誰も彼もが危機一髪

 ハンスの横に立った高坂陣内こうさかじんないは、怖ろしい蛇眼だがんを光らせて、同田貫どうだぬきに手を掛けた。袂を捲った右腕には、蚯蚓のような血管が膨れている。

 うつ伏せているハンスは、肩に深々と刺さった手裏剣を、何とか引き抜こうとしていたが、猛烈な痛みと痺れ薬の効力で、動くことすらままならない。弱り切った獣のように、哀切たる身悶えを見せるのみ。

 陣内は、凄まじい気当の声を上げ、彼の気合いと声が、闇の中を二つに裂いた。一瞬、彼の手元がキラリと光り、眼にも止まらぬ素早さで、鞘走った皎刀こうとうが、ハンス目掛けて伸びていく――と思われた時である。


「止めなさいっ」


 と、カーラが陣内に飛び付いて、姿勢を崩した陣内は、迸らせた切っ先を逸らしてしまい、それは危うくも、ハンスの頬をかすめた。ツーと流れる血を感じつつ、なんとか彼は、芋虫のように這いだした。

 カーラは陣内の足に組み付いて、眼を瞑って歯噛みして、振りほどかせまいと必死にしがみついている。だが、如何に気丈に振る舞っても、膂力は明らかに桁違い。

 邪魔だ、と言わんばかりに陣内は、彼女を突き放すと同時に腹へ蹴りを加え、カーラは息を吐いて、惨めに悶絶してしまう。その間に陣内は、同田貫を持ち直し、ジリジリとハンスに迫って行く。


 ハンスは肩から血潮を流しつつ、腹這いのまま腕だけで気息奄々としながらも、何とか立ち上がろうと藻掻いているが、ヴェイスが彼の前に立ち、顔を思い切り蹴飛ばして、仰向けになった彼を踏みつけた。

 革靴なので、凄まじい痛みである。ハンスは叫ぶ気力も無く、咳込みながらも相手を睨む。ヴェイスは憎たらしく微笑んで、彼の襟首を掴み上げ、ビシリと平手を喰らわせて、ゴミのように放り投げた。

 ヴェイスは手巾で両手を拭いつつ、


『おやおや、手が汚れてしまいましたね。実は私、人の血で汚れるのが余り好きでは無いのです。陣内殿、止刀とどめはお任せ致しますよ』

『うむ。任せておけ。真っ二つにしてくれる』


 ハンスは身を焦がす激痛に、歯軋りしながら後退り、引っ提げ刀を涙目で見つめている。陣内は無情な眼差しで、目の前のハンスを見下していた。

 彼を追い詰めた土壇場で、高坂陣内は、月が昇るようにゆっくりと刀を上げて、上段構えの先にある、抜き身の皎刀こうとうが冷たく光る。

 両肘で作った円の間から、ハンスを睨んでいた陣内が、かっと大きな声を出し、力を撓め抜いた据物斬り! 同田貫の切っ先が、流星のように闇を切る。

 その時サッと揚がったのは、血飛沫ではなく水飛沫――力尽きたハンスが、河に落ち込んだ飛沫である。水煙が晴れると、彼の姿は既に無く、波紋が蛇の目のように広がっていた。


 陣内はそれを見捨てて刀を納め、ヴェイスの方に向き直り、思いがけなく取り戻したカーラとミーナを、これから何処へ運ぼうか――と、辺りを包む晦冥より、外見の黒い陣内と、腹の黒いヴェイス・フリードは、声を殺して相談し始めた。

 陣内は、昏倒してしまったカーラを担ぎ、すっかり悦に入った顔である。もう邪魔する者は消え、カーラは自分の物だと確信した表情だ。ヴェイスも顔を見せ、愉悦を隠しきれていない。

