無いとも思っていた。真っ暗闇の中で、彼を守り切れるとは限らない。


 ハンスは、不服そうに唇を尖らせたが、そのまま牀に腰を下ろした。ルカは長剣を背負い、扉を開けて外に出て、少し振り向いて微笑んだ。


「では、頼むぞ。火の始末だけはきちんとしてくれ。夜更かしせず、早く寝ろよ」


 そう言い残して、彼は扉を閉めた。ハンスは、まだ不安が拭えぬらしく、そわそわと部屋を逍遙していた。

 壁に掛けられた蝋燭が、板張りの廊下を照らす中、ルカは階段に姿を消した。ハンスは窓を開けて顔を出し、薄暗い道を行く、ルカの背中を見送った。やがて彼が、夜闇の中に消えてしまうと、ハンスは琥珀色の瞳に憂いをたたえ、


「ああ……行っちゃった……。大丈夫かな……」


 小寒を思わせる、冷ややかな節東風せつこちが吹きだして、小さく寒い風の渦が、夜の闇で彷徨っている。桜吹雪の濃艶には及ばぬが、揉み散らされる梅の点々が、闇の中で白く舞い、ルカの背中を追っている。

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