燃える炎と黒屋敷

 刃物のような朔風が、闇を切って吹き荒れている。山をも動かすかのような猛風は、枯れ枝枯葉を撒き散らし、喬木の魔形まぎょうが、夜空に乱離と飛んでいる。居酒屋飯屋に掛けられた、暖簾や看板などは無情にも、風に押されて飛んでいく。

 気難しい冬風は、今日に限って荒々しい。空の雲は足早に過ぎていき、月を照り返す河波は、晒し木綿のように白瀾はくらんし、舫い船を弄び、忽ち濁化だっかしてしまう。

 そんな狂瀾怒濤のすぐ横で、ハンスは烈風にも関わらず、満身に汗をかきながら、焦心に背中を押されるように、脇目も振らず足も止めず、ただ一念に駆けていた。彼の前後左右に、定火消じょうびけしや街火消が入り乱れ、彼方に見える、狼煙のような黒煙へ、津波のように向かって行く。


 ハンスは彼の前にいる、邪魔な者を突き飛ばし、息もつかずに一息で、貴族街の登り道、なだらかな坂を駆け上がる。

 (カーラさん……! 無事でいてくれ!)と、彼は走りながら、幾度も彼女の顔を思い浮かべていた。無論、ミーナの安否も案じられる。ルカ・ウェールズから、彼女への言伝を授かっているハンスは、もう気が気では無い。

 黒屋敷の前まで来てみると、屋敷に火の手は上がっていない。しかし、辺り一面、夜靄のような薄煙が、何処からともなく濛々と漂っている。彼方此方の家々から、桶を持って水を汲み、男達が飛び出してくる。


 喚いて廻る者達も、駆け上がってきた人々も、火元が見当たらず、煙の中を彷徨いながら、


「火元は何処だ、火元は⁉」

「確かに麓からだと、この辺りから煙が見えたのだが」


 少しの間、彼らは戸惑いのていだったが、やがてそれが、少し離れた人家の無い、貴族街の崖っぷちだと知れるや否、


「すわ、怪し火だっ」


 そう一人が彼方を指差して、皆でそこになだれていく。その崖にはヴェイス・フリードが、黒屋敷に続く隠し通路を掘っていた。今夜も彼は、高坂陣内こうさかじんないを引き連れて、二時間ほど前に出て行った。

 そんなことは誰も知らないので、出所もしれない怪しい煙――と騒ぎは益々大きくなる。血の気の多い街火消の者などは、好んで白煙に入ろうとする。

 一方でハンスは、方角違いの煙には、怪し火には眼もくれず、黒屋敷を睨んでいた。その琥珀色の瞳には、一つの決意が宿っている。


「昨日も今日も家にいなかったから、カーラさんはまだ此処にいる筈……。もし大火にでもなったら、ミーナ様も危ないぞ」


 彼はそう呟いて、闇を切って駆け出して、栗鼠のように門柱を駆け上がり、敷地の中に飛び込んだ。そして鋭い眼差しで屋敷を見廻すと、彼は思わず駭然し、顛倒惑乱してしまった。

 ハンスが見廻した家廻り、相変わらず、窓も扉もぴったり閉じてあったのだが、その僅かな隙間から、細い煙が漏れ出している。黒屋敷は蒸された蒸籠せいろの如く、線香のような煙が流れている。

 カーラさん! と彼は魂を飛ばした狂人の如く、いつかカーラに引き込まれた、窓の下まで走っていた。しかし今夜に限って閉め切ってある。彼は歯噛みして、焦れったいと思ったか、離れた壁から走り出し、一階の窓の羽目板を、体当たりで破壊してしまった。


 ハンスは勢いそのままに、屋敷の中へと躍り込み、肩の痛みも忘れて中を見廻した。


「――ッ! やっぱりっ」


 彼は咳込みながら、大理石の床へうつ伏せた。何処を見ても煙、煙、煙である。彼は屋敷に跳び込んだ際、太い息を吸ったので、涙をこぼして咽せている。黒雲の中に入り込んだように、視界の自由は利かないのだ。

