その身は危うし女掏摸
金貨にして二百枚もあったら良い。それくらいあれば、ミラとオットーは、暫くの間、何不自由なく暮らせるだろう。薄暗くて小汚い場末の長屋から、少しは明るい場所に越せるだろう。
カーラは、建物の影に身を隠し、金を持っていそうな通行人を見定めた。金を擦り盗った後は、ミラ達に手渡して、父には苦言と警句を渡してやるつもり。そうすれば、稚い弟妹も、子供らしく暮らせるだろうという思いから。
二百枚の金貨など、カーラからしてみれば、何でもない端金である。少し手元を動かせば、難なく掏り盗れる金である。
行きずりの人から盗むべく、彼女は外套を目深に被り、往来を行く者達の、銭が入った懐に視線を寄せた。
寒土用の烈寒にも関わらず、人通りはとても忙しない。幸せそうな家族連れ、仲の良さそうな恋人達……人目を忍ぶカーラの姿は、目映い彼らと対を為す。双眸は月のように冴え渡り、チラチラと往来を覗いていた。
すると向こうから、綸子の衣服で着飾った、ほろ酔い気分の若旦那が歩いてくる。隣には、荷物持ちの丁稚がおり、これも少し酔っていた。
「あッ……あいつにしよう」
カーラの眼が輝いた。指を滑らかに動かしながら、相手の動きを瞳で追う。小刻みな足取りで、若旦那に近付いて行く――が、不意に脳裏へ、ルカの姿が浮かび、カーラの足は止まってしまう。
あいつ! と目星を付けたとき、決して逃したことの無いカーラだが、今は妙に指先が強張って、相手をみすみす逃してしまった。
幼い身内への惻隠と、片想いの恋情が、彼女の心中で格闘しているのだ。力無く瞼を閉じ、柳のように項垂れた。
しかし、カーラは気を引き締め直し、自分を叱咤するように舌打ちした。また道の脇に逸れ、次の相手を探し始めた。
やがてまたもう一人、頼もしい金持ちが歩いて来た。それは、錦繍の服を着た女である。カーラの眼を惹いたのは、蛇が蛙を呑んだように、胴膨れをしている懐だ。確かに、まとまった金がある。
今だ――と歩き出そうとした時に、その女の後ろから、少年が一人、歩いて来た。二人は親子であり、往来の中ではぐれていたらしく、息子が母に飛び付いた。
その少年の姿を見て、カーラは思わず足を止め、紅唇を閉じて歯噛みした。
「――カーラさんは本当は優しい人なんだから、自分を大切にして」
ハンスの真剣な表情と、彼の言葉が脳裏に浮かび、身体が震えてきた。ハンスと同じくらいの人を見て、彼を鮮烈に思い出している。
かくも、他念に頭を支配されていては、到底、隼のような掏摸は不可能だ。神業に近いカーラの指も、今夜は全く働かない。
(ルカさんはともかく、何でハンスなんか思い出したんだ……)と、思う間に、カーラは膝を抱いて座り込み、悄然として空を見上げていた。自分でも知らない内に、眼から紅涙がこぼれてきた。
「うう……。あたし、どうすれば良いのかな……。掏摸が怖ろしいなんて解ってる。あたしの所為で、沢山の人が危険に晒されたんだから。でも、ミラ達にはお金が要る。ルカさん、ハンス……どうすれば良いの?」
彼女は静かに泣きながら、自分が港町で掏った財布一つから、怖ろしい因果が始まったことを思い出していた。一度は掏摸を辞めると誓ったが、それをしなければ、悲惨な弟妹を救えない。
「ごめんなさい……」
誰に言うでもなく、カーラは小声で呟いた。肩を小刻みに震わせて、立ち上がる事もなく泣いている。過去の罪に慄いて、ユフ達に詫びるのか、不憫な身内に詫びるのか、或いは自分を心配してくれる、ハンスの献身に詫びるのか。
カーラは懊悩煩悶し、寒気の中、いつまでも独りで座っていた。いっそのこと、すっかり悪の道に染まってしまおうかとも思ったが、漸く思い起こされた、純な良心がそれを許さない。
冬の夜風が髪を撫で、少し寒気を感じたが、カーラは立ち上がらなかった。明るい表通りからは距離を取り、
すると、カーラが膝を抱えている間に、彼女の周りから人は絶え、代わりに黒々とした人影が這い寄った。
捕手だ! 近くの番所から要請があったのだろう。衛兵共は密かに伏せて、刺叉や袖搦を煌めかせ、鉤爪を縄に付けた者もいた。
カーラも油断しきっていた。悪事に手を染めた者が、肉親がいる家に立ち帰れば、必ず足が付くに決まっている。最早カーラも、袋の鼠なのだろうか……。
過去は知らず、未来は知らず。しかし今、一人淋しく、膝に顔を埋めるカーラは、誠に純粋無垢である。だが、捕手にそんなことは関係無い。
無情を公明だと信じて止まぬ彼らである。説明しても無駄であろう。兵長の記章を胸に付け、眉間に皺を寄せた男がカーラに寄る。俯く彼女に、ツウと大きな手を伸ばす。
「御用!」
と、声を出したのが合図である。一瞬早く、カーラは咄嗟に身をよじり、その男の手を躱したが、四方八面、もう囲繞されている。
