気苦労重なる板挟み

 大火の晩、自分達が起こした火に巻かれ、危うく命を落とし掛けたハンスは、救護所に運ばれて、応急処置を受けた後、カーラの部屋に身を寄せていた。

 十二歳の誕生日を、火傷で迎えてしまったが、彼はその後も絶えず、南地区の焼け跡を彷徨って、ルカの到着を待っていた。大晦日の後、今年も変わらずに年が明け、正月二日目の午後である。大火からはもう一週間経っている。

 ハンスは今日も、痛ましい包帯姿を励まして、灰燼と化した貴族街を訪れていた。雪はこの間から降っていないが、針のような寒風が身を苛む。重苦しく鈍色に曇る空の下、彼は焦土を逍遙していた。


 飄風が吹き荒び、ハンスは思わず足を止め、眼を閉じて寒さに耐えた。烈寒と孤独の中、彼は泣き出しそうになっていた。しかし彼はそんなとき、決まって母親の顔を思い出し、込み上げる悲涙をこらえるのだ。

 ハンスの母親――ヒルデは今も、ジパングの恐山に捕えられている。虚ろな洞窟に作られた、間者牢に押し込められ、昼とも夜とも知られぬ日々を過ごしている。

 それを思うと、息子であるハンスは奮い立ち、


「……こんなことで泣いていられない。きっと母さんは僕が助けてみせるっ。僕なんかより、ずっと強いルカさんもいるんだから」


 と、心の中で何度も念誦して、拳を握り込むのである。ここまで健気な子供も珍しかろう。

 ふとハンスが顔を上げると、焼燬した建物の石塀の裏、人目を避けるようにして、看板が立っているのが眼に入った。彼が駆け寄ってみると、それは果たして、彼が心待ちにしていた書き置きであった。

 背の低い立て看板に、消し炭で文字が書いてある。


 ==私は帝都に先日到着し、ミーナの行方を捜している。この書き込みを見、私を訪ねようとする者は、帝都東地区、楽士同業者組合本部まで来られるが良い==


 と、したためてある。ルカ・ウェールズが、ハンスに意思を伝えようとしているのは明白だ。

 

「やっぱりルカさんも、帝都に到着したけど迷っているんだ。良かった……」


 と、彼は安堵の息を漏らし、一刻も早く、ルカが滞在している場所まで行こうとした。しかしその前に、宿無しの自分を無償で泊めてくれている、カーラに伝えねばならぬと思い、飛ぶようにして駆けていく。

 カーラの部屋がある酒場は、帝都の東地区にあったので、僥倖にも延焼は免れていた。ハンスは建物の脇に付けられた、木製の階段を駆け上がり、二階の一番奥にある一部屋、カーラの部屋の戸を開けた。

 火鉢に当たっていたカーラは、少し驚いた顔を見せ、猫板から肘を離し、生色漲るハンスの面を見つめた。彼女は、何か考え事をしていたらしく、やや沈んだ面色だ。


 そんなことは解らずに、ハンスは声を弾ませて、


「カーラさんっ。ようやく、一つの目星がついたよ」

「そう……。じゃあ、あの晩、ミーナ様を連れて行ったのが誰か解ったの?」

「ごめん、それはまだ全然手掛かりが無いけど、良い按配にルカさんの居場所が解ったんだ」


 それを聞いたカーラの顔に、紅花のように美しい紅みが差した。それを見て、僅かに表情を曇らせる、目の前のハンスには眼もくれず、輝くような笑顔に希望を含ませて、眸を閉じてうっとりしている。

 年の暮れの大火から、彼女は何処か茫漠だ。ハンスに助け出されたが、彼は重傷を負ってしまった。珍しく責任を感じたカーラは、彼を自分の部屋に泊めているが、今年ばかりは、大晦日も除夜も元日も、何もかもが手に付かない。

 仕方が無いので、ハンスが家事を行っているが、今彼の口から、喜ばしい報せを聞いて、彼女は福寿草のように明るく笑った。


「それが本当なら、これで一つの苦労は解けたようなものだね。さ、早くルカさんに会いに行こうっ。ほら、今後の相談とかしないと」

「……そうだね。ルカさんは楽士組合の本部にいるらしいから、僕、今すぐ行こうと思うんだけど」

「待ってて。今準備してくるから」


 と、彼女は鏡の前に腰掛けて、髪を梳いたり白粉をはたいたり、滅多にしない化粧をし始めた。そして、小箱から煌びやかな髪飾りを取り出して、スッと髪に差し込んだ。

 どう? と無邪気に笑うカーラを見て、ハンスは心中穏やかでない。自分には向けた事の無い陶酔の顔と着飾った姿を見、心の底で呻いていた。彼女の想いを一心に向けられる、無自覚なルカのことを、おくびにも出さないが嫉視している。だが彼は、それを自覚してはいない。

 しかし、いそいそと準備するカーラの気持ちはよく解った。そして、それを拒むことは出来そうにない。


 ミーナ様を助け出してくれれば、何処までも力を貸すよ――と、ハンスはカーラに再会した時、黒屋敷の一室で、そう約束してしまったのだ。そのために、彼女は命を賭けて屋敷を探索し、地下の穴蔵に墜ち込んだ。

 (折角カーラさんが頑張ってくれたんだ。なら僕も)と、彼は心の底で強く思い、ミーナが助け出されなかったとしても、絶対に約束を破れないと誓っていた。しかし一方では、自分がした約束を、後悔することもなくはない。

 いざルカと会った時、カーラの方から約束を迫られて、恋の橋渡しをせがまれたら、いかにして諦めさしたものだろう?


