冬に似合わぬ殺意の熱気

 カーラが武器も持たぬまま、向こう見ずに駆け出したので、ハンスは胆を潰してしまい、我も忘れて、彼女を後ろから抱き留めた。カーラの胸に手が触れたが、さっきとは全く異なって、彼は全く気が付かない。

 肉親を思う感情は、思いも寄らない力となる。ハンスは力の限り、カーラの背中から腕を廻し、彼女を留めるのに苦心した。厄介な連中が三人もいるというのに、何をするつもりだ、という気持ちである。

 しかしカーラは、そんなハンスの憂いもしらず、無我夢中で抵抗し、


「離してよっ。このままじゃ、ミラとオットーがっ。ハンス、離しなさい!」

「ま、待ってよ。相手は飢えた狼みたいな奴らなんだよっ。自分から餌になりにいくようなものじゃないか」

「そんな悠長なことしてられないっ。今、今向こうに引きづられていくのは、あたしの妹と弟なのっ。君だって身内が攫われそうになったら……」


 ミラとオットーが、カーラの弟妹だということは、ハンスも重々承知である。しかし今二人を苛むのは、高坂陣内こうさかじんない武田茜たけだあかね、そしてヴェイス・フリードである。

 ハンスとカーラの腕前では、到底敵う筈が無い。しかしカーラの頭には、哀れな弟妹のこと以外、何一つとして浮かばない。ハンスは、暴れる彼女を押し留めつつ、陣内達に見つからぬように、人混みから出ないようにした。

 一方で陣内とヴェイスは、茜が止めるのには眼もくれず、ミラとオットーを引き摺って、人群れの一角を崩しながら、路地裏に向かって行く。カーラはハンスを振りほどき、散りゆく人群れを掻き分けて、陣内達に迫っていった。


 すると、その散り散りになった人混みから、ただ一人、足早に駆け抜けてきた男がいる。向こうへ行く三人組に手を伸ばし、待て! と声を打って響かせた。

 外套を被って顔を隠し、腰からは鉄笛を下げている。言うまでもなく楽士である。


「暫くお待ちください! お三方、暫く!」


 こう大声で浴びせかけたが、白昼である上に、周りには人が大勢屯ろしているので、陣内達は聞こえぬ振りを装いつつ、泣き喚くミラとオットーを引き摺っていく。

 楽士は、やむを得ないと感じたのか、大股に走り寄り、茜の襟髪を掴んで背負い投げ、ヴェイスの腕を取って足払いを喰らわせた。

 陣内が驚く暇もなく、無言のまま、彼の利き腕を掴んで捻じ上げた。陣内がとした瞬間、楽士は幼気な大道芸の二人を、庇うように身体の後ろへ寄せた。


「いたた……。な、何奴っ。何者ですかっ」


 と、茜が立ち上がって、来国俊らいくにとしに手を掛ける。ヴェイスも彼女と肩を並べ、匕首あいくちを逆手に構えている。

 楽士はそれを冷然と見据えたが、飽くまで穏やかな口調で曰く、


「余りにも不憫でしょう。こんな子供相手に、大人げないですよ。笑って許しておやりになられては」

「あッ。そのお声はっ。ルカ・ウェールズ殿ですねっ」


 と、武田茜は愕然とし、踵を蹴って相手に飛び付いた。ルカの目の前に立つや否、爪先立ちになり、左右の手を綾にして、彼の胸ぐらを引っ掴んだ。

 それを見た陣内とヴェイスは、転瞬、足元に白刃を振られたように、ぱっと跳び分かれて身構えた。その殺気漲る形相に、周りの群衆はざわめいた。

 ことが余りに卒爾であったので、大道芸の姉弟など、もはや蚊帳の外である。陣内は、茜が掴むルカの首元を、一心不乱に睨んでいる。彼を後ろから締めるか、身体を投げて倒すか、同田貫どうだぬきで首を斬り裂くか……ヴェイスから、ルカの腕前を聞いていた彼は、宗十郎頭巾の間から、凄まじい眼光を光らせた。


