飲み屋街での一騒動

 カーラは酔顔を微笑ませ、すっかり頬を紅くして、ハンスに凭れるようにして、飯屋の軒から歩いてきた。後ろからは、新年会の騒ぎが聞こえ、往来にいる者達は、今日も暢気に騒いでいる。

 丁度、逢魔が時であり、夕闇の空には、うっすらと星が見えている。西陽が差し込む大通りは、飲食街ということも相まって、凄まじい喧噪となっていた。ハンスは、その雑踏の中、足元が覚束ないカーラに肩を貸し、ルカが待っているであろう、組合本部に向かっていた。

 結局、お銚子を五本も干してしまったカーラは、ご機嫌麗しく、鼻唄を調子良く奏でている。耳まで紅くした彼女は、ハンスに顔を近付けて、


「あはは。ハンス、ごめんねぇ。火事から助けてもらった上に、こんな風に肩を貸してくれて。良い子良い子」

「う……酒臭い。別に良いけど、顔を……その、離してよ。ほら、足元危ないよ」

「なぁに、君も少しは呑めば良かったのに。真面目なのは、良いけどね、少しは遊びも覚えないと、女の子にモテないよー。ルカさんに比べたら全然だけど、君だって悪くない顔なんだから。あはは」

「はいはい」


 と、ハンスが溜息混じりに応じると、彼はふと、男女の連れ合いがいるのを視認した。その二人は腕を組み合って、少し先を歩いていたが、やがて、一軒の店に入っていった。

 そこは人目を忍ぶような建物で、看板も渋い色である。所謂、男女が「休憩」する場所だ。ハンスは彼らを見て、特に何も思わなかったのだが、カーラは酔眼を動かして、興味深そうな顔をした。

 わざわざその建物を指差して、


「ねえーハンス。あのつまらなそうな建物、何? さっきの人達も入っていったけど、何か面白いことでも出来るの?」

「え、あ、いや。あれは、その……お金を払って、ちょっと楽しいことが出来る所だよ。さ、行こうか、早く。ルカさんが待ってるよ」

「へえー、そうなんだ。楽しいことなんて羨ましいなぁ。……そうだっ。あたし達も行ってみようよ。お金ならあるし、ほらほら」


 と、カーラは無邪気に笑い、ハンスの手を引こうとした。彼女に悪意は全く無い。ただ純粋に、弟のような彼と一緒になって、何か遊興に耽りたいだけなのだ。

 ハンスは眼を瞠って凍り付いてしまい、途端に真っ赤な顔になり、早口で捲し立てるようにして、


「な、何言ってるんだよっ。ふ、ふざけてないで、さっさとルカさんの所にっ」

「何怒ってんの? そんな、焼けた鉄の棒みたいに赤くなっちゃって。あたしとしたくないの? 楽しいこと」

「いや、したくないわけじゃないけど……。いや、駄目だっ。行くわけないだろ」

「だーめー。それとも、あたしといきたくないの? そのお堅く気取った皮を剥いてあげるよ」

「い、いく……? いや、いや、冗談じゃないっ。行かないっ」


 と、気恥ずかしさで顔を真っ赤にしたハンスと、酒気で頬を染めたカーラは、互いの袖を引き合って、いくいかないの不毛な論争を始めだした。往来を行く者達は、他人事でしかない。むしろ、痴話喧嘩を楽しむ態度である。

 思わず、ハンスはカーラの腕を手強く引いた。千鳥脚であった彼女は、きゃっと高い声を出し、前のめりに膝を突いてしまった。ハンスは愕然として、ごめんよ、と慌てて彼女を助け起こそうとしたが、少しはだけた襟元から、彼女の白い乳房が見え、はっとして手を止めた。

 大きさはないが肌目細やかで、柔らかそうな乳房を見て、ハンスは血の滾りに上擦って、それ以外が見えなくなり、身は石のように硬くなってしまい、襟足まで紅くなってしまった。


 すると、通りの向こうから、雑踏の間を縫うように、二人の子供が駆けて来た。大道芸の服装で、哀れな泣き面を浮かべつつ、走ってきた二人のすぐ後から、三人の男女が駆け続いてきた。

 先頭にいる二人の浪人は、通行人を突き飛ばしながらやってくる。後ろの女は、周りの者達に謝りながら、連れ合いの二人を追っていた。

 程なくして、大道芸の子供達は捕まってしまい、道の真ん中で蹴倒されてしまった。いきなり殴りつけられて、幼い姉弟は、泣き叫びながら謝るが、また蹴りつける音がする。


「何なんだ、喧嘩か」「いや違う。喧嘩じゃねえ、いつも来る大道芸の姉弟だ」「可哀想に、無礼討ちだ。怖ろしい侍共に何かしたんだ」


 などと、周りにいた野次馬共は、止めるにも止められず、自然と彼らを囲むように、わらわらと寄って人垣を作る。

 姉弟を不憫だと言いつつも、帝都に住んでいる者達は、ジパング人を、文明に疎い蛮族だと思い込んでいる。関わり合いになれば、思わぬ災難を受けるとも限らぬので、遠巻きに見ているだけである。

