閑話 江戸の夜空と策謀と

 ――カーラが捕手から逃れていた時、遠く離れたジパングの本府、江戸城では、一人の女が舞っていた。城の上の寒空に、月が皎々として冴え渡り、周りの星を霞ませている。

 神楽堂の周りには、篝火が明るく燃え盛り、火の粉が夜空を焦がしている。白衣と緋袴を纏い、千早を上に羽織った人は、たった今咲いた、百合の花のように美しい。首元に見える伊達襟が、色白で端正な面を際立たせていた。

 三鼓、三管、両弦の音色に合わせ、神楽鈴を持った麗人は、嫋やかな白鶴はっかくのように舞っている。幽寂の舞台の上で、リン、リンと鈴を鳴らすのは、他ならぬ武田葵たけだあおいである。


 今宵は初春の神事であり、直来の前に、葵が神に祈っている。ゆったりと身体を動かして、白い足袋を辷らす容貌は、月も恥じらうばかりである。

 齢十九にして、神事を任されている葵は、主君と家臣団の前で、黒い雲鬢うんびんをすべらかし、たえなる囃子のに合わせ、袖を翻して舞っている。舞うごとに彼女の瞳は澄み輝き、黒真珠のようになっていた。

 身体を廻し、柳腰を捌き、神楽鈴を振り鳴らす。喨々たる雅楽に合わせ、嫋やかに舞う葵の姿は、嫦娥じょうがが下りてきたかのようである。


『なんと……美しい……』『紫の上や花散里にも引けを取るまい。拙者の息子に紹介したいくらいだ』『止した方が良いぞ、井上殿。あれの妹が身内になるのだから』


 旗本達は、神楽堂を囲む桟敷に座り、空の鏡のような葵に見惚れ、小声で彼女を褒めそやす。

 ジパングの主である源頼経みなもとのよりつねは、家臣達より一段高い桟敷に座り、満足げに頷いていた。老中首座、柳沢光圀やなぎさわみつくにの姪であり、膝の上に抱いたこともある葵のことを、彼は孫のように思っている。

 彼にも息子はいるのだが、長らく恵まれなかったので、まだ八歳なのである。七十に近い身の上では、元服まで見届けられるか怪しいものだ。それで彼は、武田姉妹に後見を任せるつもりである。


『――うむ、見事。見事であったぞ葵』

『殿、有難う存じます。皆様、拙い巫女神楽でしたが、平にご容赦を』


 と、舞い終わった葵は、一揖為して舞台から降りた。そこまでは、柔らかな佳人だったのだが、巫女装束を脱ぎ捨てて、藍色の小袖を纏い、軽衫袴を佩いた途端、彼女は花が咲いたような笑顔になった。

 如何に神妙そうに舞っていても、彼女の性根は武士である。舞いの後の直来に、心をわくわく踊らせている。やがて屠蘇器が配られて、頼経が漆の杯を掲げて号令した。

 家臣達も杯を上げ、


『日ノ本の万物殷富と、大殿の健康長寿、そして我々家臣一同の栄耀栄華をお祈り申し上げて、千歳!』


 頼経は葵を差し招き、手ずから彼女に屠蘇器を与えた。

 彼女は、飯茶碗くらいに大きな杯を取り出して、銚子から屠蘇をそれに注ぎ、一息にぐいと飲み干した。

 その後は、通常の酒宴となるわけだが、葵は徳利を十本空にして、仄赤い顔で気分良く、江戸調子の小唄自慢をやり出した。

 

初春はつはるや 角に松竹 伊勢海老や 締めも橙 うらじろの 鳥追う声もうららかに! さ、各々方もご一緒に!』


 やや固くなっていた家臣達も、葵の舞踊と唄に絆されて、杯を挙げて歓談し始めた。弄月の置酒高会は、厳冬の寒さも関係無く、無礼講の宴となる。

 上役が下役にお酌をし、肩を組んで呑むのを見、頼経は、優しい笑みを浮かべていたが、深謀を宿した双眸は、鷹のように鋭く光っている。

 時を見計らって、彼は武田葵に目配せした。それを横目に見、ついさっきまで赤ら顔だった葵は、即座に素面に戻り、ニヤリと笑って主君に近付いた。


 頼経は、葵と酌み交わしている風を装って、こっそりと彼女へ囁いた。


『葵、恐山に捕えている者達はいかがしておるか? そなたの言う通り、見張りを半分に減らしているが……』

『誰も逃亡しておりません。あの男も罠に掛かったようで、ヒルデを助けるべく、恐山の中に入り込んだようでございます。既に牢奉行の西山銀兵衛にしやまぎんべえ殿に報告し、山狩りと厳戒態勢を敷かせてあります』