 だがルカは恬然としたものだ。猛然と迫り来る三人にも、周りで慌てふためく群衆にも関係無く、当たり前のように立っている。

 ルカはゆっくりと頭巾を後ろへやった。彼は普段、要らざる災難を避ける為に、外套頭巾を取らぬのだが、間髪を思う心支度をしたものだ。しかしそれは、刃交はまぜの前の宣言とは思えぬほど、飽くまで神妙なものであった。

 現われたルカの顔を見て、群衆は思わず眼を奪われた。玉映の如く色の白いかんばせに、涼やかな二重の明眸。端正な目鼻立ちに、黒絹のような総髪が鮮やかだ。


 ルカは、柔らかな笑みを見せ、やんわりと棘を立てないように、襟首をしっかと掴む、茜の諸手を優しく解いた。

 しかし彼女からしておれば、姉以外の人間が、身体に触れるのは許し難い。途端に柳眉を逆立てて、露骨に嫌そうな顔を見せ、


「……ッ! 触らないでください! この無礼者!」


 と、ルカの手を振りほどき、来国俊に左手ゆんでを掛け、颯然と鞘走らせた。ルカは咄嗟に身を沈め、腰の鉄笛を抜き取った。刀と笛とが交叉して、鏘然しょうぜんとして火華を散らす。

 周りの者達は、普段見ない刀を見、わっと一斉にどよめいた。茜は蘭瞼まなじりを裂いたまま、霞の構えに刀を取り、ルカを真っ直ぐに睨んでいる。ルカは斜め青眼に笛を構え、二人の間に、眼には見えない凄風が立ち込めた。

 

『参ります!』


 武田茜は、鈴を振りならすような声を上げ、ルカ目掛けて突き込んだ。迫り来る皎刀こうとうに、ルカは右手めての鉄笛唸らせて、発止とそれを上へと弾く。

 茜は怯まず峰を返し、相手の眉間へ垂直に、素早く刀を下ろしたが、それもガラリと外された。茜は勢い余ったが、踏みとどまったその刹那、ぱっと跳足して跳び上がり、くるりと虚空で前宙し、ルカ目掛けて斬り下ろす。

 ルカは笛を横に翳し、戛然と刃を受け止めて、その同時、彼女の腹を左手ゆんでで打った。彼女はその場で崩れ落ちてしまい、四つん這いで咳込んだ。


 ルカは慇懃に会釈して、


「オオ、これはこれは……。ジンナイ・コウサカ殿、アカネ・タケダ殿、それにヴェイスも一緒だったのか。いずれも珍しいお揃いで。アカネ殿、自衛のためでしたゆえ、どうか許されたい」


 と、目の前で倒れる茜に手を伸ばしたが、彼女は忌々しげに彼を睨み据え、ぷいと顔を背けて立ち上がった。

 すると、そこから少し離れた雑踏では、漸くハンスが、ルカを視界に捉え、地獄で仏を見つけたように、心の底から喜んだ。家から遠く離れ、母から引き離されて早半年、張り詰めていた神経が、一気に報われた形である。

 無論、カーラも遠目に気が付いて、ルカさんルカさん――と、思わず背を伸ばして、懐かしさと恋しさで、胸がいっぱいになっていた。


 面と面とを向かい合わせた途端に、陣内とヴェイスはと思ったが、ルカの挨拶が、意外に好意的であったので、却って不気味に思った二人の悪玉は、密かに身体の構えを解き、顔の筋を強張らせてしまった。