 しかし彼は、生来慎重な性質たちである。模糊とした水面に眼をやって、


『思いの外、上手くいきましたね。……しかしハンスを斬り損ねましたが、大丈夫でしょうか?』

『案ずる事は無い。この寒さだし、あの深瘡ふかでだ。凍え死ぬか、悶え死ぬの何方かだろうさ。ところでヴェイス、そなたはその女を抱えて、これから何処へ落ち着くつもりだ。まさか野宿というわけにもいくまい』

『それには私も当惑しているところです。まあ銀行の預金だけは沢山ありますから、暫く、貸し風呂の奥座敷を借りましょう』


 この国の銀行は、地下金庫に預金を保管しているのだが、国費をふんだんに使った鉄壁の金庫である。滅多な事では失われない上に、ヴェイスは富豪の遺子である。当面の資金は安心だ。

 陣内もそれを聞き、満足げに頷いたが、未だに町は、大火に周章狼狽しきっている。如何に女の身が軽くても、騒乱の中を担いでいくのは不可能だ。何処かに駕籠か人力車は無いものか――と思いながら、二人が四方を見廻していると、すると視界の隅に、人力車の提灯が入って来た。

 悪運の強いときは、何事も上手くいくようだ。神をも怖れぬ二人の悪党は、こんな時だけ神に感謝して、それぞれ女を引っ抱え、気を付けながら歩き出す。

 

 教会の門に続く玉垣の影、その途中に、二両の車が捨ててある。提灯は灯されているが、車力もおらず、幌も上げられたままである。それを見て、ヴェイスは瞬時に頭を働かせ、ブツブツと何か言っている。

 陣内はその様子を訝しみ、気味悪そうな声で、


『おい、どうした。速くこれを使おう』

『お待ちください。軸も乱雑で、敷物も打ち棄ててある。しかし足跡は道に沿ってはいません。これは恐らく、火事から逃げて来た者達が、私達の暴行を見て逃げ出してしまったのでしょう。慌てて逃げ出したのでしょうが……』


 念仏でも唱えるように、推理を独りごちながら、不意に脇の茂みを見据え、そこに向かって、苦無くないを二本投げつけた。

 あッ、と高い叫びが聞こえ、二人の婦人が斃れ伏し、茂みに身を伏せていた、車力が二人飛び出した。ヴェイスは、遠ざかっていく彼らの背を横目で見、玉垣の上に跳び上がり、タタタッとその上を駆け抜けて、彼らに向かって、二本の鋼線を投げつけた。

 短い音が虚空を切って、一瞬光った鋼線は、車力二人の足と首に巻き付いて、彼らは前のめりに倒れ込む。ヴェイスは倒れ込んだ二人を踏みつけて、ギリギリと首を締め上げた。名状し難い悶絶の声が響き、車力達はその場で息絶えた。


 瞬く間に四人を葬ったヴェイスは、恬淡として戻って来た。何事も無かったようにミーナの身体を担ぎ上げ、一両の車に寄り、彼女をその中に撥ね込んだ。

 陣内は、ヴェイスの妙技に感心しながらも、優男の見た目に似合わず、息をするが如く人殺しをした彼に、(拙者も油断ならない)という怖れを内心で感じていた。

 ヴェイスは、後ろに突っ立っている陣内に、人懐こい笑みを見せ、


『さ、陣内殿。貴殿は向こうの車をお使いなされ』

『む、そうだな。その前にこの死骸を河に投げ込んでおくぞ』

「そこの二人、待ていっ」


 と、大鐘のような声が、寂寞とした闇に響き渡った。何しろ不意の事なので、陣内とヴェイスは、胸の中に大岩が落ちたように、愕然として狼狽した。

 声がした方に提灯を向けると、背の低い老人が一人いる。顔には深い皺があり、白髪を総髪に結び、見た目は七十歳過ぎである。

 何奴、と陣内はカーラの身を捨てて、猛然と彼に近付いて行くが、白髪交じりの老翁は、年齢を感じさせない立派な風采で、昂然と陣内を睨んでいる。陣内は彼を侮り切っていたのだが、相手の放つ殺気を感じ取り、足を止めて刀に手を掛けた。


