女掏摸と老翁と

 帝都で捕物騒動があってから、一週間が経過した。今日も東地区の往来は、盛んな人で賑わっている。商家や飯屋の呼び込みに、威勢の良い屋台も場を賑わす。

 野天の方を見てみれば、見世物小屋を筆頭に、砂漠の国からの行商人、南国の果実や北の毛皮細工を売る者達が、所狭しと軒を並べていた。今もまた、雑多な人集りに揉まれる如く、鱈や鰤を荷車くるまに載せて、魚屋が遠くから歩いて来た。

 その男の後ろから、今度は煙草売りがやって来る。彼の背嚢の中には、紙巻き煙草が入っている。すると、すいません、と眼鏡橋の中央で、煙草売りを呼び止める、みどりの瞳の少女がいた。


 膝丈くらいの外套を羽織り、襟元に小さな宝石を付け、その宝石よりも美麗なかんばせに、珊瑚縁の眼鏡を掛けて、毛皮の帽子を被っている。すっかり服装すがたを変えたこの少女こそ、カーラ・サイツその人だ。

 彼女は紙巻煙草を十本買い、口元に一本咥えたまま、ゆっくりと紫煙を燻らせつつ、腰の衣嚢いのうに手を突っ込んで、辺りを静かに見廻した。橋の欄干に腰掛けて、足をぶらつかせる彼女の姿は、何処から見ても不良である。

 カーラは咥え煙草のまま、瞳だけ動かしていたのだが、一カ所に留まるわけにもいかぬので、何食わぬ顔で歩き出した。しかし、ふと彼女は足を止め、橋の袂の方を見た。看板の周りに、人集りが出来ている。


 野次馬共が見る先には、獄門台が置かれてあり、痛ましい生首が据えてあった。帝都によくいるコソ泥で、御定法に触れたので、晒し首となったのだ。

 自業自得そのものだが、浮名というには余りにも、酷い衆目に晒されている。カーラはその首を見て、ゴクリと生唾を呑み込んだ。思わず彼女は首をさすり、己の末路を想像した。

 今彼女が着ている物はみな、盗んだ金で用意した物である。かつての彼女なら、何も思わなかっただろうが、どうも最近、ハンスの言葉が脳裏から離れない。


「ふん……縁起でもない……。まあどうでも良いけど」


 カーラは吸い終わった煙草を、ピッと川に放り投げ、蝟集した人群れに入っていった。

 少しすると、莫迦な顔をしていた野次馬が、あれッ、と間抜けな声を出し、二人ほどで喧しく、懐や腰をはたき始めた。


「す、掏摸だ。掏摸にやられたっ。さっき集金してきた金がっ。誰だ⁉」

「お、俺もだっ。つけ払いの用意が!」


 血眼になって叫ぶので、周りにいた者達も、お互いを不審そうに見つめ合う。掏られた男は、狂人のように駆け出して、近くの番所に飛び込んだ。

 昼飯の途中だった衛兵は、食べかけの水団もそのままに、面倒そうにやって来た。お節介な者達は、彼を取り囲み、向こうへ行ったジパング人が怪しいだの、さっき俺の後ろにいたアフリ人の人相が悪かっただの、関係ないのに騒々しい。


 カーラは喧しい人垣から抜け出して、澄ました顔で河岸通りを歩いていった。暫く歩いた彼女は、鍛治屋の影に身を隠し、少し辺りを見廻して、今掏った財布を取り出した。

 中身を見たカーラは、深々と溜息を吐き、


「こんな端金じゃどうしようもない。全く貧乏はこれだから嫌だよ」


 と、財布の殻を川に捨て、焦れ気味に煙草へ火を付けた。彼女は、フッと白い煙を吐き、(ああ、もう少しまとまった金が手に入らないかな? そうすれば、何も気掛かりは無くなるのに)と、気ばかり急いている。

 今日の彼女は、余程焦燥していたようである。いつもなら、同じ場所で一日に、二度同じ仕事はせぬのだが、また長い塀に沿って歩き出した。

 カーラが少し歩いていくと、薬問屋の軒先で、白髪で総髪の老翁が、竹杖を突いて買い物をしていた。老翁は、真鍮の火鉢の近くに立って、書留と薬の数とを読み合わせている。


「これで薬は全部揃ったかの? 最近は随分と尋ね歩いてしまったからのう……」


 老翁は腰をさすりながら、店主と和やかに談笑している。店主は三、四種の薬を小袋に入れ、算盤を軽く弾きつつ、


「いやあ、シナの薬草などは取り寄せるのに苦労しましたよ。手前どもの店にはありませんので……はい、お代は金貨二枚と銀貨四枚になります」

「さようか。釣りは取っておきなさい。また頼むぞ」


 と、老翁は財布を取り出して支払った。その重そうな革財布を、通りすがりに、カーラが横目に見てしまった。


 何の薬を求めたのか、薬屋を出た老翁は、そのまま大通りへと向かったが、不意に横の研ぎ屋に入り、そこの店先で、また三十分ほど話し込んだ。

 カーラは斜向かいの呉服屋で、安売りのものを見ている振りをして、老翁の背中を見つめていた。何処かで見たような気はするが、今ひとつピンと来ない。

 一見、痩身で背も低く、年齢は恐らく七十過ぎ。小金持ちという風貌で、緞子の上衣と黒地の脚衣を纏い、革靴で石畳を踏み鳴らして歩いていく。竹杖を突きながらではあるが、かなりの高齢であるにも関わらず、いと達者な足取りだ。


