一難去ってまた一難

 ――高坂陣内こうさかじんないとヴェイス・フリードは、屋敷を出てから三十分ほど歩いた後、貴族街から西にある、繁華街の奥にいた。ルカ・ウェールズを討つ為に、計画の手筈を講じようというのである。

 時刻はもう午後十時、小料理屋の二階、広い一間を借り切って、お銚子やら肴やらで席を満たし、置酒高会ちしゅこうかいを楽しんでいる。否、実際の所はというと、ヴェイスにおだてられた陣内が、気分良く杯を干している。とにかく酒豪の彼なので、今もまた、十二本目のお銚子を空にした。

 ヴェイスは相手の武勇伝、剣術談義に一々同調しながらも、浅酌を嘗めるように彼を見て、侮蔑の気持ちを持っていた。酔っ払ってしまった陣内は、舵を預けてしまったようなもの。話し合いはヴェイスの思惑通り、陣内が危険の九割を、何の余地も無く背負うことになってしまった。


 ヴェイスは酒を陣内に勧めつつ、赤ら顔の彼に向かい、ニヤリと薄ら笑いを浮かべつつ、地図を筆で指しながら、


『そういうわけでして、ルカは明日の昼には帝都に入るはず。一つ手前、ヨネーブ宿場を出て、帝都まで行くこの三叉路は、役人の眼も届かぬ場所です』

『ふ、ふむふむ。それで、せ、拙者はァどうすれば、良い、良いのだ?』

『オオ、杯が空ですよ。ささ、もう一杯。や、良い呑みっぷりです。流石はジパング屈指の豪傑……失敬、貴殿らはジパングではなく、日ノ本と呼ばれるのでしたな。ははは。何、私は少々貴国に興味がありましてな』


 こんな調子で、ヴェイスは中々本筋を進めない。陣内も流暢なジパング語で、

母国や自分を褒められると良い気分、すっかり相手に乗せられて、また手酌を一気にぐいと干す。

 ふとヴェイスは何気なく、窓の外に眼をやった。すると外の暗闇の中に、赤い埃が見えてきた。おや、と呑みかけていた杯を下に置き、窓を開けて首を出した。

 霏々として降り注ぐ火の粉は、冬の烈風に煽られて、真っ赤な雪のようである。ヴェイスは瞠目して茫然と、


「オオ、大変な火の粉……」


 今頃になって迂闊なようにも思えるが、そこは銭湯の奥にある小料理屋、非常に静謐な場所である。先程からの半鐘や、警笛の音も聞こえずに、二人は酒肴を干していた。

 ヴェイスは愕然とした後、部屋の外へ駆け出して、一階の厨房に向かって行った。陣内は全く騒がずに、美味そうに酒を呑んでいる。

 すぐにまた、ヴェイスが慌てて戻って来た。


『陣内殿! 大火、大火ですっ。しかも火元は南区だそうですっ』

『そうか』

『そうかではありませんよっ。南区は私の屋敷があるのです。この強風で、延焼してしまっては大変です!』

『大丈夫だろう……』

 

 陣内はそう呟いて、手酌の一盞を、チビリとくちへ鳴らしつつ、至極落ち着いた様子である。先程までの酔いどれ顔は何処へやら、剣客らしく泰然自若とし、窓をピタリと閉めてしまう。

 悠然とした彼を見、ヴェイスが不審がっていると、彼は不敵な笑みを見せ、


『いやはや、頭は充分に切れるようだが、実際にこういう場面に出くわした事は無いようだな。いくら風が強勢でも、あの高台だ。燃え移る事もあるまい』

『しかし、屋敷は木造ですよ。火の粉を被ったら』

『ははは。知っているか? 石や鉄は熱の伝わりが早いから、すぐに曲がってしまう。しかし、丈夫な木で造られた家は、ちょっとやそっとの火の粉では燃えん。それこそ、炎をそのまま被るか、家自体が火元にならない限り』