 老翁は物怖じする様子も無く、背に鉄骨が入っているかの如く、真っ直ぐ大地に立っている。


「そこの者共っ。四人も殺しておいて何処へ行こうというのだっ。しかも女性を拐かす気かっ」

「黙れっ。そなたの方こそ何者だっ。この二人は我らの妻だぞっ」

「妻ならばそうやって担ぐこともあるまい。仮にそうだとしても、この四人はどう説明するのだ」

「問答無用です!」


 後ろで聞いていたヴェイスが痺れを切らし、ヒュッと棒手裏剣を投げつけた。老人の眉間が血を噴き出す――そうヴェイスは信じて止まなかった。

 しかし彼の眼に入ったのは、血煙ではなく火華である。老翁は鉄扇を煌めかせ、戛然と手裏剣を払ったのである。のみならず、彼はと地を蹴って、油断しきっていた陣内に、手痛い鉄扇の一撃を鋭く見舞った。

 これには陣内も驚いて、思わず二歩三歩後退り、カーラの身体を地面に放り、おのれ! と同田貫を抜き払う。この場合、血が上ってしまった彼の頭には、居合を放つという能は無い。


 真っ黒で魁偉な侍にも、得体の知れない隠密にも、老翁は、さして心を動かされる素振りもなく、飽くまで恬淡とした語調で曰く、


「そこの金髪の青年よ、お前は確かヴェイス・フリードと言ったな。お前は人に殺される覚悟をしたことがない。死身になったことはないのだろう」

「何を言っているのですか……。あ! あなたは確か」

「良いかフリードよ。真剣を抜いた場合、自分が死ぬまでその因縁は憑いて廻るのだ。抜くからには、いずれ自分が殺される覚悟を持たねばならん」


 ヴェイスは、妙に凄味のある老翁に、僅かではあるが気圧されている。今まで幾人もの人間を、影で狡く立ち廻って、陥れたり闇討ちしたりしていた彼なのだが、今は得意な詭弁も出ない。

 もう一方の悪党、高坂陣内が代わりに躍り出て、刀の先に気合いを込めて、怪しげな男に肉薄していった。ヴェイスも気を取り直し、匕首あいくちを抜いて跳び上がり、老翁の左に着地した。

 悪玉二人、いつにない慎重な気構えで、相手が動いた瞬間に、死角になった方が斬り掛かる――と、声に出さずとも示し合わせ、左右から相手を窺っている。


 しかしこの不思議な老翁は、凪いだ水面のように寂として、全く騒ぐ気色がない。自分よりも、遙かに若い二人の悪玉が、凶刃を近付けているにも関わらず、何処吹く風という様子である。

 相手が余りに落ち着き払ったものなので、業を煮やした陣内が、刀を蜻蛉に取り、


「耄碌め! そなたもさっさと抜けっ」

「む、必要あるまい。若者に怪我をさせてはいかん。申し開きがあるなら、お白洲でお奉行に言いなさい」


 皮肉な答えと共に、充分に用心を見せながら、老翁は鉄扇をピタリと構えた。一見無造作に見えるその構えは、八面鉄壁斜め青眼、一分の隙も破綻も無い。

 いと粛然としながらも、余す事なく放たれる、その気配りとその殺気。剣道に明るい者から見れば、容易ならざる相手である。

 剣戟森々たる陣内も、ここでは大事を取って、雪駄を摺らせてジリジリと、黒頭巾から眼を光らせて、臆病にも見える気組みである。しかし、ヴェイスがそんな警戒心を持つ筈もなく、また彼には、先程罵倒された怨みもある。

 

 小癪な爺め、と彼は逆手に持った匕首あいくちを、敵に向かって伸ばしていく。確かに彼は手練れの隠密だが、正面切っての剣術は、まるで素人同然だ。剣風一颯、それは虚しく空を切り、二撃目は難なく外される。