 ヴェイスは、咄嗟の機智を働かせ、愕然とした素振りも見せず、爽やかな笑みを面に浮かべ、


「や、貴方はルカ様。意外な所でお目に掛かりました。三年ぶりでしょうか。ご壮健なようで、何よりでございます。いつごろ、帝都にお戻りになったのですか?」


 と、如何にも久闊の情を感じたように、親しげにルカへ呼び掛けた。

 (ここで怪しまれたら終わりだ)と、内心では焦っているが、それはおくびにも出さないのだ。

 ヴェイスは、ルカの目の前で、憮然としている茜を見、呆れたような声色で、


「いやア、失礼致しましたルカ様。こちらの方は私の友達なのですが、少々癇癪持ちな所がありまして、今も少し機嫌が悪かったようです。ええ、我々男とは違って、女性には色々と大変なことがありますから。毎月のアレなどがありますね」

「ああ、俺は気にしていない、ヴェイス。アカネ殿、月のものでご機嫌が悪かったのなら、お咎めは致しません」

「……申し訳ありませんでした」


 全く根拠の無い嘘なのだが、ヴェイスの瞳が笑っていないのを見、茜は不服な表情のまま、口だけ動かして和解した。

 ルカもまた同様に、ヴェイスの企みと邪心とを、とうの昔に見抜いている。しかもジパングの武田茜や、彼が港町で噂に聞いていた高坂陣内が、一堂に会しているので、隠そうにも隠しようが無い。

 油断のならぬ三人に、ルカはあれこれ推量していたが、(ふむ。さてはこの三悪人、一味同腹で俺の命を狙っているのではないか)と、彼の炯眼は、疾く見破っていた。


 だが、この人目の多い盛り場で、白刃を抜き合わせては厄介だ。これ以上騒ぎを大きくして、衛兵でも呼ばれたら、却って面倒な事になる――こう思ったルカは、飽くまで無事に、この場を納めようとした。

 それで、ヴェイスの取って付けたような表情を、他意無く受け入れる様を見せ、


「ヴェイス、お前も普段と変わらぬ様子で安心した」

「いや、ルカ様。それが大変なのですよ。黒屋敷を初め、貴族街が全焼してしまったのです」

「ああ、その話は聞いているが、いずれお前も、お上から相応な見舞金を賜るだろう」


 ヴェイスは、内心で小躍りしていたが、それは面に出さないで、人懐こく微笑んだ。

 彼もルカも、内心ではお互いを唾棄しているが、ここは微妙な腹の探り合い、一歩間違えば斬り合いだ。


「いやはや、それは平常、真面目に勤めを果たすような方々のことです。実を言うと私、もう隠密組などという泰平の世に無用の御役目には、内心飽き飽きしていたのです。これを良いしおに、何処か自由な方に仕事を求めようと思いまして」

「そうか。確かにお上に勤めるのも近年窮屈になってきたからな。お前のように、矢鱈と頭の回る男には居づらいかもしれない」

「ふふふ……。ところでルカ様におかれましても、身分のある帝国直参騎士の嫡子に生まれながらも、自由な恋をして、家を捨てたのは賢明でしたな。は無責任だと言いますが。ふふふ、私ではなくが言っているだけですよ」