 ハンスは塀の上に跳び上がり、手を翳して中心を覗いてみた。彼は思わず瞠目し、


「あ! あれは確か、カーラさんの妹と弟……ミラちゃんとオットー君! カーラさん、大変だっ」

「えー? なに?」


 カーラは、ハンスから事情を聞いて、途端に酔いも吹っ飛んだ。牡丹のように紅くなっていた顔も、一気に蒼白くなってしまった。

 彼女は、弾かれたように立ち上がり、眼の色を変えて走り出した。ハンスも直ちに駆け出した。しかし、もう既に人垣は重囲となり、とても寄りつけそうにない。その人集りの中央で、哀れなミラとオットーは、土まみれで泣き声をあげている。

 この餓鬼! と二人を土足で蹴飛ばして、抵抗力の無い姉弟を苛むのは、宗十郎頭巾を被った浪人と、蒲柳な金髪の青年だ。それは高坂陣内こうさかじんないとヴェイス・フリードである。


 悪鬼のような二人の横で、亜麻色髪の侍が、あわあわと顛動しているらしい。まな板のような胸に凜々しい顔を持っている。遠目に見れば、美少年にも見える侍は、勿論武田茜たけだあかねである。

 彼女は、主君に忠義を尽くす侍だが、そうでないときは、全くの常識人である。陣内やヴェイスの横に立ち、


『お二方、もう止めましょうよ。流石に酷過ぎますよ、童子が相手なんですよ。ほら、もう行きましょう』

『まあこれ以上は大人げない。おい、ヴェイス。いい加減に許してやろう。人も集まってきた』

「お二人共、大丈夫ですか? 拙者の友人が申し訳ありません。今、お医者様の所に連れて行きますから、泣かないでください」

 

 茜は姉弟の前に膝を突き、陣内やヴェイスに暴行され、血まみれになった彼らを手当しようとした。しかしヴェイスは、氷のような表情だが、無表情の裏側に、猛烈な怒りを宿している。

 彼は、茜を脇へ押し退けて、ミラとオットーの腹を蹴り、二人の顎に鉄拳を喰らわせた。その上、二人の首を絞めながら、加害行為にニヤリとし、


「ふふふ。今日だけでなく、この間も河川敷で我々の話を立ち聞きしていましたね。その時、警告した筈ですが……? 伝わらなかったようなので、教育が必要なようです」

「ご……ごふ……ごべん……なさい」

「うぇ……ゆ、ゆるじて……」


 ミラとオットーだけでなく、弱者が声を振り絞って謝るのが、ヴェイスには堪らない快感らしい。一旦緩めてまた締めて、また緩めては手強く締める。

 さっき押し退けられた武田茜は、そんな彼を見て、尻餅をついたまま、慄然として立ち上がれない。陣内も唖然としていたが、今更後には退けないと悟ったのか、周りの群衆を散らそうと、凄味のある声で恫喝し始めた。

 ヴェイスは、咳込む姉弟に冷たい眼光を浴びせ掛け、


「煩いですね。あまり騒ぐとその口を斬り裂きますよ。それでは何故、向こうの店で呑んでいた私達の話を聞いていたのですか? 偶然にしては出来過ぎですよね? 私達を尾けていたようなのは、勘違いでしょうか? この擦れっ枯らしが、何とか言ったらどうですか?」


 この男の癖で、早口で捲し立て、質問攻めにするのである。ミラは十歳、オットーは八歳だが、この男の脳内に、容赦という言葉は無い。

 陣内は姉弟の襟髪を引っ掴み、軽々とぶら下げながら、路地裏に連れ込んで行こうとする。どけどけ、という彼の大声が、群衆のざわめきの中で異質である。

 野次馬共は、その凄まじさに戦慄し、自然と道を空けてしまう。口々に騒ぎ立てているが、相手が、帝都にいる軟弱な騎士共とは違って、一癖も二癖もありそうなのを見て、ただ虚しく喚いている。


 人垣を掻き分けて、走り寄ってきたカーラは、今しも陣内や、ヴェイスに引き摺られてゆく姉弟を見て、


「あッ。ミラ、オットー! あんた達、待ちなさい!」


 肉親の愛情は、時が経っても忘れはしない。相手が誰であるかは目に留めず、手に武器を持たぬ空手のまま、彼女は甲走った声を上げ、陣内達に向かっていった。

 可憐な弟妹を取り戻そうとする一心だ。今のカーラの血相は、陣内との恐るべき因縁も、茜が振るう鋭い太刀も、ヴェイスの巡らす奸計も――それら全てを忘れていた。

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