 こうなっては陣内も、大事を取ってはいられない。蜻蛉の型から地面を蹴って、老翁目掛けて斬り込んだ。ヴェイスもいよいよ苛立って、二人の悪党は、老翁を挟み撃ちにせんと跳び掛かる。

 途端に、老翁は右手めての鉄扇に力を込めて、ヴェイスの額をビシリと打ち、同時に左手ゆんでで襟を引っ掴み、彼を陣内の方に投げつけた。身を沈めた老翁の向こうから、味方が投げられてきたので陣内は、驚いて刀を止めてしまった。

 

 その刹那、老翁は陣内に躍り掛かって、ヴェイスを踏みつけに、またしても鉄扇で風を切り、陣内に一撃喰らわせた。彼は舌打ち一つ為し、颯然と刀を振り下ろす。

 しかし老翁は刀が来る前に、平手で陣内の肘を打ち、振り下ろされた切っ先は、物の見事に狂っていた。あッと陣内は度肝を抜かれたが、彼も無類の剣客だ。粘り強く力を入れ直し、敵の逆袈裟を狙って斬り上げた。

 老翁は、踵を蹴って刀を躱し、またピタリと構えを取り直す。陣内は歯噛みして彼を睨み付け、平青眼の構えを取る。睨み合っている二人を余所に、相手が手強いと感じたヴェイスは、すっかり胆を潰してしまい、いつの間にか姿を隠してしまっている。


『くそっ。あの男、覚えておれ』


 陣内は、彼の卑劣を憤りつつ、裂帛の猿叫えんきょうと共に、渾力を柄手に込めて、鍔も割れよと斬り込んだ。闇の中に、キラリと光った皎刀こうとうが、老翁目掛けて伸びていく。

 しかし、彼もまた手練れの剣士である。奮然と膂力を右手めてに集め、陣内の同田貫と老翁の鉄扇が、鏘然しょうぜんとして火華を散らす。力で勝る陣内は、鉄扇を粉々に砕いたが、敵の身体は瘡付かず、もう佩剣に手を掛けている。

 陣内は赫怒に身を震わせて、同田貫の鍔をガチガチ鳴らし、黒頭巾から真っ赤な顔を覗かせた。あわや! と思われたその時に、急げ急げ、と幾人かの声が聞こえてくる。消火に向かう者達が、偶然この道に来たものらしい。


 高坂陣内は慌てふためき、心の中で毒づきながら、一目散に逃げ出した。老翁は、何事も無かったかのように落ち着き払い、人力車の中、ヴェイスに見捨てられたミーナの顔を覗き込み、


「オオ……やはりミーナ様だったか。可哀想に」


 そう彼が呟いた時、後ろから一人の男がやってきた。男は老翁の弟子らしく、彼の後ろから息を弾ませて、


「先生、此処も火の手で危なくなって参りました。早く道場に帰りましょう。おや……そちらにいるのはもしや」

「うむ。お前もよく知っているミーナ様だ。どういう経緯は知らんが、ヴェイス・フリードとジパングの侍に絡まれていたのだ。連れて帰ろう」

「はい」


 老翁は弟子に車を曳かせ、自分は脇を固め、俄に息杖を急がせた。炎の空は真っ赤である。いよいよ火勢は強くなり、烈風は猛炎をあおり、猛炎は風を起こし、火の手はとどまる気配も無い。

 丘の上の貴族街から、下町へと延びた火は、夜の内に河を越え、帝都の南地区を灰燼にした。火の粉が暴風雪のように舞ったので、華やかだった横丁も、いかがわしい風俗店も、春を控えて惨めに焼けた。

 その火の海を彼方に見て、ミーナを乗せた人力車は、東に向かって走っていたが、それから先は、皆目行方が解らなくなった。


 その後、駆け付けて来た者達は、河に浮かんでいたハンスと、道に倒れていたカーラを見つけ、逃げ遅れて怪我をした姉弟だろうと思い、大急ぎで救護所に運んでいった。

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