帝国が定めた法律では、金貨百枚盗めば獄門だ。掏摸を始めてから五年間、カーラが今までの稼ぎは金貨にして、一万は優に超えている。
「御用だ!」「年貢の納め時だ! 神妙にしろっ」
衛兵は松明に火を灯し、続けざまに二、三人、短い鉄の棒を構えて躍ってくる。建物を背にとって、カーラは彼らを睨んだが、いきなり一人が跳び掛かり、横から頭を引っ掴んだ。
力任せに頭巾が引かれ、夜目にも際立つ銀髪と、麗しい顔が剥き出された。カーラははっと身を窄め、その者の襟を掴み、えいっ、と素早く投げつける。不意を突かれた衛兵は、頭から地面に落ち込んで、呻き声を上げて気絶した。
いよいよ以て捕手は奮い立ち、徐々に包囲を狭めていく。今夜に限ってカーラは、武器を持たぬ空手である。紅唇をぐっと閉じ、柳眉を逆立てて彼らを威圧した。
「笑わせるんじゃないっ。あんた達みたいな、木っ端役人に捕まってたまるか」
「うぬ! 申したな。この場で斬っても良いのだぞ」
「ふん。あたしが掏摸を辞めるのは、死ぬときか身を固めたときだって決めてるんだよっ」
その時、衛兵共が俄に騒ぎ出した。見れば、何処からか石が飛んできて、衛兵共の眉間から血が噴き出している。
そして、石を投げていたであろう人影が、屋根から飛び降り、看板を掴んで回転し、そのままふわりと着地した。外套を深々と被っているので、その顔は見えないが、背丈の低い小男だ。
カーラが唖然として見ていると、その人影は、倒れていた衛兵から、鉄棒を二本奪い、右は正眼、左は横に棒を翳し、足を開いて身構えた。
おのれっ、と一人の衛兵が、刺叉を先にして跳び掛かる。小男はさっと体を開き、ビシリと敵の眉間を打つ。同時に彼の後ろから、抜刀した二人の兵が、喚きながら斬り掛かる。
小男は振り向かず、ぱっと地を蹴って跳び上がり、宙返りをして敵の後ろに廻り、落ちる勢いを利用して、脳天に棒を叩きつけた。着地と同時に身体を回し、横に立っていた者の腰を砕く。
打たれた者は血を吐いたり、痛みに悶えたりし、怪我の無い残りの者共は、カーラのことは捨て置いて、小男に向かって蝟集した。小男は声を張り上げて、
「おい、逃げろ! ここは、ぼ……俺に任せろ!」
カーラはそれを聞くや否、脇目も振らずに駆け出した。待て、と一人の衛兵が、鉤縄をひゅっと投げつけるが、苦し紛れのことなので、あらぬ方向へ飛んでいく。身軽なカーラはもう既に、通りの向こうへ消えていた。
小男はそれを見送って、懐から小さな玉を取り出した。彼がそれを足元に投げつけると、ボンという音がして、湯気のような煙が立ち上がった。煙が晴れた後、小男はそこにいなかった。
捕手共は愚弄されたと怒り狂い、気絶した者を捨て置いて、バタバタと路地に散っていった。
カーラも衛兵共も消えた後、屋根の上で身を起こした影がある。先程の小男は、煙玉を投げたと同時に、素早く横へ跳足し、壁を栗鼠のように昇っていた。
外套頭巾を払った彼は、満足げに頷いて、
「良し……後は僕がカーラさんを先に見つけよう。おじさん達、ごめんなさい」
と、呟いた。白い月明かりに顔を映したのは、様子を見に来たハンスであった。
――不意に捕物が始まったので、往来に出ていた者達は、驚いた様子で道を開け、捕手の上げる御用の声が、一際そこに鋭く響く。平和に賑わっていた歓楽街も、今や怒号で満たされている。
「何処に行った」「おのれっ。そう遠くへ行ってはいまい。詰所に応援を要請しろ」「皆、銀髪の女を見つけたら呼子笛だ!」
衛兵共は、二人一組に分かれて散開し、路地から路地を駆けずり廻り、ゴミ箱の中、空家の床下、下水道の口まで覗いてみたが、全然姿が見当たらない。
この地区を管轄する衛兵詰所から、二十人ほどが加勢の為にやって来た。この周囲一帯から、疾く脱出したとも思われない。捕手は、なおも隈なく尋ねて廻り、血眼になって捜索した。
往来を走っていた一組が、銀髪の女の後ろ姿を目に留めた。あれだ、と衛兵共は走り寄り、その女を呼び止めて、襟髪を引っ掴んだ。
「捕まえたぞ! 大人しくしろっ」
「な、何ですかっ。貴方達、どちらさま?」
振り返った女は、カーラとは似ても似つかぬ女である。兵士共は愕然とし、二人して舌打ちし、
「おい、こいつじゃなかったぞ。お前、勘違いするな」
「焦っていて間違ってしまったよ。ふん、カーラとは比べようもない醜女だ」
「うむ。さっさと次に行こう。大手柄だと思ったのだがなぁ」
「……この税金泥棒め! 触らないでっ」
と、銀髪女は眉を上げ、無礼な二人を平手で打ち、股間を思い切り蹴り上げた。手柄を焦った連中は悶絶し、虚しく女の背中を見送った。
間抜けな兵共が、そんなことをしている時、目的のカーラはというと、屋根伝いに走ったわけでも、塀を乗り越えたわけでもない。そういう変幻自在な技を働かず、何処に姿を隠したのか?
