夢見る掏摸と現実と
全く打ち解けない様子だが、ルカとヴェイスは、引き攣った笑顔を浮かべ、和やかそうに相別れた。それを良い
「ルカ殿。また、時を改めてお会いすることにしましょう。そうそう、その時にはお詫びの印に、拙者達から贈り物を致します。では……」
と、捨て台詞をルカに投げ、ヴェイスと
ヴェイスと陣内は、集まった者達に凄味を利かせ、わざわざ突き飛ばしたり蹴飛ばしたりしていった。愚連隊のような悪玉は、辻行灯に照らされつつ、薄暗い路地の向こうに行き、程なくして見えなくなった。
かかる一騒動の合間に、大道芸のミラとオットーは、素早く賢い機転を利かせ、人叢の中へ身を隠してしまった。
野次馬共は、やや失望の色を見せていたのだが、互いに顔を見合わせて、
「良かった……。喧嘩ならまだしも、血みどろの斬り合いなんて、誰も見たくないからな。皆怪我しなくて良かったな」
と、などと口々に言い合って、皆散り散りに解散した。野次馬が歩き出した後、ルカは、周りの者に謝る茜の背を、不憫そうに見つめつつ、また外套頭巾を深く被り、何処かに向かって歩を進めていった。
それを見つけたカーラは、俄に声を弾ませて、ハンスの腕を強く取り、
「ハンス、ほら、ほらっ。ルカさんが行っちゃうっ。何やってるの、君も早くっ。ルカさんっ。ルカさん!」
「あッ。ちょ、ちょっと、カーラさ、うわ⁉」
油断しきっていたハンスは、弾かれたように駆け出したカーラに引かれ、抵抗する間も無く、ルカの元に引き摺られていった。
その慌てようを見ていると、ハンスは、あれほど勝気なカーラが、ここまで夢中になるものか、と心で驚嘆していたが、同時に心の裡で、(あんな嬉しそうな顔、見たことないよ……)と、自分の不甲斐なさを呪い、内心で溜息を付いていた。
カーラが先行してルカの名前を呼んだので、ルカははっと振り返った。その玲瓏の面を見、カーラは胸をときめかせ、思わず足を止めてしまう。宝石でも見たような顔をして、真っ赤な顔を伏し目にした。
ルカは彼女に眼もくれず、安堵したように笑顔を浮かべ、
「おお、ハンス。何処に行っていたのだ。帝都に着いて以来、其処彼処でお前を捜し廻っていたぞ」
「ごめんなさい。あちこちで手違いだらけになってしまって。僕もルカさんのことを心配してましたよ」
「そうか、俺が焼け跡に残していった書き置きは見てくれたか?」
「はい。あれを見たので、昼過ぎに組合本部に行ったんですけど、ルカさんがいなかったんです。それで出直そうとした時、偶然、あの三人が大道芸の姉弟を苛めているところを見たんです」
ルカは頷きながら聞いていたが、ふと、ハンスの後ろにいる少女を見て、訝り顔を彼女に向け、
「うん? ハンス、そこにいるのは、お前の姉御か?」
「いえ、違います。カーラ・サイツさんって云う人で、さっきの子達のお姉さんなんです。ルカさんと港町近くの湖で、運命的な出逢いをした――って云ってたので……。今のお礼もしたいそうです」
と、途中で言葉を詰まらせつつ、カーラとルカを引き合わせた。ルカは、離れた場所に立ったカーラを見、漸く思い出したらしい。
一方のカーラは、ルカの顔を直視出来ぬのか、月下美人のように項垂れて、頬を真っ赤に染めている。今の彼女は、ハンスのことをこき使う、お転婆な放埒娘だとは思えない。
ルカは、彼女に近付いて会釈をし、
「カーラとやら、半年ぶりになるか。確か、あの時は嵐の後だったな。二、三の立ち話であったので、つい忘れてしまっていた」
「はい……。ルカさん、お久し振りです……」
カーラは、精一杯に声を絞り出し、銀色の髪をいじくり廻し、後は何も言い得ない。紅唇を震わせて、胸の高鳴りに苦しみつつ、翡翠のような瞳をハンスに向けた。
その救いを求めるような表情に、取り成し役となってしまったハンスは、最早、逃れる術はないと思い、また言葉を継ぎかけた。
しかしルカは、彼のことを軽く押さえ、
「まあ待て。もうすぐ陽も暮れる。この路傍では寒さが辛いだろう。二人とも、本部の宿所に来い。俺の部屋で、詳しく話を聞くから。一人部屋だから遠慮することもない」
「解りました。カーラさん、行こう……カーラさん?」
「え……。ルカさんのお部屋に……? そんな、あたし、全然、心の準備なんて……」
と、ぶつぶつ小声で何か言っている。これだけ見れば、可憐で内気な少女である。何処から見ても、口の悪い女掏摸だとは思われまい。
行くぞ、とルカが二人に先行して歩き出したので、ハンスはもう一度カーラに呼び掛けた。カーラは、
彼女の心はもう、甘い喜びに溶けそうである。恋しいルカさんと会話出来た、思い出してもらえた――という僅かな出来事を、胸いっぱいに抱いていた。そして、前を行くルカの背中を見て、磁力のような愛執を感じつつ、足も心も全て、彼に吸い寄せられていた。