『うむ。奴がそなたにハーフンから放逐されて以来、単独で我が国に入り込んだのは存じていたが、一向に行方が知れなかった。そなたの謀には恐れ入ったぞ』


 葵は敢えて宴席を過剰に盛り上げて、自分と頼経へ家臣達の注意が向かないようにした。誰が間者で、誰が味方かは、彼女にも解らないからである。

 しかしそれは策の一つであり、彼女自身、堅苦しいことは苦手である。では――と手を付いて主君の前を辞した後、すぐに満面の笑顔を見せ、笛を吹いたり鼓を打ったりして、彼女を中心に宴席は大いに盛り上がり、夜更けに漸く解散した。


 葵は神田橋門から城を辞し、長屋の木戸を脇目に見、聖橋を通って、駿河台にある屋敷に帰宅した。彼女は五千石取りの旗本だが、知行地の陣屋には殆ど帰らず、基本的に茜と此処で暮らしている。

 彼女は最近、塀の中に土蔵を設けたが、それに出入口が存在しない。その土蔵の白壁を横目に、母屋に入って床の間の掛け軸をハラリと上げた。そこには鍵の掛かった小さな扉があり、そこを開けてみると、地下に続く階段がある。

 葵が中に入り、暫く進んでいくと、鉄の梯子が見えてきた。そこを上ってまた木戸を開けると、さっきの土蔵の中である。


『うふふ……。此処に、あの可愛いハンスが来てくれるのかぁ……』


 と、彼女は行灯に火を灯し、不気味にも思えるほど、良い笑顔で辺りを見廻した。人形だの双六だの赤べこだのといった、子供向けの玩具は並んでいるが、窓も出口も存在しない。座敷牢のようなものである。

 こんな怖ろしいものを、安くはない金を払って造ったが、彼女は一切後悔していない。むしろ、ハンスを此処に監禁し、彼を可愛がる妄想に余念が無い。

 (最初は暴れるだろうけど、絶対にお姉ちゃんって言わせてあげる……)と、彼女の歪んだ愛情は、ハンスの顔を見てから半年過ぎても、衰えるどころか、益々強くなっている。


 葵はひとしきり妄想していたが、やがて母屋の方に戻り、湯を沸かして身体を洗いつつ、今度は別のことを考えていた。

 彼女と茜の小姓や下女は、半年くらい前まで、皆屋敷に住んでいた。だが、茜がルカを仕留める役目を受けた後、程なくして、皆陣屋に行ってしまったのだ。

 それまでは、茜が厨房を主導していたが、葵が仕切るようになってから、生きた蛇や火薬を混ぜた飯など、闇鍋のような料理となったのだ。独特な味覚の持ち主と、常人との間では、埋められない溝がある。


『全く皆、どうして江戸表から出て行ったんだろう? わたくしの美味しい料理も食べられなくなるのに……。ま、良いかっ。うふふ……ハンスにはわたくしの手料理だけ食べさせてあげる』


 と、彼女は風呂から上がった後、柳のように美しい裸体を投げ出して、最近帝国から取り寄せた、熊の縫いぐるみを握りしめ、部屋の畳で転がった。この横着女の悪癖で、湯の後は服を着ない。その後、眠ってしまうまでが常である。