 ハンスは激しく咳込みつつも、(火……火元は此処だ。だとしたら、空気を入れたら駄目だっ)と直覚したので、一煽りに入り込んでくる風を遮るために、近くにあった絵画で、今自分が空けた穴を、ぴったりと塞いでしまった。

 しかしそうなるとハンスの身は、煙蒸しの中に監禁されてしまったようなもの。危険は危険なのだが、カーラの安否、そしてミーナの消息も知らない彼は、水火も辞さない覚悟である。


 ハンスは腹ばいになって、煙を吸わないように心がけ、まず辺りに眼をやった。濛々と立つ黒煙に向かって、何の手掛かりも無く、盲滅法、闇の中に力を込めて、


「カーラさん! カーラさん、何処にいるの⁉ ミーナ様っ」


 と、呼び掛けてはみたのだが、何の応えも帰って来ない。少年は、口を押さえて耳を澄まし、眼に沁む涙をこらえつつ、暫くとしていたが、彼の耳に聞こえるものは、命を刈り取る煙の音――煙に音は無いのだが、この時、彼の聡い神経は、身を苛む音が聞こえていた。

 ハンスは荒い息を上げながら、煙の底を這ってゆく。時折咳込んだり眼を擦ったりしながらも、彼は部屋から部屋へと、四つん這いで探索する。

 幾度もカーラの名前を叫び、ミーナの事を呼ぶのだが、呼べど応える声は無い。やがて彼は、屋敷の最奥、本館の裏口前までやって来た。空洞うつろのような長廊下、その最奥にある扉の前に、小さな部屋があるらしい。


 ハンスはその部屋の戸を掴んでみたが、鍵が掛けられていてひらかない。彼は懐から、仕事道具であるピックを取り出して、慣れた手つきで開錠した。

 扉を開くや否、凄まじい熱風が彼の面を衝った。


「こ、此処だっ。火元は此処だっ」


 ハンスは猛然と身を起こし、左の臂で顔を隠し、何の躊躇いもなく、部屋の中に跳び込んだ。そこは物置のようになっていて、古くさい家具やら雑貨など、使われなくなったものが並んでいる。

 部屋の突き当たりにある一隅から、闇の中、仄かに赤い光が見える。ハンスはそこまで疾駆して、床を闇雲に探り出す。すると、何かが手に触れた。地下へと続く扉の取っ手である。

 えいっ、とハンスは力の限り、地下への扉を引き上げた。その刹那、彼の稚いおもてを衝つ黒煙! 煙の渦に混じって、燦然とした炎が見える。紅玉を砕いたような赤い火は、地下の口からでも容易に見える。

 

 ハンスは思わず後ろに跳び退いた。それと同時に、はっきりとした声がする。地底から煙に入り混じって、女の泣く声が聞こえてくる。そして、それを励ます軒昂な声――紛れも無い、カーラ・サイツの声である。

 あっと彼は驚愕し、地下の口へ飛び付いた。いよいよ濃い煙が巻き上がり、呼ぼうとしては咽せ返り、しわぶき混じりに彼は叫ぶ。

 漠々たる密雲に、夕陽が差し込んでいるような光景だ。深い地獄の穴蔵へ、ハンスの声が響き渡る。


「カーラさん……! カーラさん、聞こえる⁉」

「あっ、ハンス! そうだよ、あたしだよっ。早く、早く助けてっ」

「カーラさん、しっかりしてっ。今助けるから、地面に伏せて辛抱していてくれっ」

「ハンスッ。縄を、縄を下ろして頂戴っ。愚図愚図してないで、早くしてっ。ミーナ様が、ミーナ様まで死んじゃうよ!」

「え⁉ ミーナ様がいるの!」


 ハンスは瞠目し、熱さも苦しさも忘れ、しきりに部屋を見廻した。先程までの苦痛も感じずに、ただ一念に縄を探している。

 眦を吊り上げて、部屋の中を跳び回るようにして、無我夢中、眼を血走らせて探し廻る。一刻を争う事態である。逡巡している内に、地下室の者達は、紅蓮の舌に呑み込まれ、焦熱地獄へ落ちるであろう。地下への戸口を開けたので、火の勢いは猛くなる。