 陣内の生まれ育った江戸の町は、とにかく火事が多いのだが、その分彼は、火事に詳しいのだ。黒屋敷の建っている場所や周囲の地形を見た彼は、そこが滅多なことでは燃えないと信じている。

 しかし神経質なヴェイスは、落ち着いていられないらしく、陣内の腕を取り、一緒に外へ行こうとした。陣内は明らかな不服顔を見せ、容易に動こうとはしなかった。

 ヴェイスは早口で、声を少し上擦らせ、


『何をしているのですか。お話なら外でお聞きしますから。さ、早くっ』

『まあ待て。ルカを殺す相談をするために此処まで来たのだ。火事なんかより、いよいよ明日、帝都に入るルカの方が急を要するだろう』

『それも一理ありますが……』


 ヴェイスは、耳に障る鐘のと、ルカの事とで思い惑い、どうすることも出来ずに立っている。

 (所詮は若い書生だな)と、今度は陣内が内心で、彼の事を笑っている。彼の言う通り、今夜彼らが此処までやって来て、安くはない金を支払って、密談している目的は、ルカ暗殺の相談である。

 ルカが明日、帝都に到着する前に、彼の仕留めてしまうのが、最上の手段である。先程ヴェイスが伝えた通り、帝都目前の三叉路で、必殺の策を伏せておこうというのが目算だ。


 それでそのために、ヴェイスは部下に手紙を持たせ、二、三カ所のさかり場へ、無頼漢共を集めに行かせたのだ。

 陣内はその返事も来ぬ内に、ヴェイスが席を立ちかけたので、彼の小心を嘲るように、


『大事を目論む矢先に立って、浮き足立つのは禁物だ。そんな小さな量見方りょうけんかたなら、そなたと組むのはお断りだ』

『……』

『考えてみろ、拙者もそなたも恋仇を討とうとしているわけだが、そなたはミーナとやらの他に、素晴らしい財宝まで手に入れるではないか。そなたが七分の利、拙者が三分の利だ。それなのに、拙者は示現流の腕前を貸そうとしているわけだ。少しは有難く思い給え』

「え、ええ。そうですね。……すみませんっ。お銚子、お銚子のお代わりを」


 ヴェイスも、ここで陣内の機嫌を損ねては困るので、彼の挙動に怯えつつ、味のしない酒を呑み始めた。

 するとそこへ、給仕の女がやって来て、お銚子を取り替えつつ、ヴェイスの部下である、クライヴが帰ってきたと伝えてきた。

 給仕が出て行くのと入れ違いに、一人の男が入って来た。どうしたことか、ひどく息を切らしている。


「ヴェイス様、大変ですよ! 火事です、怪し火の所為で、南区一帯はもう火の海ですっ。もう外は消火隊で大騒ぎですよっ」

「それは解っている。頼んでいた事はやってくれたか」

「それどころではありませんよっ。火元は我々隠密組の黒屋敷、ヴェイス様のお屋敷ですよっ」

「は⁉ 本当か!」


 ヴェイスは駭然して叫び、陣内も思わずカラリと杯を落としてしまう。彼は声を震わせて、陣内の方に向き直り、もう落ち着くべくもなく、早く、と叫んだ。

 明日の手筈も急なら今夜も急である。二人は当惑していたが、人数の手配はクライヴに任せる事にして、バラバラと小料理屋から駆け出した。

 火元は黒屋敷――真偽の程は解らぬが、ヴェイスの胸中は、屋敷に隠された財宝と、ミーナの安否に騒ぎ立ち、陣内はというと、取り残してきたカーラの身が心配だ。霏々たる火の粉は、真っ赤に夜闇を彩っている。二人は肩を並べて駆け始めた。