鵜の目鷹の目の兵共が、捕物道具を引っ提げて、彼方此方を駆けている。その彼らの視界の端に、一軒の風呂屋がある。
濛々と霞のように、白い湯気が立ち込める風呂場の中で、痩せた者から肥えた者、白髪の老婆から幼い女児、数多の女が裸になって、人魚のように居並んでいる。誰が誰とも解らぬが、湯気に覆われた湯船の隅で、
「うん……良い按配だね」
と、一人の少女が、うっすらと陽焼けして、
その時、風呂屋の表では、四人の捕手が、戸惑い顔を見合わせて、雛鳥のように立っていた。そこへ、さっきカーラに手を伸ばした兵長がやって来た。兵長は、まごついている部下を睥睨し、傲然と彼らを威圧して、
「何をしているのだっ。早く人改めをせぬか。この近辺にいるのは確実なのだから」
「あ、いやぁ。トミー様、それはちょっと……」
「何を言っている! お前達、人違いを怖れているのか。もう良い、私が行くっ」
トミーは部下を怒鳴りつけ、彼らが止めるのも聞かず、銭湯に足を踏み入れていく。番台の側の扉を開けて、風呂場に歩を進めていく。
それを見た番頭は、はっと顔を蒼くして、恐る恐るトミーの前に立ち、
「あ、あの……お役人様、何か御用でしょうか?」
「うむ。お上から手配されている掏摸が、この辺りで目撃されたのだ。改めさせてもらう」
「い、いえ、こちらは、ちょっとまずいのです」
しかしトミーは、ぐいと番頭を押し退けて、御免! と風呂場の木戸をガラリと開ける――途端に、甲走った悲鳴が響き、湯気の中から、風呂桶や手拭い、柄杓が乱離と飛んできた。
トミーは、頭に血を上らす余り、此処が女湯だと忘れていた。当然、入浴していた者達は、覗き魔が入って来たと怒りだし、即座に彼を攻撃したのである。
こうなっては、兵長殿も形無しだ。トミーは周章狼狽し、すまぬすまぬ、と謝りながら逃げ出した。しかし、足元に飛んできた石鹸が、彼の足をツルリとさらい、彼は背中から惨めに落下した。
「大丈夫でございますか? お上のご威光を笠に着ても、覗きはちょっと……」
板敷きに背を打ち付けたトミー兵長を、番頭は慌てて助け起こしたが、明らかに蔑視の目付きである。
女の衛兵もいなくはないが、夜番は禁じられている。トミーは歯噛みして風呂場を睨み付け、
「く、くそ……。と、とにかく銀髪の女を見つけたら、すぐに報せろっ」
と、羞恥で堪らないような顔をして、脱兎の如く逃げ出した。そして声を怒らして、自分のヘマを隠そうと、部下達を差し招き、
「ええい、此処にはおらん! 別の地区を捜すぞ!」
「トミー様、女湯はいかがでしたか?」
「黙れ! さっさと行かんかっ」
トミーの一喝に脅かされ、捕手は暗闇に消えていった。番頭は不機嫌そうな顔になり、役人共の背中に向かって唾を吐いたが、掏摸が入り込んでいるらしいので、一応眼を利かせておく。
一人一人見張っていたが、それらしい女は出てこない。(莫迦にしやがって。捕物にかこつけて、女湯覗きをしていきやがったな)と、番頭は鼻で笑い、いつものように、欠伸などし始めた。
それから十分ほど経った後、小粋な少女が風呂場から上がって来た。なだらかな乳房に
彼女は、容易に逃げ切れぬと早くに悟り、敢えて包囲の中、女湯に身を隠したのだ。流石に手慣れているといえようか、彼女の思惑通り、捕手は追跡を諦めて、別の区画へ行ってしまった。
何事も無かったかのように、カーラは番台の脇をすり抜けて、濡れ手拭いを下げながら、洗い立ての姿を、風に吹かせて出て行った。
「あはは……。我ながら巧くいった。でも、どうしようかな……」
今夜の虎口は、ひとまず逃れ得ることは出来たにしろ、カーラが苦しむ葛藤は、今後も彼女を責め苛むだろう。不憫なミラとオットーを助けるか、ルカへの想いとハンスとの約束を貫くか、一層切実となった懊悩は、影身に絡んで付き纏うだろう。
カーラが包囲を脱した後、ハンスは屋根伝いに夜闇を走り、必死に彼女を捜したが、遂に見つけることは叶わなかった。夜が更けたので仕方なく、ルカの所へ戻ったが、カーラは二、三日しても姿を見せなかった。
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