 ハンスは極度に狼狽えた。惑乱した、懊悩した、半狂乱になった。縄、救いの縄、釈迦の垂らす蜘蛛の糸! 三途の川に近付く者達を、助け出せるのは彼のみである。


 ――紅蓮の地獄、阿鼻地獄。それは今、カーラ、ミーナ、マリーの三人が、喘ぎ呻いている地下の光景だ。籠もりきった黒煙が、区画外れの抜け道まで、濛々と噴き出した程である。ミーナのいた密見みっけんの間は、炎の海に包まれている。

 それを命がけで防いでいるのはマリーである。今日まで檻となっていた厚板が、今は命を守る防火壁。しかし、カーラが切り破った穴がある。マリーはそこから炎を出すまいと、分厚い敷物を背中にし、死身になって穴を塞いでいる。

 けれど悲しいことに、勢いを増すばかりな紅蓮の火は、出口を塞がれて怒るように、じりじりと壁を焦がして屋根を焼き、厚い欅の板をも焼き抜いて、真っ赤な色を吹いてきた。


 怒り狂う地獄の火は、あなやと見る間に、お鏡下かがみしたの方へ、ぐおうと悍ましい叫びを上げて這いだした。


「お嬢様ーッ。早く、早くお逃げくださいっ」


 マリーは力の限り、炎を押さえている。しかし数百、数千はいそうな炎の蛇は、彼女の肩を越えて、身体を呑み込もうとしている。メラメラッと音を立てる地獄の使者は、何の容赦もなく、マリーの髪を焦がし始める。

 ミーナはカーラに庇われて、地面に向かって顔を伏せ、僅かに煙を防いでいたが、乳母の声が聞こえる度に、声を絞って呼び返した。マリーは背中を焦がされ、肩に火が付いても、決してそこを離れず、ミーナに向かって呼び掛ける。

 しかし、息子に似て気丈な彼女も、燃え盛る炎に包まれだし、真っ赤な顔を振って悶絶し、


「お……おじょうさ」


 言い掛けたのと同時に、炎が敷物を突き破り、忽ち彼女は火達磨となってしまった。身も世もない叫びが、一瞬部屋に響いたが、後はもう何の声もしない……。

 熱された炉が火を噴くように、密見の間から炎が躍り出す。ミーナは、紅涙潸々と流しつつ、


「マリー……マリーッ」

「ミーナ様、駄目! 動いたら、あなたまで巻き込まれるっ」


 カーラは泣き叫ぶミーナを押さえつけ、彼女を必死に励ました。しかし彼女も、真っ黒な渦と微塵の火の粉を見、半ば諦め掛けていた。

 そこへハンスが、上の戸口をこじ開けて、地下の穴蔵へ呼び掛けたのだ。


 ――縄を探し廻るハンスは、紅蓮の釜から叫ぶ二人を救うべく、歯噛みをした、地団駄を踏んだ。ミーナ様のものと思われる、悲鳴が下から聞こえてくる。それを励ますカーラの声も、次第に煙に覆われる。


「ハンス……早く、早くしてっ。ミーナ様がっ」

「くそっ。縄、縄は何処だっ」


 ハンスはもう堪らなくなった。みすみす自分がいながらにして、カーラを見殺しにするのみか、ミーナ様まで死なしては、ルカにどう顔向け出来るであろう。否、顔向けだけの問題では無い。