 繁華街の外まで来ると、ヴェイスは茫然として足を止め、嘆息混じりの声を出し、ジパング語で話すのも忘れてしまい、


「ああ! もう駄目だ、やはり火元は黒屋敷だっ。今更駆け付けた所で間に合わないっ」

「駄目だろうか。まだ間に合うかもしれないぞ」

「あの通りですよ! もう手遅れですよ」


 ヴェイスは忌々しそうに高台を指差した。貴族街の高台は、五輪の聖火の如く燃え盛り、その下に広がる町並は、炎の海となっている。

 ヴェイスは落胆して肩を落とし、捨て鉢のように、


「こうして、誰かさん曰く燃えにくい木造の屋敷は、灰になってしまいましたとさ」

「待てヴェイス。そう悄気るのはまだ早い。さっきクライヴの話では、何故怪し火だということらしいな」

「はあ。確かにそう言いましたが」

「ならば、その怪し火に何か曰くがあるかもしれん。とにかく此処で泣き言を言っていても仕方がない。行くぞ」


 挫けた元気を取り戻し、ヴェイスと陣内の二人は、再び韋駄天のように走り出す。方々から集まった町火消、火事奉行直属の定火消、彼らの持つ火消道具や緋羅紗など、煙に渦巻く中を駆け抜けて、高台の麓まできてみると、最早上は火炎の坩堝。

 黒屋敷を初めとし、辺りのお屋敷一帯は、跡形もなく焼け落ちて、紅い壺を砕いたような余燼の火は、ヴェイス達を嘲るように、メラメラと紫に這っている。

 立ち尽くす二人の瞳に映る猛炎は、陣内からしてみれば、カーラが燃える炎に見え、ヴェイスの眼には、貴重な財宝やミーナが焼け溶けてしまう火に見えた。


 バキバキッと火の見櫓が倒れてきて、凄まじい音と共に、焼けた木屑が飛んできた。振り返ってみると、貴族街を焼いた火は、庶民街まで燃え広がり、逃げ道まで塞がれそうな勢いだ。

 

「それ、危ないぞ。ヴェイス、ほら早くっ」

「ああ……」


 失望落胆、幻滅の悲哀を抱いた二人の悪党は、炎の波に追われるように、足に力も無く逃げ出した。大樹があるので、火の届かぬ土手がある。そこを急いで登り越えると、落莫とした木立の中に、サーッと水の流れる音がする。

 寒風が吹く度に、枯葉を散らす木々の下、川に沿って歩いていくと、そこは古びた教会の庭である。だいぶ昔に移転して、今は建物だけが寂然と、火事を他所に森深と更けている。

 大火事の喧噪は少し遠くなり、風が吹き荒れる音と、ガサガサと鳴る枯れ木の声が不気味である。寒月が悪戯に輝いて、此処だけ静かな夜である。


「うん?」


 陣内は、何かを耳にした。人の話し声である。しかも何処かで聞いた事のある声なので、彼がその方向へ眼をやると、月明かりに照らされて、僅かにではあるが、三つの人影が視界に入ってきた。


 ――地獄の業火の魔の手から、無我夢中で逃げ出してきたカーラは、大怪我をしたハンスに肩を貸し、またミーナを励ましながら、やっとの事で、教会跡の庭まで逃げて来た。此処は、火元から遠い風上にあるので、まず安全な場所である。

 ほっと一息ついた後、ハンスの身体を辷り下ろした。紅蓮に巻かれた苦しさと身体を打った痛みに彼は、小刻みな吐息と共に、小さな呻きを発している。

 命に別状は無いようだが、如何にも苦しげなのを見て、カーラは心配そうな顔で、


「ハンス、ハンス、聞こえる? ああ、どうしよう……。ハンス、返事をしてっ」

「カーラさん。気休めにもなりませんが、私、薬を少し持ってきました。ハンス君の瘡を洗うための水を汲んできてください」

「ああ、はい……」


 カーラの頭は昏迷していた。何かを口に出すゆとりも無い。ハンスも気が付いているのかいないのか……。ただミーナ一人だけは、流石に貴族のご令嬢だけあって、すぐに毅然とした落ち着きを取り戻している。

 カーラは言われるがまま、井戸の方まで走って行き、水を桶に掬った後、気だけはいらいらと急きながら、掬ってきた水をこぼさぬように、小刻みは足取りで歩いていく。赤い空から地の闇へ、火の粉が霏々として降ってくる。