「あたしは……あたしは……」
と、付いていく足取りも虚ろになって、自分の心に立った火を、踏み消そうと苦心しているのだ。(ルカさんが貴族の嫡子でも何でも、きっとあたしのものにしてみせる……)と、いつにない決意を固めていた。
しかし彼女は、自分がルカに向ける熱視線には及ばぬが、自分に向けられる想いには気が付かない。カーラがルカに向ける熱い想い、陣内がカーラへ向ける利己的な想い、そしてハンスが抱く淡い想い……この絡み合う火華のような関係が、どんな化学反応を起こすのか、今のところは解らない。
するとその時、一行の後ろから、石畳の道を転びつ転びつ、声を揚げて追い付いて来た二人がいる。
「お姉ちゃんっ。カーラお姉ちゃん!」
「姉ちゃん、待ってよ! カーラ姉ちゃん!」
半ば必死の泣き声で、カーラを呼び止めたのは、ミラとオットーである。
お姉ちゃん! という大声が、ルカ、ハンス、そしてカーラを振り返らせた。美青年というものは魔性である。カーラはルカに夢中になる余り、常々忘れたこともない、可愛い妹と弟を、あの場へ置き去りにしてしまった。耳を劈かれて、夢のように甘い幻想は、元の現実となって霧消した。
息を急いて飛んできたミラとオットーは、四年以上もの間、焦がれていた姉の姿を見て、悴んでいた幼い心に、希望の炎が付いたらしい。それこそ、仔犬が親に縋り付くように、カーラの両脇から腕を引っ張った。
「二人とも……! ごめんね、ごめんね……」
と、カーラは紅涙を溜め抜いて、膝から崩れ落ちてしまった。
呑んだくれで博打好きの父はどうでも良いが、こんなに幼気な妹と弟が、学問所へも通わずに、生活のため大道芸稼業をしているのだ。流石にカーラも、自責の念に責められて、自然としゃがみ込んでしまった。
本能的に二人を抱き締めて、止めあえぬ熱い涙を流した。しかしルカとハンスの前なので、嗚咽せぬように声を押し殺し、
「ミラもオットーも……ごめんね。全然家に帰らないお姉ちゃんを許してね。お姉ちゃんが今に帰ったら、大道芸なんかしないでも良いようにしてあげる。お友達と勉強も出来るようにしてあげる……」
「お姉ちゃん、本当? 家に帰って来てくれるの?」
「……うん。嘘ではないよ。だから、今日はもうお家に帰りなさい。お姉ちゃんはあそこにいる二人と、大事な用があるの。後で必ず行くから……」
「やだ! 今すぐ帰って来てよ!」
オットーは、俄に強くかぶりを振った。ミラもまた、姉の肩を強く抱き、何処までも離れまいと密着した。無邪気で純情で幼いがゆえ、如何に言って聞かせても、承知する素振りは無い。
カーラも、それは痛いほど解っていた。彼女の家には、無理解で酒乱な父はいるのだが、幼い心を優しく包んでくれる母は無い。ミラが風邪をこじらせた時、自分の病も顧みず、薬代を稼いでいた帰り、道ばたで倒れて死んだのだ。
路地裏の貧乏長屋の一角で、情けも仮借もなく育てられ、幼い二人が頼れる人は、カーラ以外にいなかった。そうなれば、こんな世間擦れした少女でも、強く慕う気持ちになるのであろう。
一方では、幼い妹と弟を忘れ難い気持ち。また一方では、折角出会えたルカと、すげなく別れたくない気持ち。カーラは板挟みになってしまい、しゃがみ込んだまま、石のように動けなくなった。
ルカは少し道ばたへ身を避けて、ハンスから粗方の事情を聞き、
「カーラ、不憫ではないか。二人はまだ十歳と八歳なのだから、お前を慕って離れないのも無理はない。俺もハンスも、暫くは本部の宿所に滞在するから、妹と弟を送り届けて、明日でも明後日でも、改めて訪ねて来ると良い」
「は、はい……」
「そうだ。多くはないが、これを幼い二人に渡してくれ」
と、ルカは金貨を五枚、俯き加減のカーラに手渡した。この帝都では、三人家族の一ヶ月あたりの生活費が、金貨二枚ほどである。
ハンスは、横から声を弾ませて、内心では救われたような気持ちになり、明るい笑みを面に浮かべ、
「そうだよ! うん、そうした方が良い。こんなに縋り付く子達を、二人だけで帰らせるなんて酷いよ。ルカさんが言うとおり、この子達を送り届けて、後から来た方が良いよ。大丈夫、ルカさんには僕が言っておくから」
「うん……解った。ルカさん、有難うございます。また……」
カーラは頭を下げた後、ルカとハンスと別れた。ミラとオットーは嬉々として、彼女の後になり先になり、小猫のようにじゃれ合った。