 カーラは老翁を細かく観察しながら、間髪の隙を狙っていた。しかし、相手はかなり心得のある武人のようで、容易にその隙が見られない。

 老翁は、何処吹く風かという態度。大通りから脇にそれ、煉瓦橋を越えて、東地区でも帝城に近い、官邸街へと入っていく。そこは帝城外堀の内にあり、居並ぶ家屋敷は、全て役宅や公邸であり、普通の住居は無い筈だが、老翁は平然と歩いていた。


「良いのかな……? でも、そんなことに怯えていられないっ」


 カーラは臍を固めて、老翁に近付いていく。その時丁度、都合良く、とある屋敷の塀の影から、絢爛な馬車が顔を出してきた。十字路の出会い頭であったので、前へ行く老翁は、三歩ほど戻って来た。

 (今だ!)と、カーラの翠眼がキラリと光る。心は一念に財布へ向かい、身体は老翁に寄っていく。彼女は小石にでも躓いた振りをして、老翁の真横で蹌踉めいた。

 

「おお、危ない」

「あ、お爺さん。ごめんなさい」


 絡んですり抜けた銀髪少女は、素朴な微笑を見せて立ち上がり、会釈をして去ろうとした――途端に、彼女の右手を手強く掴んだ者がいる。はっと彼女が振り返ると、件の老翁である。

 カーラは愕然として、振りほどこうとしたのだが、相手の力は意外に強く、粘り強くて仕方が無い。老翁は面倒と思ったか、彼女をぐいと引き寄せて、勢いづいた背中を押し、彼女の身体を地面に倒す。

 カーラは利き腕を捻じ上げられ、死罪になる恐怖が湧いてきた。


「い、痛い、痛いよっ。お爺さん、すみませんっ。今掏った財布は返します、許してくださいっ。魔が、魔が差したんですっ。どうか、どうか奉行所にだけは」

「む、ならぬ! 一瞬にも満たない隙を狙って、儂の懐中から財布を掏り盗る手並み、出来心に思えん。虫も殺さぬような顔をして、とんでもない娘だ」

「いや、いや! 助けてっ。ハンス……ルカさん……あッ!」


 涙目になっていたカーラは、うなじに手刀を落とされて、ぐったりと気を失った。老翁は、彼女の身体を軽々と担ぎ上げ、有無を言わさず歩き出した。

 そして、宏壮な構えの大屋敷、板塀に沿って歩いたかと思うと、その屋敷の裏門へ、我が物顔で入り込んだ。

 老翁はカーラを担いだまま、中庭を歩いていく。そこは幽雅なジパング庭園で、築山があり、池泉があり、馥郁ふくいくと咲く花がある。水路を渡す石橋と、通路に置かれた石灯籠、そしてそれに色を添える雪が美しい。

 

 雪月花の庭園を、老翁は真っ直ぐ歩いていき、竹林に囲まれた数寄屋の前で、カーラの身体を下ろした。彼がカーラの頬を、ペチペチ打つと、彼女は呻き声を上げて眼を覚ました。

 起き上がったカーラは、遠くに見える屋敷の壮麗さと、美しい庭園に、思わず気を奪われた。並々ならぬ家柄であることは相違無いが、何故此処まで連れて来られたのか、皆目見当がつかぬのだ。

 カーラが呆然と辺りを見廻していると、老翁は優しく微笑んで、


「此処で暫く待っていなさい」


 と、言い捨てた。カーラはもう逃げる気も失せて、はい、と機械的に頷いた。老翁は数寄屋の前に立ち、


「クロケット様、クロケット様。只今戻りましたぞ」

「オオ、早かったな――エミリオよ」


 その声と共に、数寄屋の障子がスーと開いた。風炉先屏風に描かれた水墨画が、行灯の光りに照らされて趣深い。書院造りの床の間には、達筆な掛け軸と生け花が飾られている。違い棚にある陶器もみな、非常に良質なものである。

 その茶室の中で、胡坐をかいている男がいた。刺繍をほどこした黒絹の上衣の右胸には、黄金で作られた徽章がある。この初老の男は、帝国監察長官のピーター・クロケット伯爵だ。

 クロケット伯爵は十四年前、旧都ハープシュタットの長官として働いていた。その頃、イリーナ・フォン・クライバーを筆頭に、冷飯喰らいの者共が、帝国転覆の陰謀を企てた。クロケットは自身、不穏な輩を取り調べ、死罪に閉門、追放など、然るべき処分を宣告した。