 その時、カーラの襟をと掴んだ者がいる。高坂陣内だ! カーラは咄嗟に桶を捨て、腰の剣に右手めてを伸ばす――それを許さぬ片手投げ! 綿のように疲労していたカーラは、何の苦も無く地面に落ち、再び立つ力も無い。精根尽き果て、罵る声すら出ないのだ。


「うう……」


 ただ悔し涙と怨みを込めて、蘭華に似たる眦を裂き、陣内を睨むばかりである。彼の方は勝ち誇った顔である。

 何の悲鳴も無かったので、ミーナはハンスの服を脱がせ、その瘡を看てやっていた。その時誰かの足音が、後ろへ立った様子なので、カーラが戻って来た思い、彼女が振り返った途端、その紅唇に白い手が蓋をする。金髪の若い男、無論ヴェイス・フリードである。

 ミーナが何か言う前に、人体を知り抜いている彼は、ドンと脾腹に一撃加え、彼女をぐったり気絶させてしまう。彼はミーナの身体を担ぎ上げ、離れた場所にいる陣内へ、


『陣内殿! ミーナは確保しました。行きましょうっ』


 と叫んで歩き出す。陣内と合流し、何処かへ急いで去りかけた。するとその時、


「ま、待て……」


 と、陣内の服を掴んだ者がいる。何か、と彼が振り返ると、それはハンスであった。剣を杖代わりにし、苦しげな表情で立っている。

 陣内は眼を怒らせて、糸蚯蚓のような皺を眉間に寄せた。その怖ろしい容貌は、闇と月と火の粉の所為で、悪鬼もたじろぐ程である。


「何だ、お前か。名前は確か、ハンスとか言ったな」

「そ、そうだ……。か、カーラさんを離せ……。それに、ぼ、僕はミーナ様の事もルカさんに、頼まれて、いるんだ」

「ほう、ルカの差し金か」

「うう……。ルカさんが、帝都に帰ってくれば、お前達の、首も……危なくなるぞ。カーラさんを僕に渡して、ミーナ様を離せ……」


 陣内はニヤリとして、彼の決死の台詞を嘲笑い、ヒョイッと杖にしている剣を蹴飛ばした。当然ハンスはと倒れてしまう。

 それでも彼は気丈な声で、


「離さないなら、僕が、僕がお前らに引導を渡してやるっ」

「お黙りなさい! 察するところ、黒屋敷に火を放ったのも貴方ですね」

「そうだっ」

「成る程。それならルカにこう言っておいてください、貴方の恋人ミーナ様はヴェイス・フリードが頂きます、と。それに、そんな大怪我を負った身で、何が出来るのですか、ただでさえ能無しな見た目のくせに。乞食の方が、余程賢いかもしれませんな」

「なんだとっ」


 憎たらしいヴェイスの声と言い草に、思わずハンスも激昂し、痛みも忘れて跳び掛かる。しかしそこへ、待ち構えていた彼は、ヒュッと棒手裏剣を投げつけた。

 闇を切る手裏剣は、ハンスの眉間へ飛んでいく。はっとした彼が、咄嗟に身をよじったので、刃は彼の肩に立つ。しかし、ただでさえ手負いの身であるのに、棒手裏剣まで刺さったので、彼は地面に落ち込んで、耐えがたい激痛に身悶えした。

 しかもヴェイスは周到だ。仕留められなかった時のために、痺れ薬まで塗っていた。滔々と流れる血潮にまみれ、ハンスは叫ぶ事も出来ず、声なき涙を流すのみ……。


「あ、ああ……。か、かあ……さ、ん」


 声を震わせる彼の後ろに、ヌッと立った陣内が、同田貫どうだぬきの柄へ手を掛ける。示現流の型どおり、息と力と気合いとを、右手めての握りに集中させ、ぐっと腰に力を撓める。

 哀れ、ハンスは輪切りとなるのであろうか? カーラとミーナは、このまま永遠に行方知れずとなるのであろうか?

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