お姉ちゃん、カーラお姉ちゃん――と、無上に嬉しくて堪らない。用も無いのに、姉のことを呼んでいた。それを見ていると、カーラも思わず笑みが漏れる。求め難い男に執着し、求め難い恋に苦しむより、無邪気な弟妹に喜ばれる方が、幸せだとは解っていた。
不意にカーラの顔を覗き込んだミラが、
「カーラお姉ちゃん、何でお姉ちゃんは家に帰ってこないの?」
「え……。そ、それは……」
カーラはぎょっとして言い詰まった。帝都はおろか、港町ハーフンに至るまで、掏摸を働いているということなど、無垢な二人に言える筈が無い。
カーラは苦しい機智を働かせ、
「お、お姉ちゃんはね……。商人さんのお屋敷にご奉公に出掛けてるの。それで、あなた達のことを思い出しても、滅多に帰れないんだよ。そ、それにお金だって、飛脚に頼んで送っている筈だよ?」
「ううん……お父ちゃんが、全部お酒と博打に使っちゃうんだ。それに、怖いおじさん達が偶にやって来て、お姉ちゃんを捜しているって言うの」
と、ミラは哀しそうな顔で俯いた。それを見たカーラは、非情な父を苦々しく思っていた。同時に、自分の身元が発覚していると知り、今更、役人達を怖れていた。
ふと、オットーが思い出したような表情で、
「そう言えば、さっきの緑色の髪をしたお兄さんとは、この間も会ったんだ。お姉ちゃんのこと、凄く大切に思っているみたいだったけど……恋人?」
「こ……。だ、だ、誰があんな情けなくて弱っちくて懸命なだけで、何回も死にかけてるのに自分の身も大事にしない、莫迦ハンスなんかと……」
「ふうん……そうなんだ。つまんないの」
解せないような顔付きで、オットーは姉を見上げていた。カーラは、早口で何か呟きつつ、紅唇を尖らせて、妹達の背を押すように歩き出した。
三十分ほど歩いた後、道の両脇に、店の灯りが見え始めた。屋台や店の賑わいや、夜道を彩る街灯が、殊のほか美しい。小綺麗な衣服を纏った人々に比べ、見窄らしいミラとオットーが、カーラの心を苛んだ。
黙っているが、ひもじそうな二人を見て、カーラは屋台に彼らを誘い、二人分の掛け蕎麦を注文した。ミラとオットーは眼を輝かせ、目映い笑顔でムシャムシャ食べる。
こんな物が、二人の味覚をここまで喜ばせるのかと思い、カーラは申し訳なく感じていた。幼い二人が、苦労している傍らで、自分は贅沢三昧をしていたのが、今になって涙を誘う。
大通りから外れた後、太鼓や笛の賑わいを後ろに聞きながら、三人は路地裏の奥へと歩いていった。息詰るように淀んだ空気が、狭い場所に立ち込めている。臭いは無いのに何か漂うこの街が、カーラの育った場所である。
部屋の前に立ち、カーラはピタリと足を止め、
「じゃあ……。もうお家に着いたから、お姉ちゃんは此処でお別れするよ。また時々、会いに来るからね。このお金は、父さんにバレないように持っておきなさい」
と、ミラの手に、ルカから預かった金貨を渡してやったが、彼女もオットーも、眼に涙を溜めたまま、チラチラと金貨をこぼしてしまった。
カーラに言い聞かされ、やっと頷いた不憫な姉弟は、是非無く部屋へ姿を消した。別れがたい泣き顔で。
細い三日月が空に見え、寒い夜空に星が浮かんでいる。誰も通らぬ公園で、カーラは寒さにも関係無く、ぽつりと長椅子に腰掛けていた。子供のように啜り泣いている。
久し振りに家を訪れて、そこで妹と弟が、寂しい暮らしをしているのを見、それがいっそう哀しかった。
「ごめんね……二人とも。不甲斐ないお姉ちゃんを許してね……」
カーラ達の父親は、アーロンという名前で、手の付けられない無頼漢。死んだ母だけは、今も甘く温かく涙ぐましく、彼女の心に残っている。
しかし彼女は自分だけ、銀髪翠眼であることが、子供の頃から不思議であった。母に聞いてみたこともある。しかしいつも決まって、頭を撫でられるばかりであった。
女親の母が亡くなると、怠け者で呑んだくれのアーロンは、家財も貯蓄も博打で使い、カーラを女衒に売ろうとした。
勿論彼女は逃げ出して、家に寄り付かなくなったのだ。しかし、非道な父から逃げた彼女も、いつか人の道から外れてしまった。
貧窮と罪悪感へ反抗するように、掏摸で稼いだ金を使い、思う存分贅沢したが、心に吹く隙間風、幼い弟妹が忘れられない。
暫く、膝を抱いて泣いていたが、ふと立ち上がり、
「あの子達のためなんだから……。うん、ハンスだって解ってくれる」
と、彼女は明るい方へと歩いていった。お金持ちの財布を掏ってやろう、あの二人が暫く困らないくらい――などと思いつつ、辻行灯や住宅の灯が照らす薄暗い夜道の中を、ふらふらと歩いていく。
小暗い影に佇んで、密かに当てを狙っていた。金のありそうな懐を。
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