 クロケットは自分で点てた茶を飲みながら、


「何を買ってきたのか? 私には薬学のことはよく解らぬが、異国の薬のようだ」

「はい。シナ国やオセアニア国、果てはジパングの薬草を取り寄せて参りました。この大陸原産の薬では効き目がないと思いまして」

「そうか、如何に属国とはいえ、舶来品だ。定めし高価であったろう。後で支払って遣わす。お主が連れて来た令嬢は、今も当家におるぞ」


 そこまで聞いて、カーラは漸く老翁を思い出した。自分が高坂陣内こうさかじんないに襲われて、薄れゆく意識の中で見た男。不意にミーナ様を助け出して、何処かへ去って行ったエミリオだ。

 (とんだ人を狙ってしまった……)と、カーラは全身総毛だっていた。エミリオといえば、帝国有数の剣客として、諸国にその名を轟かせている。ルカも彼に師事していたが、カーラはそれを知らなかった。

 如何にカーラが手慣れているとはいえ、鵜の毛で突いたような隙もなく、かつ鋭敏なエミリオの手に掛かれば、苦も無く捕まる筈である。


 ふと、クロケットは不思議そうにエミリオの後ろを見て、


「誰だ、そこにいる小娘は。お主の孫か?」

「いいえ、こちらにおりますのは、カーラ・サイツと申しまして、女掏摸でございます。」

「カーラ、カーラ……ああ、確か手配書を見たことがある。何故連れてきたのかね?」

「この者ともう一人、ハンスという密偵が、ルカの居場所を知っているからでございます」


 エミリオがそう言うと、クロケットは立ち上がり、庭先で座るカーラを見下ろした。

 カーラも「ルカ」という一言で、恐怖に震えていた紅唇を、思わず閉じて顔を上げた。


「手掛かりになる者とあれば、貴賤は問わぬ。エミリオ、取り調べはお主の方が良いだろう。カーラ、今からエミリオの質問に答えるが良い」


 はい、エミリオは短く答え、カーラへ厳かに向き直った。風貌こそ好々爺だが、眸には何とも言えぬ迫力がある。普段は無礼で、大人を嘗めきっているカーラも、今初めて凄まじい威圧に晒されて、姿勢を崩す気も起きない。

 エミリオは努めて優しい口調で、ことの経緯を話し始めた。


 ――十四年前、イリーナを筆頭にした帝国転覆の陰謀が発覚した。その時、帝都にいたエミリオも、潜伏していた不穏な武装集団を摘発した。

 しかし最近になってクロケットは、永蟄居になった筈のイリーナが、屋敷を出奔して、帝都に入ったという噂を聞いた。確たる証拠は掴めていないが、イリーナは屋敷にいなかった。


 帝国は未だに強盛だとはいえ、有力な貴族を罷免して、要らざる干渉を排したばかりである。また、征服された諸王国も、強権的な支配に反発し、不穏な空気は常にある。要するに、支配が盤石なのは直轄地だけである。

 そして、最も帝国に反抗しうる勢力は、東の島国ジパングだ。イリーナが、かの国の使者と盛んに会っていたこと、属国となった今でも軍事訓練を絶やさぬこと、国境を閉じていること――クロケットは、禍根がジパングにあると感じていた。

 こう気が付いたので彼は、かつての部下であるエミリオを招聘し、密かに調査命令を授けたのだ。


 それで彼は、自分の弟子であるルカを見つけ出し、力を合わせたいと願っていた。また一方では、十一年前に消息を絶ったヨーデルの、一人娘であるミーナについても調べていた。

 だが、一つ困ったことがある。大火の晩に助け出し、遙々この屋敷まで運んだミーナが、余りの恐怖に塞ぎ込み、抑鬱状態になってしまった。殆ど食事を摂らず、日がな一日、暗い部屋で座っている。尋常の医薬品では、効果の無い病である。


「――カーラ、こういうわけだ。お前のことも、ミーナ様のこともよく知っている」

「は、はぁ……。それで、あたしはどうすれば良いんですか?」

「うむ。お前は、ルカの居場所を知っているだろう。ルカらしき男が、少し前に怪しいジパング人二人とヴェイスを相手に、何か騒動を起こした時、お前らしき者とハンスが、一緒にいたと聞いている」

「ああ、あの時、ルカさんがあたしの妹達を助けてくれたんです」


 それを聞くと、エミリオは満足げに頷いて、クロケットの方を見た。クロケットはカーラを見下ろしたまま、厳格な調べ口調となり、


「それではカーラ・サイツよ。そなたの罪はよく存じておる。だが、今一度反省し、心を入れ替えて我らと共に働くのであれば、密かに手を廻し、そなたの罪を許して遣わそう。そして切羽に詰まる金があるのなら、私が払って遣わす」


 と、威厳たっぷりに言ってのけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る