「ほう、世間が……か。俺が無理矢理ミーナを自分のものにしただとか、無断でティーレ家の金を使っているだとか、か? 仮に本当だとしても何処から漏れたのやら」


 ルカは鼻先で笑ったが、彼は自分が帝都にいた頃に、ヴェイスが腰巾着のクライヴを利用して、あれこれと噂を振り撒いたことを知っている。

 悪い噂は、良い噂より広まり易い。世間は忽ち、身分のある二人の噂でもちきりとなってしまい、いつしかそれは、帝国政府の耳にも入った。


「全く、世間は怖いものです。それはさておき、ルカ様、定めしミーナ様とお逢いになったでしょう? 私も心配ですので、お見舞いに行きたいのですが……」


 と、雑談に紛らわせ、いと巧妙に探りを入れた。この奸物め! とルカは心で軽蔑していたが、敢えて沈痛な顔を見せた。

 ヴェイスも、相手が自分を嫌っていることなど、百も千も承知である。しかし彼は、ミーナを憂う振りをして、油断を誘うつもりである。


「いや、その消息は全く承らぬ。だが……ミーナの行方は、ヨーデル殿の一番弟子であるお前の方が、よく知っていそうなものだが?」

「……とんでもない。知っているくらいなら、わざわざお尋ね致しません。解り次第、貴方にお伝え致します。そういえばルカ様、今は何処にお泊まりですか?」


 既にクライヴに探らせて、ルカの寝所は把握しているのに、ヴェイスは、さも憂慮を含んだ表情で、相手を心配している風を装っている。

 ルカは、心の裡で苦笑していたが、ここで嘘を付いたとしても、ヴェイスは裏取りをするだろうと推量し、


「東地区にある楽士組合の本部だ。ヴェイス、お前も後で来ると良い。……そうだな、そちらにいる二人のとご一緒に。歓迎するぞ」

「ええ、いずれまた。それにしても、ルカ様とミーナ様は、お互いを何よりも大切にしているとばかり思っておりましたが、未だにお互い行方知れずなのですね」


 不意に釘を刺されたが、ヴェイスは咄嗟に頭を働かせ、厭味たっぷりに切り返した。ルカも思わずとしたが、ここは両者、理性が勝ったようである。

 蚊帳の外にいた陣内は、最初の方は横合いから、居合で斬り掛かろうとしていたが、彼も認める腕前の、武田茜が苦も無くあしらわれたので、流石の彼も、慎重にならざるを得なかった。なので彼は、血気盛んな茜に目配せし、(今ではない!)と押し留めた。


 茜はこの三悪人で、最も堅物ではあるのだが、やはり弱冠十六歳、ともすれば匹夫の勇に走りがちである。しきりにルカへ、跳び掛かろうとしていたが、陣内に眼で押さえられ、皎歯をギリギリ噛み締めた。

 彼方の人群れに隠れながら、ハラハラと覗いていたハンスとカーラは、この分ならと胸を撫で下ろしていた。


 ――此処はジパング最北端の峻峰しゅんぽう、恐山の一角だ。年が明けても雪は深く、紺青の山肌を白く染めている。

 木々の梢には、綿のように雪が付着して、ならいが冷たく吹く度に、蒼白い光となって地面に落ちる。何かの音に驚かされて、ハンスの母親ヒルデは、はっと深い夢から覚めた。

 夢の中では、自分の横に息子がいた。しかし、彼は自分から離れていき、哀しそうな顔をして、いつしか見えなくなってしまった。そして眼を覚ました今、辺りの現実を見廻すと、そこは、深い洞窟の中に作られた、四畳ほどの間者牢。


「ハンス……。無事なの……」


 と、彼女は膝を抱き、自分の身よりもまず、息子の身を案じていた。リカードの妹テオドラは、年明けを待たずして、烈寒に耐えきれず凍死した。

 ヒルデの命もまた、彼女の横に灯された、行灯のように心細い。港町で捕えられて以来、寝ても覚めても息子を忘れる時は無い。

 しかしもう一つ、ヒルデの心には憂いがある。港町でハンスを助けた、女掏摸のカーラ・サイツである。息子と三つしか違わぬのに、すっかり世間に擦れてしまった彼女を、ひどく不憫に思っていた。


「カーラちゃん……可哀想な子。掏摸に博打に夜遊び、悪いことばかりして……。でも、ハンスを助けてくれたんだから、きっと本当は凄く優しい子。誰か親身になって、側で支えてくれる人がいれば、きっと元に戻れる」


 それは自分でも良い、ハンスでも良い、誰でも良い。カーラに、悪の道から足を洗う意志があるのなら、それを賢明に応援したい気持ちであった。

 しかし、そんな殊勝なことを思っても、この薄暗い間者牢の中では、全く虚しい徒労である。ヒルデは、またぽつねんと膝を抱き、息子の身と、カーラの未来を案じつつ、潸々と涙を流し始めた。

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