 実をいうとハンスは、今度の大火に遭ってから、カーラの気性を見込んで、一つのことを除いて全てを打ち明けていた。

 その一つというのが、ルカとミーナの仲である。それを話す前に、カーラの方から先に、切ない胸を明かされたので、それを挫くのは憚られた。


 カーラもまた、自分の胸一つだけで、ルカやハンスの潜入計画に、力を貸そうと誓っていた。ハンスに伝えたなら、恐らく頑なに止められていたであろう。

 ハンスから、これまでの事件を聞いた後、彼女は自分の罪を怖ろしく思った。港町で掏り取った一つの財布が、潜入計画露顕のきっかけとなり、ユフとグレゴールの死を招き、この帝都の空へ災厄をもたらした。

 数多の恐ろしい禍いが、自分の気軽な掏摸から端を発したと知り、カーラは初めて、自分の罪を自覚した。そしてハンスにもルカにも、申し訳なく思えてきた。


 それから後は、カーラ・サイツの命に代えても、罪を償わなくてはならぬという、健気な意思を固めたのだ。

 彼女はとにかく、蝶のように奔放だが、自分が責任を感じたときは、何処までもそれを果たそうとする。加えて今度は、ルカへ寄せる恋慕もあるので、彼女の心は鉄石てっせきのようである。

 カーラの部屋から出て、辻を歩いていく間、カーラは微笑みを絶やさなかった。彼女の燃え盛る気持ちは、自然と足を早くさせ、ハンスの抱く気苦労は、足取りを遅らせた。


 ハンスはカーラの背中を見つめていたが、不意にカーラが振り向いて、


「何してるの? そんな沈んだ顔で、何かあったの?」

「え⁉ あ、いや、別に……」

「変なの。ほら、行こうよ。早くルカさんに会わなくちゃっ」


 と、彼女は小首を傾げ、また歩を早めていった。ハンスは無言のまま、彼女の後に付いていった。


 三十分ほど歩いた後、二人は楽士組合本部に入り、松の多い中庭を見廻した。此処は、諸国放浪の根無し草である楽士達が、宿代わりとする場所である。

 ハンスが受付の前に立ち、ルカ・ウェールズという人が、宿泊していませんか――と手代に尋ねると、彼は宿帳を調べだし、


「ふむ……ああ、確かに泊まっておりますよ。どういう御用向きですか?」

「いるんですね。良かった。僕はハンスと言うのですが……」


 ハンスは初めてと胸を撫で下ろし、ルカが帰ってきたら、自分が捜していることを、伝えて欲しいと依頼した。

 手代の男は、紙片に用向きを書き留めつつ、ハンスの後ろにいるカーラを見た。彼女は、落ち着かない様子で、其処彼処を見廻している。展示されている鉄笛や、竪琴などに眼をやって、みどりの瞳を輝かせていた。

 手代は、言伝を書き終わると、顔を上げ直し、


「では確かにウェールズさんには、ハンスさんが来たと伝えておきます。今は不在ですが、夕方頃にはお戻りになるので、その時にお姉さんといらしてください」

「お姉さん……ですか。解りました。じゃあ、またその頃に伺います」


 ハンスは不満げな表情だが、それはすぐに打ち消した。彼は、待っているカーラに声を掛け、是非無く本部から退いた。だが、彼らの胸には、少しの失望も存在しない。

 むしろ、久方振りにルカと会い、様々な事情を話すには、楽しみと心のゆとりが必要だと思った。

 カーラはもう喜色満面で、ハンスに向かって声を弾ませていた。往来の者から見れば、確かに姉弟――放埒でお転婆な小娘と、そんな姉に手を焼く弟にしか見えないだろう。


 カーラはやたらといきいきした声で、ハンスに向かって早口で、


「ね、ハンス。一回家に帰るのもつまらないから、何処かでご飯でも食べようよ。あたし、帝都には詳しいからさ。勿論、奢るから」

「僕は帝都に関してはさっぱりだから、カーラさんに任せるよ。弟にでもなった気分で」

「弟だなんて言われると気恥ずかしいけど、任せておいて。それと……ルカさんに会う前に、改めて君に頼んでおきたいから」


 伏し目がちにそう言って、顔を赤らめるカーラを見て、ハンスは思わず憮然とした。彼女の言葉が痛いほどによく解り、胸の底に、切ない言葉が強烈に響くのだ。

 あの時の約束を踏んでよ、ルカさんとの仲を取り持ってね――と迫られるに違いない。

 足取りの軽い銀髪と、俯き加減の緑髪は、蓮の池を見晴らした、一軒の飯屋に入っていった。


 ――夕陽の頃には、もう一度ルカを訪ねるので、酔うまいと気を引き締めていたが、カーラは二、三本の銚子を開け、ほんのりと顔を赤らめた。ハンスはそんな彼女を見、中々本題に入れずにいた。