 茜が一緒にいた頃は、甲斐甲斐しく世話を焼いていたのだが、今の葵は一人である。濡れた髪も纏めぬまま、見た目だけ奥ゆかしい麗人は、安らかな寝息を立て始めた。


『うーん……茜……。大丈夫だからね……泣かないで……。お姉ちゃんが付いているからね……』


 ――ジパングのお船手頭ふねてがしら塚原一角つかはらいっかくは、初春の宴会が終わるや否、足早に帰路に着いた。一角は提灯を片手に持ち、水鶏橋をバタバタと踏み鳴らし、根岸にある屋敷に向かっていた。

 宴会の料理をお重に包み、拝領の酒を小脇に抱え、彼は門に跳び込んだ。そして、玄関で草履を脱ぎながら、


「クララ、クララッ。今帰ったぞ、起きておるか?」

「……はい。お帰りなさいませ」


 か細い声が奥から響き、振り袖姿の佳人が現われた。楚々と寄ってくる彼女を見、一角は安堵の笑みを浮かべ、彼女の介添えを受けながら、奥の間に腰を下ろした。

 蔵前風の丸輪髷に、木綿地の着物を纏い、曙染めの被布を羽織っている。この痩せ型の美人こそ、半年前に拉致された、港町のクララである。

 髪染めで金髪を黒く染め、ジパング風の服装をしていれば、混血児に見えなくもない。クララはジパングに来て以来、一角に軟禁されているらしい。


 しかし此処に来てから、クララにとって、喜ぶべき事が一つある。あの重い結核が、ジパングの空気や食べ物で、幾分か良くなっていることである。

 未だに人より痩せているが、蒼暗かった眼の隈や、病的であった頬痩せも、ずっと健康らしく見えてくる。彼女の旦那を気取る一角も、綺麗な織物を買ってきたり、江戸見物に連れて行ったりし、偏愛家なりに世話を焼いていた。

 それに絆されたクララもまた、彼に朝夕の食事を用意してやったり、屋敷の掃除をしたりする。時には、一角から頼みもしないのに、情を交わすこともある。どうもこの女、見た目に似合わず、世渡り上手なようである。


「イッカクさま、今日は確か、初春の宴会でしたよね? 余り酔われていないようですが」


 と、彼女は一角の名前を親しげに呼び、彼の狩衣を片付けて、側に座って酌をする。一角は彼女の肩を優しく抱き、


「うむ。拙者は酒が好きでな。昔は趣味が酒の一気呑みだったくらいだ」

「へえ。では、どうしてお屋敷では余り呑まれないのですか?」

「酒で大失敗することが余りに多かったので、そなたの前で醜態は見せられないからのう」


 と、一角はクララと和やかに談笑していた。彼に取っては、堅苦しい宴会より、やっと手に入れた紅裙と、質素に呑んでいる方が好みである。

 しかし今宵は彼も、少し気が緩んでいたようである。クララが銚子から注ぐのを、拒む機会を見失い、次々に酌を重ねてしまい、徐々に呂律が回らなくなっていく。

 

「う、ウーム。く、クララよ、そ、そなたを、そなたを招いて良かったぞ。こ、こうして共にいてくれるの、だから。拙者は、うむ、嬉しいぞ! 何か欲しいものは無いか? ははは……」


 一角がそう言うと、クララの瑠璃のような瞳がキラリと光り、口角が怪しく吊上がる。 


「え……? では……港町の実家に」


 帰らせて頂きたいです――とクララが言い掛けた時である。ピカッと目映い光が走り、二人のいる部屋をいきなり照らしてきた。

 クララが外を見てみると、夜空を二つに裂くような、蒼白い稲妻が眸を射、石臼を引くような雷鳴が、ゴロゴロと聞こえてきた。

 すぐに天の水門を開けたような驟雨が降って来た。沛然たる大雨は、地面を打つと霧のような飛沫となる。


「あら……雨戸を閉めなくちゃ」


 天が憤っているかのような雨を見て、クララは少し表情を曇らせたが、ぴしゃりと雨戸を閉めてしまった。

 彼女はまた嫣然を浮かべて一角の方を見直したが、彼は既に酔っ払い、鼾をかいて眠りこけていた。つついても揺すっても、起きる気配が無かったので、クララは心の奥で舌打ちし、彼の身体を布団に寝かせ、自分も横で眠りに着いた。

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