 此処でミーナ様を喪っては、武田茜たけだあかねに斬り殺された、ユフとグレゴールの死も無駄となり、ルカが初志を翻して起ったことも、全く虚しい徒労になる。

 それは即ち、ヨーデルの消息を突き止めて、ジパングの密謀を探る中心を失うという事である。全ては元の木阿弥となり終わり、母のヒルデも恩師のリカードも、永世に浮かばれぬまま亡びるであろう。


 無論、密偵ハンスとしてもそうなっては、この半年近くもの間、孤独に帝都で過ごした日々も、艱難辛苦も水の泡となってしまう。

 その時彼は、はっと部屋の隅を見た。彼の視線の先には窓があり、その両脇には帳が垂れている。


「あ、あれだ! あれを使おうっ」


 そう叫ぶや否、彼は腰の剣を抜き、窓枠に下がっているそれを、根元から切り離した。それを近くの棚へ結び、一端を地下に下ろし、口に手を当てて、


「カーラさん、カーラさんっ。今そっちに下りるからっ」


 と、彼は帳をつたって地下に下り、迸る火の粉に煽られつつ、カーラと久方振りに対面した。しかし今は、あれこれ話している暇は無い。

 ハンスはカーラを先導させ、ミーナ様の身体を押し上げて、自分は最後に地下から飛び出した。炎はもう、すぐ後ろまで迫っている。

 カーラは最後に上がって来たハンスを見、


「ハンス、ミーナ様をお願いっ。あたしが先導するっ」

「ああ、お願いっ」


 乱れる火の粉を浴び、紅蓮の大波をくぐり抜け、三人は屋敷の中を駆けていく。カーラは、大廊下の扉を蹴破ること二、三枚、わっと噴き出す煙と共に、屋敷の外に飛び出した。

 後ろにいるハンスは、力無く項垂れるミーナ様の肩を抱き、必死で走るハンスがいる。三人で庭を走って行き、屋敷の裏門が見えてきた――途端、猛風に飛ばされて、燃える板が飛んできた。それは、カーラに向かって真っ直ぐ飛んでいく。

 

「危ないっ」


 と、ハンスはミーナ様を置いて一跳足いっちょうそく! 身体でそれを防いだが、と地面に落ちてしまい、火傷を負った上、何処か痛めてしまったらしい。

 カーラは彼を抱き起こし、心配に声を震わせて、


「ハンス、ハンスッ。しっかりしてっ」

「うう……。カーラさん……」


 だが、彼は流石に気が張っている。駆け寄って来たカーラを心配させまいと、走る痛みを堪えつつ、


「だ、大丈夫だよ……カーラさんに怪我さえ無ければ……」


 蹌踉と立ち上がって、カーラに肩を支えられて、よろよろと歩き出して行く。その直後、炎々たる狂い火が、蹴破られた窓から溢れ出し、大庇の梁を流れて燃え広がり、凍りきった冬空へ、凄まじい火柱を立ち上がらせた。

 左腕にひびの入ったカーラ、火傷を負ったハンス、疲労困憊のミーナ、炭で汚れた三人は、渦巻く火塵を切り抜けて、裏門の外へと出たのだが、後に残った黒屋敷は、炎の魔物に呑み込まれ、辺りの家々にも火を振り撒いている。

 折り悪く、吹き荒れていた烈風に煽られて、炎の跋扈は止まらない。由緒正しき黒屋敷は、数多の書物や秘宝を隠したまま、惜しげも無く燃え盛り、凄絶な地響きと共に焼け崩れた。


 みるみる内に、辺りのお屋敷へ飛び火して、貴族街は炎の海となる。場所は高台、火は強し。帝都から見えぬ所は無い。益々魔風は強くなり、火の粉は庶民街にも舞い散った。

 そうすると、近くのばん、遠くの鐘、陰々と和して街の人々を呼び覚ます。その頃にはもう、黒屋敷から始まった炎の海は、真っ赤な溟渤となって、帝都の南東一帯を呑み込んでいた。

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