 当のカーラはというと、ハンスの気持ちなどいざ知らず、彼に肩に手を回し、軽口を叩いている。


「ほら、ハンス。君も、そんな固い顔してないで、一杯くらい、どう? ねぇ、密偵さんは、度胸が大事だよ、度胸が。ほら、やっぱり君だって、あたしと三つしか離れて無いから、呑めるに違いないっ。それともあたしと一緒だから、緊張でもしてるの? あはは」

「カーラさん……そろそろルカさんに会うんだから、その辺にしておかないと」


 と、彼は酔いどれの哲学には関係無く、窓を細目に開けた。いつの間にか西陽となり、真っ赤な斜光が差し込んできた。

 ほら、とハンスが横に向き直ると、カーラは彼の肩に顔を乗せていた。ハンスが思わず唖然とし、真っ赤な顔で何も言えずにいると、カーラは、酒の上の頬に紅を差し、


「少し待ってよ……。さっきも言ったけど、あたしの口から頼んでおきたいことがあるんだよ」

「大体解ってるよ。いつか、黒屋敷でカーラさんと約束したことでしょ? それでルカさんと君との仲を取り持って欲しいんでしょ?」

「まあ、占い師さんみたいだね……。でも、あたしの気持ちも察してよ」


 ハンスは瞑目したまま、敢えてカーラの顔は見ず、自分の口で自分を励ますように、


「で、でも、そのことはもう少し待っててよ。この間も話したけど、ルカさんは本当なら帝国直参騎士の嫡子なんだよ。た、確かに恋に身分の違いは無いけど、ルカさんは今、僕と一緒に、これからジパングに潜り込んで、陰謀を暴こうとしてるんだ」

「それは解ってるよ。深い事情は聞かされてるから、何も今とは言わないけど、全部終わった後に……。あたしみたいな歪んだ、浅ましくて、もう人生の取り返しが付かない日陰女を救うと思ってさ」

「カーラさんは歪んでなんかいない!」


 と、ハンスは思わず叫んでしまったが、驚いて何事かと眼を白黒させるカーラを見て、また恥ずかしそうに座り直した。

 ハンスは気恥ずかしさを誤魔化すため、拗ねたように唇を尖らせて、


「そりゃ……一度は話してみるけどさ、絶対とは言えないよ」

「有難う。あたしだって、今の自分を少しでも真人間に近付けたいと思ってるんだよ。カーラ・サイツの根性を今から僅かでも良い方向に向けたいって」


 卓の上に顎を乗せ、石のように強張ったカーラの言い方は、余りにも真味に迫っていた。ハンスはそれを見ていると、彼女をあしらう気にはなれないのだ。まるで心に楔を打ち込まれたようになる。

 

「ね、こんなこと、君にしか頼めないんだよ。あたしの所為で、沢山の人が死んだり怪我をしたりしてしまったんだから、せめてその罪滅ぼしにルカさんの手伝いをしたいんだよ」

「……解った。任せておいて」


 と、ハンスはカーラが悔悟した真情に衝たれて、絞り出すように共鳴した。カーラが不良少女から足を洗うため、自分はあの約束を、固く守ってやらねばと思っていた。

 ハンスは、意を決してカーラを見、


「でも、一つだけ約束して欲しいんだ。カーラさんは、本当は凄く優しい人なんだから、自分を大切にして。悪いことをするのは、自分で自分を苦しめているようなものだから」


 親を嫌い、世間に擦れてしまったカーラを、本来の純情へ立ち帰らせるには、神力でも仏の加護でもなく、ましてや、果てない地獄の責めよりも、ただ一人の恋人が、手を取って共に歩むに限る。そしてそれは自分ではない――そんなことをハンスは思っていた。

 カーラもまた、自分の怖ろしい稼業から、救われることを望んでいた。自分だけの悔恨や、意思では治りきらない悪い習慣も、愛しいルカの側にいれば、きっと治る筈、子供の頃のように、純粋な人間に近付ける――彼女はそう信じていた。


 別の部屋から、気前の良いお囃子が鳴りだした。鼓の音に、笛の音、初春らしく賑やかだ。

 外には羽根つきの音や初商いでどよめいている。ふと、ハンスの耳に、何処かで聞いた大道芸の鼓の音が、寒々しげに聞こえてきた。

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